中村剛彦 映画にとって詩とは何か②
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ルキノ・ヴィスコンティ・ベストテンを選ぶまでの道程

 今号において、編集者から「ルキノ・ヴィスコンティのベストテン」の依頼を受け、しばらく考える時間が必要であり、原稿が遅延したことをお詫びしたい。実はわたしは映画作品だけでなく芸術作品の優劣というものをこれまでどこにも書いたことがなく、これが初めての経験である。そこで特にルキノ・ヴィスコンティというわたしなどが評価を下すことなど到底不可能な、もっとも尊敬する映画監督の作品に優劣をつけるという至難さをどのように考えればよいか、自分なりに考えてみると、これはおそらく映画批評のみならず、文芸批評の本質に関わる問題にまで打ち当たる。これを考察することで、私がこれから批評、あるいは評論を書く上で肝に銘じておくべきことが抽出されるであろう。以下、短区ではあるが、現在のわたしの批評についての思考の整理を述べてみたい。

1、批評家のジレンマ
 映画に限らず、芸術作品に優劣を付ける場合、結果的には評価する者の主観に頼るしかないことはよく言われることである。世にあまたある芸術賞の選考過程では、選考委員の主観と主観がぶつかり合い、作品の優劣すなわち主観の優劣を競い合うわけだが、大方の場合、社会的影響力の大きい選者の主観が勝るのではないかと思われる。なぜなら賞それ自体がきわめて社会的または世俗的な出来事にほかならず、ノーベル賞を筆頭に、映画であればアカデミー賞やらカンヌ映画祭やらと、腐るほど世俗の匂いをプンプンさせた賞が溢れている。
 いま思わず「世俗」という言葉を用いたが、これを「大衆」と言い換えてもよい。ひとりのサラリーマンが通勤電車の吊り広告にぶらさがる映画の宣伝文句「本年アカデミー賞作品賞受賞!」と書かれたのを見たとたん、まだ観賞しないうちにその作品を傑作と信じ、作品を観なければ社会から取り残される恐怖を覚え、急いで映画館にいく。特に彼は教養人だと自認している大衆である。彼こそ世評の高い作品を貪り喰い、自慢げにブログに評価を述べるが、それは権威ある誰それの批評の巻き返しに過ぎない。当然といえば当然で、すでに社会的評価を得ている作品とは、つまり世俗的評価を得ている作品と同義であり、大衆ひとりひとりのうちにある評価をただ先取りしているに過ぎないからである。
 ここに批評家(大衆)が抱えるジレンマがある。それは彼自らが一大衆であることを自認しながらも、ある芸術作品を自分以上に理解し、感受している者はいないのだという批評家としての孤独なプライドとの間のジレンマである。たとえば「この作品は……氏の最高傑作である」と述べるとき、自らに誠実な批評家は己の内なる大衆性と孤独性との溝に落ち込みもがくに違いない。おそらくこの文言には隠された批評家の精神の闇がある。

「この作品は……氏の最高傑作である……(とはお前たちには決してわからないし、私もほんとうはわからない……)」

 そしてなお、彼が真にその芸術作品を愛しつづけるならば、彼は批評家という高慢な大衆の「代弁者」の衣を投げ捨て、ただひたすら沈黙のまま芸術作品とともに生きることを選ぶだろう。なぜなら優れた芸術作品とは、すでにその内部に芸術家自身による批評精神を内包しており、すべての大衆の眼前に何者の介在もなく開かれてあるからである。あたかもそれは作者不明のキリストの磔刑図のごとく、半眼微笑の仏像のごとく、あるいは一個の捨てられた便器のオブジェのごとく、すべて見る者の内部にすでにある批評性を呼び覚まし、崇高を呼び覚ます。本来、批評家などという他者が介在する場所などどこにもないのだ。むしろ批評家の手により、その芸術作品の崇高さが捻じ曲げられてしまう。批評家がひとつの作品を評価すればするほど、芸術作品は芸術から遠のき、批評家(大衆)の消費財へと堕していく。真に芸術を愛する彼は自らが芸術を殺す犯罪者であることと、芸術愛好家であることの二律背反に苦しむしかない。
 では、なぜ次から次へとそのような批評家が生まれるのか。そしていまここで、なぜわたしは高慢にも批評を書こうとするのか。

2、芸術批評の限界とその超克
 この批評家の内面の亀裂問題は、実に近代芸術が抱える宿痾であって、あのボードレールの詩作と美術批評にまで遡らざるを得ない近代芸術史の壮大なテーマであり、また近代の新聞ジャーナリズムの誕生から現在のインターネットメディアまでの長い歴史も捉えなければならない。なぜなら「神なき近代」において芸術の審判はすべて批評家(大衆)によって成されなければならないからである。とすれば当然ながら、芸術批評には何らかのジャーナリズム的イデオロギーが胚胎することは言うまでもない。大衆とはすなわち政治的存在だからである。
 これこそがヴィスコンティ芸術を語るとき欠いてはならない視点である。つまり彼が映画というメディアが誕生して以来宿命的に内包しているジャーナリズム性とプロパガンダ性をいかに止揚し、芸術作品へと昇華させていったのかを見出す必要があるのである。つまり、世俗のなかで甘ったれた私が書く批評文なるものがいかに安直な批評精神の賜物であるか、これをヴィスコンティ作品から教えられるのみである。私のなかの詩はいかに脆弱であるか……。
 ここで私はよく読返す本の一節を引いてみたい。それは長く敬愛する詩人リルケが書いた評論『ロダン』である。

「こういう仕事(肉づけの仕事)というものは、今までに作られたすべての物の場合と同様でした。それはあくまで謙虚に、奉仕的に、献身的になされ、顔とか手とか体とかの区別なくなされねばならず、その結果、もう名をもってよばれる物は何も存在せず、ひとはただ、あたかも闇の中を先へ先へと進んで行く虫のように、何が今できあがるかも知らずにひたすらに形作るというふうでなければならないのでした。なぜなら、名のある形に向かったら、誰が一体それでもなお無心でいることができましょうか。もし或るものを顔とよんだなら、もうそれで選ぶことにはならないでしょうか。だが、創作者であるということは、選ぶという権利を持たないことです。彼の仕事はどこも同等の従順さで充たされていなければならないのです。種々の形象は、委託された品のように、いわば開かれぬまま彼の手の指をとおって行かねばならないのです。純粋に、そこなわれずに彼の作品の中に存在するために。」(『ロダン』第二部「講演」、高安国世訳、岩波文庫、1941、p90-91)

  これは単にロダンというひとりの天才彫刻家の創作の秘密を解説しているだけではない。この評論を書くことは、二十世紀初頭にリルケ自身が己の詩作の基礎を固めるための方法論の確立のためでもあった。そしてすべての芸術創作における秘儀ともよべるもの、あらゆる対象に与えられた「名」を消し去り、対象そのものを自らの内部に通過させ、作品化させるという人知を超えた創作過程をロダン作品に発見する。この評論があまたある美術批評群と一線を画している点は、リルケがロダンの仕事について一言も評価を下すことをせず、ただつぶさに崇拝する作品と対峙し、思考し、何よりその創作の秘儀への驚きと賛嘆の思いで筆を走らせている点である。
 なるほど、それでは単なる詩人の直感による評論に過ぎない、と批評家たちは言うであろう。しかし、そもそも真の評論とは批評精神を含んでいるものである。リルケは、「考える人」は8点、「バルザック」は6点、「鼻のつぶれた男」は10点、などと書く以前に、この三者における漸次的に深まっていくロダン芸術の美への眼によって、自らの批評精神を鞭打つ。まるでリルケの批評眼とは、ロダン芸術にみずからの裸体を晒しているかのようである。くどいようだがもう一箇所引用する。

「なお、ロダンは、すべての行動者がそうであるように無口です。彼はめったに自分の考えを言葉にあらわす権利を自分に認めません、それは詩人の務めだからです。そして彼の謙虚な心にとっては、詩人は彫刻家よりはるかに上に位置するものなのです。ロダンがかつて『彫刻家とそのミューズ』という美しい自作の群像の前に立って、あきらめに似た微笑を浮かべて言ったように、彫刻家はミューズを理解するためには、みずからの鈍重さの中で言いようもなく努力しなければならないのです。」(同書、P112)

 このようにリルケの「詩人」への自負の熾烈さを誰が真似できるか。師と仰いだロダンを語るのに、自らをロダン以上の存在へと引き上げようとすること、それは何も一般論として彫刻家より詩人が上位にあるということを述べているのではなく、尊敬する彫刻家が作品に込めた「名なきポエジー」を自らが生涯を通して言語化せねばならない、という己自身への挑戦である。あるべき批評精神とは、かくのように己自身を厳しく批評するものであらねばならない。

  3、私のヴィスコンティ作品十選
 よって私自身も、ヴィスコンティ芸術を批評する際、己を裸にしなければならない。何もリルケになろうというのでは毛頭ない。ただリルケ同様に、私が〈詩〉なるものを最後の生の拠り所と盲信するゆえに、そうせねばならないのである。さらには、右に引いたリルケのロダン芸術の把持の仕方は、二十世紀芸術における詩人の位置の足場を組んでいる。

「あたかも闇の中を先へ先へと進んで行く虫のように、何が今できあがるかも知らずにひたすらに形作るというふうでなければならない……創作者であるということは、選ぶという権利を持たない」

 この彫刻家への言葉は、そのままわたしにとってヴィスコンティの「映画」への言葉に変換され得る。特に映画作家がカメラを通して(彫刻家が「目」を通して)世界現実と人間をとらえるときの眼差しの発見の驚きは、近代メディア芸術の本質、つまり芸術家自らが作り上げた作品それ自体によって審判されるという恐ろしい回帰をそのまま示している。
 よって、私は本論でヴィスコンティ作品ベストテンではなく、みずからをもっとも試練にさらす作品十選としたい。それぞれのヴィスコンティ作品がいかに私のなかの〈詩〉を貫いているかの命題を自らに課し、またその作品について書けば書くほどわたしの批評精神の脆弱さを露呈させる十選である。当然ながら以下の順序は作品の優劣ではない。

一、「山猫」:ヴィスコンティは己の血を呪い、そして愛する。ワンカットワンカットどれもが妥協のない貴族ヴィスコンティの内部世界の真実にまで到達している。そこに言い知れぬポエジーが迸る。日本人である私はこの作品を前に、己の身体に流れる何を呪い、何を愛すべきか。これはいまもなお問われつづける「詩人」の究極の問題である。

二、「イノセント」:その人間内部の倫理を超えた性的情念の対象化は、身体そのものへの執拗な眼力がなければならない。詩的言語はこれを捉えることができるか。単なるポルノとは隔絶した、身体の、裸体それ自身の詩(ポエジー)とは何か。

三、「地獄に落ちた勇者ども」:前号に書いたように、「現実」それ自身への凝視のポエジー。

四、「若者のすべて」:自らのイデオロギーが、自らの映像によって覆されてしまうという二十世紀映像リアリズムの極致。映像という仮象世界が、作者を消し去るまでにリアリズムに到達する。思想が映像に敗北する瞬間を決して逃さない思想詩。

五、「揺れる大地」:映画のプロパガンダ性の「現実」による敗北。リアリズムの敗北とイデオロギーの敗北により打ち立てた、いわゆる「イタリア・ネオ・リアリズモ」の確立。前号で述べたように「超現実」ではない。映像リアリズムの内部に蠢くリアリズムへの凝視。

六、「熊座の淡き星影」:詩と映画との亀裂を無惨なまでに表出する。現代の詩はここに無力を知らなければならない。

七、「ベニスに死す」:美的身体それ自体がすべての芸術を凌駕するという映画芸術の究極を呵責なく露呈する。言語と、音楽をも絶する「見ること」によってのみ生まれるポエジー。

八「ルートヴィヒ」:詩と政治の結婚と破滅。これは単なる権力者の狂気のデカダンスではなく、詩の廃滅までの計算されつくされた、日本の現代詩が失った「詩劇」。

九、「家族の肖像」:芸術の現実への敗北。肉体の教養に対する完全な勝利。

十、「夏の嵐」:人間本性の、名づけられない不気味さの放出。男性、女性の性欲の差異を破壊する現代戦争の悲喜劇への冷徹なまでの透視。すべてを観終わったあとに残る「映画」=「現実」なるものの不気味さのポエジー。

以上、ヴィスコンティ十選を記しながら、私のなかの〈詩〉はもはやズタズタに壊れる。もし今後もヴィスコンティ論を書き得るなら、さらに一つ一つの作品と対峙し、私は私の〈詩〉によって自らを審判させ得るのかを〈批評〉しなければならない。
*「影・えれくとりっく vol.2 [映画ベスト10特集]」(編集発行人:杉中昌樹、発行所:詩の練習、2017年2月21日)掲載
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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