中村剛彦 映画にとって詩とは何か⑦
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『山猫』論 その三
   ──ディストピアを生きる詩学


一、コロナ禍のなかで
 これを書いている二〇二〇年の五月半ば、世界はもはや取り返しのつかない厄災に呑みこまれ、日本人である私が住む日本において、迫りくる感染爆発と医療崩壊、そして経済破綻への恐怖が人々の内部で増加している。私自身、コロナ禍のなかで無収入の身となり果て、同時に十五年ともに生き私の生存を支えてくれた愛犬を失ったかなしみの縁で、未来を見出すことの不可能性に悶える日々である。いっそのことcovid-19に感染し死んでしまえばいい、と自暴自棄になりそうな心理状況にある。
 いや、確かにその可能性はあり得る。この世界を覆う疫病は、どうやら終息の兆しがみえてきたと思えば、ワクチンが開発されるまではまた私たちを再度襲うことは確かなようである。だからいつでも日々刻々と増えつづける死者数のうちに自分がその一人としてカウントされる可能性への思慮はまっとうといえる。いつ死ぬかもしれないという覚悟のなかで、世間で流布されている「ステイ・ホーム」や「ソーシャル・ディスタンス」という義務概念が、自分の命と他人の命を同時に守る社会的共同責任を表す裏で、徹底的に「死」を忌避すべきものとしての心理誘導の装置となっていることに、何か暗澹たる思いがする。
 しかし、こうも考える。このコロナ禍で、「死」を迎えることのリアリティをはじめて自分は捕らえることができた。これまでこのヴィスコンティ論の六回の連載で、私自身のなかで「死」をその芸術の中心として見定めながらも、どこか自分がやはり「生」のなかにあって「死」を語ることへのもどかしさがあった。歴史的知識によってヴィスコンティが経験した「戦争」を語りながら、やはり「平和」にどっぷりと浸かっている自分が記す言葉の空虚さがあった。
 今回の災厄は、世界の全ての人がそうした空虚さに対する目覚めの引き金となったとも思える。政治へのこれまでにない期待と失望、科学技術へのこれまでにない期待と失望、そして文化、芸術へのこれまでにない無効性の発見。自らがいざ「死」に直面したとき、私たちはやはり知識人が発する実効性のない言辞よりも、己の「生」を守ってくれる政治と科学への可能性に身を委ねていくのだ。
 そうした慄然とした感覚で、もう一度『ベニスに死す』を観た。そして『山猫』を観た。そしてヴィスコンティが描こうとした「死」というものが、私がこれまで捕らえていた「死」とは違う、もう一つの「死」であることに気がついた。それは「目に見える死」である。映画を撮るという行為が、ヴィスコンティにとって「死」を顕現化させることであった。己が「生」の只中にあって、「死」を、抽象的ではなく、映像の「現実」によって照らし出し、さらにそれを観る者たち一人ひとりの内部に確かな「死」として写しこむということ。これはほとんど映像における形而上学ともいえ、コロナ禍に生きてこそ、このヴィスコンティの映像学に改めて驚きを感じる。
 つまり、この災厄の現世界に生きる私にとって、ヴィスコンティが活写した「死」の動態そのものが、私の中の「死」を照らしてくれるのである。


二、ふたたび『ベニスに死す』へ
 前に書いた『ベニスに死す』論では、「美的身体」と「政治的身体」との一致点を探り、あの作品が一見耽美的でありながらきわめて政治的な作品であることを述べたが、今のコロナ禍では、もう一歩踏み込んで書かねばならないことがある。
 それは『ヴェニスに死す』がコレラに犯された一九一〇年代のヴェニスが舞台であることが、百年後の現代のコロナ禍に犯されたわれわれが生きる世界との類似点を見出せるということ以上に、「その後」の動乱の世界を予言しているとも考えられるからである。そして『山猫』(一九六三)から、『ベニスに死す』(一九七一)を含む「ドイツ三部作」(一九六九~一九七二)、さらに晩年の『家族の肖像』(一九七四)、『イノセント』(一九七五)へと繋がるヴィスコンティ作品を見わたすとき、私たちがいま直面している危機が、実に「近代」そのものが孕みつづけていた「危機」であることに気づかされるのである。
 ではその「危機」とは何か。それを本稿では考えていきたいのであるが、考える前にいま私が感じている感覚を率直に述べれば、「危機」という名ではうまく言い表せない、何とも言い難い「漂い」の感覚である。茫々とした、一枚の葉っぱが「生」と「死」の濁流の水面でぐるぐると回っているような感覚である。いつ死ぬかもわからず、しかし生き延びるかもわからず、一日一日を生きていくという掴みどころのない「漂い」。ましてや全世界の国家の指令が、全世界の「国民」を管理し、個人の生と死の函数が国家存亡の拠所となっているがための、自己存在が蒸発するような感覚である。
 だから変な衝動ではあるが、私の存在を映像作品に焼き付けておきたいと思う。できるならヴィスコンティの「眼」によって。映像は、被写体の死後も「生」の姿がそのままに残されるのは当然だが、その当然のことをヴィスコンティは徹底的に考え抜いているのがわかるからである。目の前の俳優の生き生きとした存在が、あっという間に世界から消え去るということを、実は戦争で何万の人間の死を眼前に見つめていたヴィスコンティはカメラの向こうに見定めていた。だから彼の映像は、「死」が常に目の前に生起しつづけるものであった。そんなヴィスコンティに撮ってもらいたいと思うのである。


三、「ロマン主義」的「イロニー」の本質
 たとえば『ヴェニスに死す』の後半で、主人公の老音楽家のアシェンバッハが美少年への恋の狂気に陥り化粧をしだす。その白塗りの不気味な化粧は、すでに死化粧としての演出を果たしている。これはトーマス・マンの原作テクストでは表し切れなかった映像である。もちろん、言葉による表現は映像以上に反語的であることがある。トーマス・マンは確かにそのシーンを「死」とは逆の、老狂者の不可能な「生」への若返りのための化粧として書いている。

 「……アシェンバッハはのうのうと手足をのばしたまま、やめてくれとも言わずに、むしろ理髪師のすることに楽しく心を興奮させられながら、鏡の中の自分の眉(まゆ)が今までより更にくっきりとなだらかな弧を増し、下のほうの、肌が薄茶色の革のようだったところも、薄く紅をさされてほんのりと赤味を帯び、血の気のなかった唇が苺色いちごいろにふくれ上がり、頬や口の周りの皺しわ、目の周囲の小皺が、クリームを塗られ、若返らされて消え失うせて行くのを見た。──胸をどきつかせながら、彼は鏡の中に一人の若々しい男を発見したのである。美容師はやっと満足したと見えて、こういう種類の人間にありがちの、お追従(ついしょう)
まじりの丁重さで客に礼を言った。「さあこれで、たんとお浮気遊ばすことができます」 うっとりとした客は、夢を見ているように幸福に、格好のつかない、びくびくものの気持で出て行った。ネクタイは赤で、つばの広い麦藁(むぎわら)帽子にはきれいな色のリボンが捲まいてあった。」(トーマス・マン『ベニスに死す』高橋義孝訳)

 アシェンバッハはすでにこのとき、誰もいなくなったヴェニスに蔓延していたコレラ菌に犯され、発熱とともにひとりの美少年タッジオへの狂わんばかりの恋に落ちていた。世間からは大家と呼ばれるほどの名声を博した芸術家の最後を、マンはサディステックなまでに滅ぼすのであるが、その死刑宣告がコレラであることは、いま私のメンタリティと同期するのである。なぜならマンは、『ベニスに死す』の舞台である十九世紀末から二〇世紀初頭の、ドイツ・ロマン主義の残滓が残っていた近代ヨーロッパにおいて、あのロマン主義の「イロニー」の体現者としてのアシェンバッハの「狂気」を描ききることで、近代ヨーロッパの先にある二十世紀の大戦争時代の現実への批評眼を見開いていたのであり、それが私には二十一世紀のコロナ禍に狂騒する我々自身の「狂気」の姿と重なるからである[1]
 ヴィスコンティはそれを一九七〇年に活写した。なぜだろうか。言わずもがな、当時の世界は東西冷戦のうち、いつ核戦争によって世界が滅亡するかわからないという恐怖に怯えていたからである。イタリア・ファシズムへのレジスタンスを経て、ファシストの処刑をフィルムに焼き付けた「リアリスト」ヴィスコンティは、マンが『ヴェニスに死す』で示した、疫病で死にゆく己の姿を予見しながら、何も知らない素振りをしつつ、死化粧を塗って美へと殉じていく芸術家のロマン主義の残影を、核戦争で世界が滅亡せんとすることを知りながら、何かに殉じて生きようとする現代人の「ロマン主義」の「イロニー」に当てはめたのである。
 ゆえにアシェンバッハの死化粧は、もう一つ重要な「芸術」というものがなんであるかを語っている。映画『ベニスに死す』中で、ラストシーン以外でもっとも印象的と思うシーンは、まだ疫病がそれほど知られていないとき(それはヴェニス市が観光業で成立しているために外国人客には秘匿していたという政治的判断であった)、旅芸人がホテルの上層階級の優雅なディナータイムにやってくるところだ。旅芸人の長は不気味な白い顔をしながら、一通りの演目を演じた後、投げ銭を受け取りに客席を回る。そこでアシェンバッハに疫病の蔓延の真偽について問われる。すると長はそんなものは噂に過ぎないと述べて場をひいた後、再びホテル客のなかに分け入り、「ワッハッハ、ワッハッハ」という笑い転げる歌を歌う。そして最後にホテルの敷地から出る際に、現実を何も知らない金持ち連中に舌を出して去っていく。
 このシーンはこの作品を一気にラストシーンへと導く引き金となる重要なものである。なぜなら、疫病が蔓延しているベニスで優雅に過ごしている愚かな大芸術家やブルジョアたちに対して、旅芸人は明らかに「死」の縁の異界からやってきた者たちだからだ。ヴィスコンティの見事な演出はそれを端的に示している。旅芸人の長の不気味な顔の「白さ」が、まさにアシェンバッハが最後に自身に塗る死化粧と瓜二つであることに注目されたい。つまり旅芸人たちが「死者の国」からやってきて、疫病に恐れ慄く「生者」たちを、「ワッハッハ」と嘲笑うこと、まさにこれが「ロマン主義」の「イロニー」=「批評」なのである。
 私はこれこそがヴィスコンティの「詩」(ポエジー)の真髄だと考える。死者として世界の隠された場所から突然現れる旅芸人=詩人の死化粧の笑い。それを死者の到来として映像化し得たヴィスコンティの演出力はずば抜けている。やはり原作に忠実でいながら、原作をここまで先鋭化させ乗り超えていく映像作家は極めてまれと言わざるを得ない。


四、没落を生きる者たち──『山猫』以降
「『アンネッタ、この犬は虫がついて、埃だらけよ。あっちへもっていって、捨ててちょうだい』
 人が死骸を外にひきずってゆくあいだ、ガラスの眼は、人に嫌われ、ほろぼされてしまう事物のあのいやらしい非難をこめて、彼女のほうをじっと見つめていた。数分後に、ペンディゴの死骸は、毎日くず屋が来る中庭に捨てられた。窓から地面にむかって飛んでゆくあいだ、一瞬、犬の形がちゃんとととのった。空中に、長いひげをはやした四足獣が、呪詛するかのようなしぐさで、右の前脚をもちあげて踊っているのを見るかのような気がした。ついで、鉛色の小さな遺骸の塊の上に、ふたたび平和が舞いおりた。」(ランぺドゥーサ『山猫』佐藤朔訳)
 『山猫』にもどろう。右の引用は原作『山猫』の最後の部分である。ヴィスコンティ『山猫』ではこれは描かれていない。なぜならランペドゥーサ原作全八章のうち、ヴィスコンティは六章までを映画化したからである。シチリア貴族が集う大舞踏会の後の、主人公サリーナ侯が自らの死を「死に絵」のなかに写し見、狂騒の世界から逃れるように己の「滅び」を悟るところまでである。
 原作ではその後、サリーナ侯の臨終と、四十年後の二〇世紀に入ったのちのサリーナ侯の末裔たちの姿が描かれる。右の引用は、その末裔のひとりである老嬢コンチェッタのことばである。コンチェッタは『山猫』のなかでもっとも保守的な、イタリア貴族の習慣に絡めとられた凡庸な人間の典型である。彼女はアラン・ドロン扮する新時代を切り開くタンクレディに片想いをしつつ、けっきょくは自らの伝統的精神から抜け出す勇気を持てず、片想いの相手を資本主義的欲望の象徴であるエロティックなアンジェリカに奪われてしまう哀れな娘である。
 そんな凡庸なる女が老いさらばえ、最後に虫だらけの剝製となった犬ペンディゴを捨て「平和」を感じて原作は終わる。ペンディゴは映画でも随所に登場するしなやかな筋肉を持ったドーベルマンであるが、ペンディゴの死後、コンチェッタは彼の剝製にかつての雅やかな貴族社会の日々の記憶を託し、毎日自室でそれを眺めながら老婆へと変貌したのである。実にそれは一九一〇年である。
 このヴィスコンティが省いた第七章から第八章までの四〇年もの間には、教会の俗化がいよいよ目に余る形となり、サリーナ家が屋敷に保ってきた中世キリスト教絵画の数々は、ローマ教会の単なる資産目録のための「遺物」へと転落していった。すでにタンクレディも世を去り、アンジェリカは生きてこそすれ、もはや若き日の美貌は失われ、成金趣味の小狡い老女となった。そしてコンチェッタは己の伝統精神そのものが「遺物」となったことを悟り、過去を打ち捨てるかのように、虫だらけになったペンディゴの剥製を窓から投げ捨てたのである。  
 なんとも無残きわまりない最後であるが、ヴィスコンティがそれを描かなかったのはなぜか。未だ貴族としての誇りを保っていたからか? あるいは映画としてその無残なる最後を撮り切れなかったからだろうか? あるいは犬への愛がまだ残っていたからか?
 当然ながらそのような弱々しい精神から、ヴィスコンティが原作の最後を描かなかったのではない。徹底した「リアリスト」であり「合理主義者」であるヴィスコンティは敢えて最後の二章を描かなかったのである。なぜならヴィスコンティがこの映画で描きたかったものは、単なるイタリア貴族没落の斜陽の美の世界ではないからである。
 ヴィスコンティが映画化した第一章から第六章までは、一八六〇年から一八六二年の二年間であり、これをイタリア近代史から考えれば、「イタリア王国」という近代国家誕生に至るまでの国内内戦期である。前にも述べたが、日本で言えばあの戊辰戦争から明治の天皇制国家樹立に至るまでの過程の様相を呈している。ヴィスコンティはこの二年にのみカメラを絞った。なぜか。
 原作の訳者である佐藤朔の「訳者ノート」によると、一八七〇年にイタリアはローマ教皇領を併合し「イタリア統一」を果たしたとある。しかしウィキペディア等で調べると、そう簡単な話ではないらしい。詳細は近代イタリア史の専門家に任せるとして、要点のみを述べるならば、あの時代はキリスト教圏における「人間」と「神」との戦争の時代であり、「神」が「人間」に屈服したエポックである。それも「国家」の暴力によってである。このことは、日本の天皇制「国家」の問題と照らしても考えられることであるし、その先のイタリア、ドイツ、日本におけるファシズム台頭へとつながる「人間」=「神」を同化させる政治構造を抉る根源的テーマである。
 つまり『山猫』の「その後」は、「神が死んだ」時代、いや「神を支配した」時代であり、かつ「国家」の暴力装置としてのヨーロッパ帝国主義がその歯車を駆動させた時代である。まさに原作『山猫』最後の、コンチェッタが窓からペンディゴの剝製を放り投げた年とはその時代であり、かつ『ベニスに死す』が描かれた時代である。ヴィスコンティの眼はすでにその先に向けられていた。それはナチズムの「狂気」を描いた『地獄に墜ちた勇者ども』の時代である。
 だから、ヴィスコンティが原作『山猫』の最後の二章を省略したのである。原作者ランペドゥーサはあくまでひとりのアマチュア貴族作家であって、最後の二章は没落貴族の無残なる自身の姿を投影したニヒリズムの世界である。「ネオ・リアリズモ」の旗手、ヴィスコンティは違う。ランペドゥーサ同様に中世イタリア貴族の末裔でいながら、二〇世紀に刻々と動いていく「イタリア」という「神」を支配下に入れた「国家」の暴力を、いや世界現実を「赤い貴族」としてフィルムに焼き付け、人々に「これが現実である」と突きつけつづけなければならなかった。そこには貴族のニヒリズムは不要である。語弊はあるかもしれないが、それこそがほんとうの意味での「アート」としてのヴィスコンティ映画を裏打ちする「詩ポエジー」である。


五、『山猫』論のおわり──「悪」のポエジーへの覚醒へ
 うまく私の意図が伝わっただろうか心許ない。私はただ、ヴィスコンティ『山猫』が、単に、いまはなき豪華絢爛な貴族社会へのノスタルジーを描いただけの作品ではないことを述べたいのである。しかしもし、我々がこの作品を観て、そうした貴族社会の栄光に目が眩むような「美」を感じるなら、ヴィスコンティの目論見は見事に達成されている。我々は『山猫』を観たあと映画館を出て(あるいは自宅のテレビやパソコンで見終わって)、日常の世界に戻ったとき、目の前に広がる利己主義が蔓延る現代資本主義社会に頭を垂れて追従せざるを得ない惨憺たる思いを知る。単にエンターテイメント作品を見てスッキリするのとは違う、一人ひとりの中で、得体の知れない者がむっくりと目を覚ますような感覚に陥る。それはまさにヴィスコンティ映画の「美」が照らし出す我々の内奥の「醜」であり、そして「悪」である。いまも4K版の『山猫』が作られる理由は、私たちがそうした自分たちの姿をこの映画によって照らし出してほしいという願望の証左なのかもしれない。
 そろそろ『山猫』論を終えたいが、最後に、ずっと考えてきたこの作品が放つ「悪」の問題に触れたい。
 前回の終わりにランペドゥーサの草稿メモに残されていた、サリーナ侯が書いたボードレールばりの詩を引用した。原作ではけっきょく採用されなかったが、サリーナ侯が詩人であったことは原作を読むと伺い知ることができる。
 たとえば映画のはじめの方で、サリーナ侯が神父と馬車に乗って売春宿に繰り出すシーンがある。神父は当然売春宿には寄らず、サリーナ侯ひとり売春宿に入る。どうやら通いつづけている宿であることがわかる。このシーンは見過ごすことができない。このシーンの後、原作では売春宿からの帰りに、修道院に寄って神父を拾い、屋敷に馬車で戻る場面がある。そのときサリーナ侯はボードレールの『悪の華』の有名な詩「シテール島への旅」の最後の詩句を思い出す。一八六〇年当時、ボードレールはまったくの無名の詩人であったが、サリーナ侯はなぜか知っているのである。
 この詩「シテール島」とは、「古代には愛の女神ウェニスの大寺院があったところ。「シテール」の名は、普通、恋愛、肉の悦びの観念を呼びおこした」(福永武彦『ボードレール全集』〈人文書院、一九六三〉「解題と注」より)とされる島である。ボードレールはこの島にある「三本枝の絞首台」に架けられた己の屍体が獣どもに食い尽くされる様を幻視し、最後に、

 ──ああ主よ! 僕に力と勇気とを与えたまえ、
 この心とこの肉とを嫌悪なく見つめるだけの!

と締め括られる。
 サリーナ侯はこの詩の作者は忘れたが、「とてつもない詩」と記憶していた。そして売春宿の帰りに神父を隣にし、肉欲の罪に堕ち、絞首台で獣に食い尽くされる自身の姿をこのボードレールの詩に重ねるのである。
 確かに映画ではボードレールには直接触れていないが、サリーナ侯がかなりの文学や哲学的教養を持ち、また書斎に望遠鏡を幾つも並べる天文学者であることが描かれている。つねに思慮深く、激変する世界を冷淡に見つめ、新しいイタリア統一国家の国会議員への推薦も断り、さびれたシチリアの古城で己の内部と宇宙を見つめている。こうした存在は、詩作をする姿を見せなくとも、詩人らしい風格を持っており、きっと詩作をしているに違いないと思わせる。
 むしろ映画で名前があがった詩人は、タンクレディとともに革命軍に参加した友人がコンチェッタにプレゼントする詩集の書き手アレアルド・アレアルディであった。当時のイタリア統一運動に参加した、広く読まれた愛国的なロマン主義的詩風とウィキペディアにはある。
 こうした世に広く読まれた詩人がやがて忘れ去られ、まったく読まれなかった詩人が死後に広まっていくというパターンは、私が憧れる典型である。目を背けたくなるようなボードレールの「悪」の詩想をいち早く感受したのがサリーナ侯のようなブルジョワ貴族であり、逆にすべての階級が平等に生きる近代市民社会としての「国家」を勝ち取ろうと革命に参加した一青年が読む流行詩が、やがて忘れ去られる煽動的愛国詩人のものであることの逆説……。文学史のことを知る必要もなく、私たちはそうした逆説の中に生きていることを薄々と感じている。
 そしてこのことは、「悪」の精神こそが、近代以降の人間において普遍性を持っているという証でもあろう。この先、ボードレールの「悪」とは何かという大命題が問われなければならないが、それは次回のヴィスコンティ論へと持ち越すことにして、今回は、前から私の思考のなかにあるハンナ・アレントとヴィスコンティの「悪」と「詩(ポエジー)」について少しだけ触れて終えようと思う。

 ハンナ・アレントの哲学は、今日多くの人が参照するところであるが、私がアレントに惹かれる理由は、アレントが「詩作」という行為に大きな比重を置き、また例の「悪の凡庸」について、「詩作」との連関を示しているところである。アレントは、ナチスの将校たちがヘルダーリンなどの詩を読むような高い人文学的教養を持つ人間でありながら、一篇の時代に残る詩を誰ひとり書き残さなかったことを指摘した。それはつまり全体主義における倫理の抹消の結果であり、「詩作」は、全体主義とは真逆の個の絶対的な「孤絶(アイソレーション)」のなかで営まれる、あくまで人間の「生」を支える倫理的活動であるとアレントは捉えている[2]。だからこそ人間の根底にある普遍的「悪」が崇高なるものに至るという美学がもたらす全体主義の危地に対して、キリスト教的「倫理」と照らしながら、ギリシャ哲学以来ある真に思考し「詩作」することで対決するのだとアレントは言う。
 ヴィスコンティも同じではないだろうか。『山猫』のサリーナ侯は、あきらかにそうした「詩作」の人であった。ラストシーンを思い出してほしい。

 おお 星よ
 変わらざる星よ
 はかなきうつし世を遠く離れ
 なんじの永遠の時間に
 われを迎えるはいつの日か?

 豪華絢爛な晩餐会のあと、シチリアの下町でひとりの少年と司祭が貧しい家に入る姿にひざまずき、暁闇の空を見あげてこう詩をつぶやく。その後、軍隊の銃声が轟き、来る「国家」の時代を担うタンクレディとアンジェリカ、そしてその父親を乗せた馬車が同じ街の「向こう側」へと去っていく。資本家の父はこう述べる。「シチリアもこれで不安がなくなる」と。
 原作にこのシーンはない。ヴィスコンティの「眼」は、この逆説的ラストシーンの先に、つまり馬車が去っていく「向こう側」に、来るべき世界戦争を見定めていた。

 いまコロナ禍で「生」の不安に惑う私たちは、この『山猫』の「悪」と、『ベニスに死す」の「死」へ没入するロマン主義の「イロニー」の「詩(ポエジー)」に何を学ばねばならないか。
 次回は、ヴィスコンティの遺作であり、イタリア・ファシズムの伝説的詩人となるダヌンツィオ原作の『イノセント』を取り上げ、この問題をさらに突き詰めていきたい。
 

[1] この「イロニー」については、ヴァルター・ベンヤミン『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫、二〇〇一)に詳しい。「イロニー」とは芸術家が己自体を解体していく客観的「批評」眼であるとベンヤミンはシュレーゲルの美学から読み取っている。
[2] ハンナ・アレント『責任と判断』(ジェローム・コーン編、中山元訳、ちくま学芸文庫、二〇一六)中「道徳哲学のいくつかの問題」に詳しい。


ルキノ・ヴィスコンティ(1972)
*「映画+詩 影・えれくとりっく vol.7」(編集発行人:杉中昌樹、発行所:詩の練習、2020年6月10日)掲載
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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