竹内敏喜 『魔のとき』
L・Bに倣って 4 (二〇二〇年五月四日)
こうして過ごしている二一世紀初頭の今は
生活するうえでは平穏な環境だと見做せるけれど
この国の詩人にとってもっとも恵まれた時代だといえるだろうか
と、問いにしつつ、「否」と応えそうになるとき
その人は魂の一部分をすでに取り落としているのかもしれない
どんなに貧しても俳人であり通した一茶は詠んでいる
…うつくしや雲雀の鳴し迹の空
それは今年も、すぐ目の前に実現するだろう経験だ
おのれの心のなかに美は留められているという実感でもある
だが次の一句ならどうか
…うつくしや年暮きつた夜の空
これは、安堵の一息のあとの、素っ裸の孤独感ではないか
こんなにも冷たく澄んだ宇宙観を
物欲にまみれた我々が、内面に見出せるとは思えない
調べ直せば一茶の生年は一七六三年
L・Bより七年早いだけで、ほぼ同時代であり
この奇遇に何かを見出せと告げられている気分になる
それならと、卑近にも第九番の合唱を連想し
あの伸びやかな声のひとつひとつを夜空の星に見立て
目を閉じながら自分の居場所を探してみた
そういえば子どものころは自分を天才だと簡単に信じられた
しかしいつからか、座右に染みついた言葉は
「塞翁が馬」でしかない
その凡庸さをあざ笑い、ゆるりと目を開き
このところ、きみの声が聞こえていなかったことに気づく
それだって幸か不幸かわからないまま
今日も、世間を眺めればコロナウイルスの影ばかりで
真昼の空に星々がざわめくかのよう
生活するうえでは平穏な環境だと見做せるけれど
この国の詩人にとってもっとも恵まれた時代だといえるだろうか
と、問いにしつつ、「否」と応えそうになるとき
その人は魂の一部分をすでに取り落としているのかもしれない
どんなに貧しても俳人であり通した一茶は詠んでいる
…うつくしや雲雀の鳴し迹の空
それは今年も、すぐ目の前に実現するだろう経験だ
おのれの心のなかに美は留められているという実感でもある
だが次の一句ならどうか
…うつくしや年暮きつた夜の空
これは、安堵の一息のあとの、素っ裸の孤独感ではないか
こんなにも冷たく澄んだ宇宙観を
物欲にまみれた我々が、内面に見出せるとは思えない
調べ直せば一茶の生年は一七六三年
L・Bより七年早いだけで、ほぼ同時代であり
この奇遇に何かを見出せと告げられている気分になる
それならと、卑近にも第九番の合唱を連想し
あの伸びやかな声のひとつひとつを夜空の星に見立て
目を閉じながら自分の居場所を探してみた
そういえば子どものころは自分を天才だと簡単に信じられた
しかしいつからか、座右に染みついた言葉は
「塞翁が馬」でしかない
その凡庸さをあざ笑い、ゆるりと目を開き
このところ、きみの声が聞こえていなかったことに気づく
それだって幸か不幸かわからないまま
今日も、世間を眺めればコロナウイルスの影ばかりで
真昼の空に星々がざわめくかのよう
竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)。