中村剛彦 映画にとって詩とは何か③
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『ルートヴィヒ』における愛と刑罰の精神


一、「現実と詩」を結ぶ「声」
 前回、前々回とヴィスコンティ映画への概要を「現実と詩」というキーワードをもとに書いた。今回はさらにそのヴィスコンティにおける「現実(リアリティ)」と「詩(ポエジー)」とを結びつける「言語(ランゲージ)」について考えてみたい。
 とはいえ、それは私たちが日常使用する一国家、一民族の言語のことでも、従来の映画理論において議論されてきた映像言語のことでもない。私がここで問うてみたいのは、ヴィスコンティがそのすべての映画作品を通じて執拗に表出しようとした、私たちが日常に見聞きしたことのない言語であり、かつ必ず私たちが知っている言語、もしかしたら、私たちがその言語を聞いたならば叫び声をあげてしまいかねない、いわば目の前の人間の身体と精神が不気味に発している、謎のごとき言語のことである。
 前々から私はヴィスコンティの映画を観るとき、他の映画作家の作品では感じることのできないある種の異様な声を聞くような思いがする(前にそれを私は「過剰なるポエジー」という言葉で述べた)。それはヴィスコンティ自身がおそらく感じていたであろう、もはや映画というジャンルではどうしても表出しきれないヴィスコンティの内部に騒めいている声であり、それを表出するためにどうしても常識をはるかに超えてしまう長尺映画となり、これでもかと言わんばかりに偏愛する過去の文学や音楽、美術を盛り込んでもなお収まりきらない、どこまでも喉元から溢れ出し、画面全体から溢れ出してくる声である。
 果たしてそれは私だけが勝手に聞き取っている声であるか。幻聴であるか。そうかもしれない。しかし芸術作品を論ずるには、己だけにしか感得できない芸術家の「内声」を聞くことなしには不可能である。もしひとつの芸術作品に真に打たれたと感ずるならば、それは鑑賞者自身の内部にあった未知の声が、作品を生んだ芸術家の「内声」によって目覚め応答したと考えても差し支えあるまい。ではその謎のごとき言語=内声は、ヴィスコンティ作品に特異点として私がみる「現実と詩」をいかに結合させているのか。
 このことをよく示す作品が、ヴィスコンティ晩年に撮られた、ドイツ三部作の完結編『ルートヴィヒ』(一九七二)である。

二、映画『ルートヴィヒ』概略
 ルートヴィヒ二世(一八四五─八六)については、映画化が何本もされ、ミュージカルにもなるなど、十九世紀末ヨーロッパの伝説的な悲劇の「狂王」としてよく知られる。 その人生を概略すれば、二十世紀初頭までドイツ南部に存在したバイエルン王国の王に十八歳で即位。幼少期から芸術愛好著しく、特にワーグナーを崇拝し、多額の援助によって数々の代表作を世に出す。さらに、普墺戦争、普仏戦争とつづく戦争のさなかにありながら、贅の限りを尽くした城をたてつづけに建築し、国家財政を逼迫させてしまう。しかしルートヴィヒ自身は政治を嫌い、城内に篭って芸術の虚構の美の世界、特に同性愛者であったことから美少年たちとの退廃の世界に浸る日々をおくり、やがて精神を病みさまざまな奇行におよぶに至って、家臣たちによって退位させられる。最後は幽閉の身となり主治医の精神科医とともに湖で不審な溺死をする。享年四十一歳という若さであった。
 この「狂王」は美貌の青年であったことから、国民的人気も高く、従姉妹でオーストリアの皇后エリーザベトとの純愛譚も色づけされ(彼女もまた自身の美貌への追求から拒食症に陥り最後は名もない庶民に刺殺されるという「悲劇のヒロイン」に相応しい「王妃」で数々の伝記作品がある)、現在ではほぼ神話化されているといっていい。ヴィスコンティの映画では、この「狂王」の人生を即位の戴冠式から湖の溺死までをほぼ史実通りに、淡々と四時間(公開時は約三時間)をかけて描くが、特徴的なのは、映画冒頭から要所要所に、王の死後に行われた家臣や関係者たちのインタビュー・シーンがドキュメンタリーの演出手法で挿入される点である。この演出によって、メインとなる映像美と音楽を駆使したルートヴィヒ二世の美的世界が、実在の生々しい人物像によって相対化されている。
 私はここで映画『ルートヴィヒ』のどこがどうのこうのと詳細について述べるつもりはない。これについては、すでに多くの解説、評論が書かれているのでそれらに譲るとして、いまここで述べるべきことは、この映画から溢れ出すヴィスコンティの「内部の声」であり、それによって呼び覚まされた私自身の「内部の声」である。

三、ルートヴィヒ二世における「詩」と「権力」
  「死とエロティシズム」の過剰性こそがヴィスコンティ芸術の根底を貫くものであることは前にすでに述べたが、映画『ルートヴィヒ』に至ってはヴィスコンティのエロティシズムは頂点に達し、その同性愛志向は画面全体に満ちている。ネットなどでみると、『ルートヴィヒ』をゲイ・フィルムなどと定義する者もいるくらいであるが、わたしは単純にそのようにカテゴライズするのはヴィスコンティ作品を単なる消費物の一片へと矮小化させてしまう大罪であると考える。
 私にとっては、ヴィスコンティが同性愛志向であろうが異性愛志向であろうが大した差ではない。なぜならすでに「ドイツ三部作」の『地獄に墜ちた勇者ども』(一九六九)、『ベニスに死す』(一九七一)において、その同性愛のエロティシズムは貫かれており、今更ここに及んで注視すべきことがらではないからである。『ルートヴィヒ』において重要なのは性表現などでは決してない。(とはいえ、フィルム版『ルートヴィッヒ』での陰影を駆使した男色の饗宴シーンで微かに見える美少年の男根映像が、昨年施されたデジタル加工によって「陰」が完全に鮮明化されたため「映倫」規定によってぼかしがはいってしまったことはまことに大罪である!)。
 ではヴィスコンティの「エロス」の最重要点とは何か。
 それは政治権力と宗教権力、そして芸術権力を統合させる強力な磁力である。
 いま「芸術権力」などと妙な言い方をしたが、これを「詩権力」とさらに奇妙に言い変えても良い。なぜなら『ルートヴィヒ』において「詩」の代名詞とされるワーグナーの存在は徹底的に卑俗な権力志向の人物として描かれ、かつその音楽と詩は徹底的に「崇高」だからである。ヴィスコンティにとって、「詩」と「権力」は分かち難く固く結びついている。この点において、この映画作家への嫌悪を催す者が多くいることは承知している。しかしそれは単に「詩」を「反権力」の意志の表出媒体と考えている者が陥っている「詩」と「権力」の相関関係の反転意識にすぎない。ヴィスコンティの「詩権力」はそう生易しくない。
 映画冒頭、若きルートヴィッヒ二世は即位戴冠式直前、宮廷付牧師に向かってこう告白する。

「今や不安は心から去り、心穏やかになりました。力の使い方が分かったからです。私には容易に思えます。私は真の賢者や偉大な芸術家を集め、王国の名を高めます。かつての偉大な君主たちのように、私も良い王に。」

 そしてルートヴィヒは「心から悔い改めます」と懺悔の儀式へと進むのである。
 この「王─神─詩」の三位一体のトライアングルによる「力」の行使の宣誓は、最後のルートヴィヒの発狂と破滅を必然的に招くことを私たちはすでに知っている。「近代」へ突入した産業革命後の十九世紀世界において、すでに「王」も「神」も「詩」も、その至高性は形骸化した中世の遺物となりつつあった。ではそれらに取って代わった権力とは何か。それは国民国家であり、当時のドイツであれば、ビスマルクによって統一ドイツ帝国へとバイエルン王国が吸収されていくところの決定的な要因であった、近代新興ブルジョワ産業による「資本」である。もしそうした時代背景を知らずとも、この冒頭シーンに滲み出ているわざとらしい儀式性は、すでに「王─神─詩」の三位一体が過去の遺物であることを現代の私たちに伝えるに十分である。ではなぜあえてそのような遺物をヴィスコンティは「わざとらしく」描いたか。

四、「ドイツ三部作」における現代の病根への凝視
 ヴィスコンティが「ドイツ三部作」で描いたものを整理するならば、
 第一作『地獄の墜ちた勇者ども』における一九三〇年代のナチス・ドイツ帝国誕生と第二次大戦勃発期のドイツ精神、
 第二作『ベニスに死す』おける一九一〇年代のビスマルク体制のドイツ帝国崩壊と第一次大戦勃発期にいたるドイツ精神、
 第三作『ルートヴィヒ』における一八八〇年代のバイエルン王国崩壊と統一ドイツ帝国誕生にいたるドイツ精神、
といった具合に、ドイツの「帝国」精神史を遡って掘り進んでいることは明らかであって、ヴィスコンティがいかに「ドイツ」的なるものが、ヨーロッパ近代精神の「病根」として捉えているかがわかる。当然ながらその「病根」とは、第二次大戦期、ファシズムによって顕になった人間精神の残虐性、いわば「狂気」の顕現それ自体である。
 私たちはともすれば、あのアウシュビッツの惨劇を、ヒトラーという狂気の独裁者の単独の仕業と捉えがちである。ではヒトラーとは何者だったのか? ヒットラーはなぜ選挙によってドイツ国民に選ばれたのか? なぜ私たちはヒトラーの残虐性を見抜けなかったのか? 
 あらゆる歴史書を繙いても、そこに書かれた理屈だけでは理解ができない。ヴィスコンティはこれを「映像」でやってのける。あのヒットラーの狂気、それは『地獄に堕ちた勇者ども』における、ドイツ「資本」の新興財閥家族内における性愛の政治劇の産物であり、『ベニスに死す』におけるアッシェンバッハという「近代」の芸術家個人の精神の偶像崇拝への屈服であり、さらに『ルートヴィヒ』における「王─神─詩」の三位一体の権力を志向する、すべて現代の人間精神であることを、映像によって提示したのである。
 特に『ルートヴィヒ』においては、ヴィスコンティはクローズアップを多用する。権力者の恐怖、安堵、喜悦、絶望、陶酔といったあらゆる「顔」が常に大画面に映し出される。美も醜も、善も悪も、権力者の「顔」ひとつに収斂される。そして最後には権力者の「死顔」が全面に映し出され映像は停止する。「死顔」の背後からワーグナーの遺作「悲歌」が流れる。エンドロールがはじまる。私たちはじっと「死顔」を劇場に明かりがつくまで見つめなければならない。通常の映画であれば、最終部に物語を平穏に導く後日譚が描かれるであろう。しかしこの作品では「死顔」のみである。なぜか。それは、この「死顔」が単にルートヴィヒただひとりの「死顔」なのではなく、「ドイツ三部作」冒頭作品のナチズムが開いた「狂気」の根源にあるものとしての、時代を抉りながらヴィスコンティが突き止めた私たち自身の「死顔」だからである。
 だから、私が思うのは、この「死顔」へのクローズアップは、おのずと監督自身の精神への凝視であり、それを見つめる観客ひとりひとりの己の精神への凝視としての「鏡」の作用をもつ。もはやこれは単なるドイツ精神史を描いた映画ではなく、見る者が日本人であるなら日本人自らの精神史をあぶり出す。そして日本人が過去の産物と退けた「日本の残虐性」をあぶり出す。

五、「詩と現実」を結ぶ「死」
 ここでようやく最初に述べたヴィスコンティ作品における「現実」と「詩」を結ぶ「言語」、ヴィスコンティの内部にある「声」が聞こえてくる。私がその作品の隅々から幻聴のごとく聞くその「声」とは、遠い歴史上に葬ったはずの残虐なる民族の「声」であり、それを聴き、打ち震える己自身の内部に残存する「声」である。わたしのなかには未だ「王─神─詩」の権力体はうごめいているのである。「詩権力」はうごめいているのである。

「夜ほど美しいものはない。夜や月の崇拝は母性崇拝で、太陽や昼は父性崇拝だという。しかし夜の神秘と荘厳さは私にとって英雄たちの王国なのだ。同時に理性の世界だ……。気の毒に。一日中私を監視せねばならぬとは。だが私は謎だ。謎のままでいたい。永遠に。他人ばかりか、自分にとっても。」

 これは「狂王」が映画の最後に述べる言葉である。語る相手はともに溺死する精神科医である。狂王は自らを「理性」の世界の住人であることを述べ、自らを「狂気」と診断するフロイティズムの「知」に対し「気の毒に」と、その浅薄さを軽蔑する。ここに、ヴィスコンティの底知れぬ「内声」の言語化をみる。果たして何が「狂気」で何が「理性」であるか。人間精神にとって「理性」も「狂気」も分かち難く並存する。ある時代の「狂気」がある時代の「理性」に転じ、ある時代の「理性」がある時代の「狂気」に転ずる。どちらにしても最後には、ただひとつクローズアップの「死顔」の残虐性のみが明るみになるだけである。
 ここまできて、これは私の主観的な穿ったヴィスコンティ論であろうかと自問する。そうかもしれない。しかしヴィスコンティの映画人生のはじまりが、第二次大戦終結後におけるナチス兵の公開処刑の撮影であることを鑑みるとき、あながち私の主観は間違いとはいえまい(NHK「BS世界のドキュメンタリー 『アフター・ヒトラー 前編』」参照)。
 若きヴィスコンティは当時共産党員として、戦中のイタリア・ファシズム政権へのレジスタンス運動に参加し逮捕され戦後を迎える。ナチス兵の処刑を撮影する際の思いがどうであったかは私の知る限りどこにも語られていないが、その後の戦後イタリア・ネオリアリズモを切り開き、自らのルーツにある中世王侯貴族の退廃的歴史絵巻へとつづく足跡は、ある意味ではそのナチス兵処刑撮影の際に開示された己の「内声」によって導かれていたのではないか。正義であろうが、悪であろうが、人間が人間である以上、すべては残虐なる存在であるとそのとき知ったのではないか。
 しかしヴィスコンティはその残虐なる「人間」を執拗にエロティシズムの対象として愛しつづけた。残虐ゆえに痛ましく美しい人間存在として、かつ罰し罰せられる人間存在として愛し続けた。そして「王─神─詩」の三位一体の残滓としてのナチズムを導いたヨーロッパ貴族精神の継承者である自身こそが、映画(現実)によって、仮借なく己の血への愛と処刑行為を衆目にさらさなければならないと決心したのではないか。そのヴィスコンティの自己の「血」への愛と刑罰の相まった叫びのような「声」が、私を捕えて離さない。そして、私という人間は何か、なぜ私は人を愛し、欲望し、そして詩を書くのか、それは残虐なる権力への意志ではないのか、そう私自身に問わざるを得ない。それがヴィスコンティ『ルートヴィヒ』がいまなお近代人の末裔たる私たちすべてに投げかける告発である。
 最後に、私が枕頭の書に長くしている、中世と近世の狭間で人間存在の奇矯さを見つめたひとりの詩人の言を引いて今回は締めることにする。

「では、人間とはいったい何という怪物だろう。何という新奇なもの、何という妖怪ようかい、何という混沌こんとん、何という矛盾の主体、何という驚異であろう。あらゆるものの審判者であり、愚かなみみず。真理の保管者であり、不確実と誤謬ごびゅうとの掃きだめ。宇宙の栄光であり、屑くず。」(パスカル『パンセⅠ』前田陽一・由木康訳、中公クラシックス、二〇〇一)​​​​​​​
『ルートヴィヒ』予告編(イタリア語)
*「影・えれくとりっく vol.3  映画+詩 」(編集発行人:杉中昌樹、発行所:詩の練習、2017年11月25日)掲載
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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