つむぎ うつくしい物語 ③

化かされたのかもしれない。



狐と女狸



 玄関を開ければまだ暗い。ひんやりとした空気には、明け方まで降った雨の余韻が薄く滲んでいる。水たまりを避けつつ路地を抜け、なだらかな坂を重力に任せて駆け降りる。山の方からかすかに響く鐘の音に、午前六時を知った。
 早朝、しかも三連休の中日とあっては、すれ違う人もいない。カーテンの閉まった窓を横目に、半分眠っているような家々の間を走り抜ける。つま先へ重心を置けば、意識よりもわずか先にスピードが上がる。冷たい空気が喉を締めつける。腹の底から熱い息をぶつけ、狭まった気道を力任せに寛げる。二つ吸って、二つ吐く。歩調に引きずられ、呼吸と鼓動が速くなる。徐々に太くなる道に従って、川沿いを目指した。

 締切からの逃避行である。道連れはなし。孤独な旅路だ。

 カレンダーの赤いマルで囲まれた日付が目に痛い。八つ当たりに時計を睨みつけたところで、針は粛々と右回転を止めない。時間は進む。ところが、原稿は進まない。聞いてはいたが、我が身に訪れるとは考えもしなかった事態であった。
 書けないのだ。一文字も。

 月末完納の約束のもと、もらった枠だった。
 大学の後輩が編集の仕事をしているので、ときおり埋め草の仕事を回してくれる。後輩が手がける少部数発行の月刊誌は、その原資を定期購読者と企業広告に依っている。それがために、私のような輩を幾人か子飼いにしているのだ。
   世は不景気だ。経費削減、効率化、あるいは倒産。理由は様々だが、予定していた広告枠にぽっかり穴が開くことが、ままあるらしい。不景気なので、空いた広告の枠がすぐさま埋まることも無論、ない。すると誌面に穴が開く。そうした穴を埋めるのが、後輩の抱える面子である。前衛詩人、現代芸術家に未来のロックスター、芽の出る気配のない有象無象。
 その中でも古株が、私だった。    
 締め切りまで四十二時間を切った。書けなければ誌面は埋まらない。すると後輩が困る。後輩だけでなく、もちろん私も困る。原稿提出と同時に即・手渡しされる金一封は、すでに家賃へ当て込むことを決めていたのだ。書けなければ、梅干しを潰したような大家に白い目で見られる。月始の挨拶を酸っぱい気持ちで迎えるのは、何度経験しても骨身にこたえる。 
 これはまずいとあれこれ手は打った。
 それでも駄目だった。
 勇んで机の前に座ったところで、画面はいつまでたっても真っ白だ。小さな横棒だけが申し訳なさそうにチカチカ点滅している。闇雲に資料をめくっても、紙の上を視線が滑っていくばかりでさっぱり頭に入らない。放り出して大の字に寝そべれば、今度は頭の中が騒がしい。輾転反側しても綿埃にまみれるばかりである。不貞腐れて深酒をすれば、吐き出せない文字たちが澱のように積もって苦しい。使うあてのないエネルギーは出口を失い、狭いアパートの壁が四方から迫ってくるようで、息が詰まった。
 行き詰まって、息も詰まって、逃げ出した。

    進行方向を海方面、つまり東側へ取れば、白み始めた空が視界いっぱいに広がる。走るのは狭い歩道、左手に国道、川を挟んで向こう側にも往復二車線の道路があり、道路、川、広い道路と並ぶ。この辺は住宅地で、建物もほとんどが低層であるゆえ、空の割合が大きい。川はゆったりと流れ、小さな港を経由して海へと注ぐ。ひとまずのゴールを港に定め、一路東を目指した。
 歩道はあちこち荒れている。割れた敷石を避け、軽く飛んだ。一瞬の浮遊感と着地の衝撃、勢いづいてそのまま二度、三度と意味もなく左右へ跳ねる。わずかに乱れたリズムにも、調和した呼吸は難なく付いてくる。
 こうでなくてはいけない、と思う。
 ひたすらに足を動かす。右左で吸って、右左で吐く。くたびれたスナック、廃れた中華屋、ロープで封鎖されたガソリンスタンドを横目に歩道を走る。開店時間にはまだ遠く、煤けた外見からは店の生き死にを伺うのは難しい。どこもひっそりと息を潜めている。相変わらず人影はなく、車もまばらだ。始発前なのか、バスの一台も通らない。
 足を前へ運べば、踏み出した分だけ先へ進むのが清々しい。こうでなくてはいけない。また、思う。
 書こう書こうと苦心惨憺して、気づいたことがあった。
 「書く」なんて意識している時点で、すでに駄目なのだ。 
 思考が指先を通してキーボードへ流れ込んでいくように、画面が文字で埋まっていく。進みたいと思っただけ、その方向へ進む。勝手に出来上がるように書けることが、これまでに幾度かはあった。自分はまさしくものを書くために生まれたのだと誤解するのにふさわしい悦楽だった。

 悦びに浸り、労働の義務を放り出してただ耽溺して、ひたすら書いて、書き続けて。
 書けなくなって、初めて気づいた。自分の書くものがいかに頭の中だけで出来ていたかを。
 知っていることしか書けない。当たり前の事実に気づいた時には、随分と時間が過ぎていた。
   結局頭ばかりでものを考えているわけだから、書いたものをいざ読み返せば体験に乏しい空虚な文字列。我ながら読むに耐えなくて、エンターとデリートを繰り返すうちにいつしか画面は真っ白になった。
 呆然とした。呻吟の結果、眼前に広がったのはただのゼロ。恐ろしいまでの空白。これがお前の人生だと、真っ白な画面から哄笑が聞こえた。
 は、と大きく息をついて、ぐんとストライドを広げる。頬に当たる風が強くなる。溜め込んだ糖分が燃え、水分と二酸化炭素を白い呼気として排出する。
   体を動かした方が、よほど結果はましだ。少なくとも、足を動かした分だけ景色が変わる。上がる体温に冷たい空気が心地いい。ただ前進するだけの機関となって、静かな町を駆け抜ける。使った労力に等しい成果を得続けるうち、すうと視界が開けた。
   港へ辿り着いたのだ。
 わずかにペースを落とすと、途端に額へ汗が浮く。急に体温が上がったように感じて、首元まできっちり閉めていたウィンドブレーカーのファスナーを引き下ろした。襟元から海べり特有の強い冷気が入り込み、思わず身震いをする。 
 コンクリートで塗られた岸はきっちりと押し固められ、何に使うのかしれない金属の支柱が林立している。海釣りの名所らしいが、等間隔に埋められた係留柱に腰掛ける釣り人の姿も、今はない。
 冷たい空気の中、熱を孕んだ自分が異分子のように感じる。
 港は見渡す限り冷え冷えとして、固そうなものばかり。乱れた呼吸も上がる体温も、余計な感傷や感慨の挟まる隙間もない。
 こういうものが書けたらいいのに、と思う。
 彩りは少なく、見通しが開けていて、すっきりと突き抜けた景色だ。味気がないと言う人もいるかもしれない。けれど、やたら寄せ集めてゴテゴテと飾り付けるよりも、ずっといい。
 灰色とくすんだ青が占める港は、後輩が愛飲する煙草のパッケージに少し似ていた。火のついた先端から立ち昇る副流煙の色にも似ている。ゆらゆらと透けて影を落とし、手ごたえもなく消えるくせに、いつまでも髪や服に絡みつく匂い。後輩は、片目を眇めて煙を吐く癖がある。煙草を挟む細い指には、いつもどこかしらに赤いインクがついている。その指はキーボードを叩き、資料をめくり、ゲラに赤で修正を入れる。
    提出すべき原稿が数珠つなぎに連想されて、溜息が漏れた。
 けれども、家で空回りする頭をただ抱えていた時よりも、心持ちはだいぶマシだった。

 帰ろう。

 足踏みをする程度のスピードで港を一周し、往生際悪くコンビニの駐車場まで足を伸ばしてからゆっくり方向転換した。呼吸も鼓動も安定している。行きたいところまでは来た。あとは、帰るだけだ。景気付けに軽く跳ねてから、徐々にスピードを上げた。
 机の前へ戻ったところで、苦しい空白が待っているだけだ。
 だが、それでも書かねばならない。
 なぜなら、まだ書きたいからだ。私の原稿を、後輩が待っていてくれるからだ。
 高架下を抜け、歩道橋を渡って工業道路を走り抜ける。歩道に乗り上げるように停まった軽には、違法駐車のステッカーが貼られたまま色褪せていた。
 自然に書きたいと、いつだって思っている。
   進む速度に呼吸が伴うように、自律神経的な運動の一環として書いていたい。それはどんなに素晴らしいだろう。思ったまま、感じたままに、見えない糸で綴られた言葉が後から後から湧いて出る。それは理想だ。間違いなく。
 些細な段差につまづきかけたが、ひょいとやり過ごした。
 だが、理想はいつも現実と食い違う。当たり前だ。なぜなら理想は頭の中にあり、この身は現実に置いている。現実は、つねにままならないと相場は決まっているものだ。息をするように書く才などない。ならば呼吸や鼓動の代わりに家中の本をひっくり返し、インターネットの海をさまよい、あちらこちらから寄せ集めてでも、とにかく書くほかない。 
 広告の枠が埋まらないと、後輩は嘆いていた。不況のさなか広告を集め、気難しい執筆陣の機嫌を取り、その上で不測の事態に備えて癖の強い連中を御し続けるのは、さぞ骨の折れることだろう。辛抱強い編集者を、まだ書く場所を与えてくれる恩人を、これ以上困らせるわけにはいくまい。
 ペースを走りはじめの勢いへ戻し、警察署の脇を通って八車線道路へ差し掛かる。歩調に呼吸が伴ったところで、折悪しく信号が赤になった。
   鼻先をへし折られてムッとする。
 心拍を落とさないように軽く足踏みして待つ。が、待っているのが阿呆らしくなるくらい車は通らない。
 相変わらず人影もない。
 咎める者もいないのに、自分一人が意味もないルールに従っているのが馬鹿みたいだ。焦れて舌打ちをする。近頃はずっとこうだ。進みたいのに進めない。ああすべき、こうあるべきの思いに現実が伴わない。うんざりだ。
 耐えきれなくなって、踏み切った。
 歩行者信号は赤のまま、横断歩道がやけに長く感じる。時間にすればわずか十秒にも満たないはずが、むやみと心臓が高鳴った。ちらりと振り向いた白っぽい建物の前に、警官はいない。右を見て左を見て、迷いを振り切るように右左右左、全力疾走で八車線の道路を駆け抜ける。爽快だ。がらんどうの町並みを一直線に突っ切った。
  たんと向こう岸の歩道を踏んだ瞬間、腹の底から高揚が湧いた。堂々たる信号無視だ、どこか出し抜いたような気がして気分が良かった。
 国家権力何するものぞ。興奮したままスピードを上げる。
 ささやかな冒険は成功した。現金なもので、全てがうまく行きそうな気すらしてくる。そうだ、静かな景色を書こう。春まだき、何かが始まる前の予感に満ちた、早朝の景色を字に起こすのだ。勢いのままにいつもの大通りから外れ、細い脇道へするりと分け入った。

    調子に乗ったら足下を掬われると相場は決まっているというのに。

 走る足は翅が生えたように軽い。
 人影は大通りと変わらず、ない。けれども急に、生活の気配が濃厚になった。
 一方通行の、それも乗用車一台がギリギリすり抜けられるかどうかという細い道だ。その道の両脇から、家がせり出している。
 塀いっぱいにプランターをぶら下げた家がある。
 立派な門構えの中に庭をしつらえた家がある。
 かと思えば、プレハブに毛が生えたような建売住宅が三軒、肩を寄せてぎゅうと建っている。
 空き家だろうか、崩れかけた平屋もあった。ブロック塀は深緑に苔むしている。
 新旧が入り混じり、住まう人々のそれぞれに異なった生活の柄が透けて見えた。興味深くそのいちいちに目を留め、のんびりとしたペースで細い道を通過する。それぞれの玄関の向こうに、別々の生活が広がっている。それらは重なり、あるいは一点の交わりもなしに展開されるのだろう。閉め切られた玄関の向こうへ思いを馳せながら走る。道は緩やかに二股へ分かれ、一方の道端に看板が立てかけられているのがふと、目に留まった。

 白い紙の真ん中にひと筋、伏見稲荷神社、と記されていた。

 こんな住宅地に、神社があるのか。 
 思わず足を止め、看板をしげしげと眺める。夜更けの雨に濡れただろうに、ひと筋の滲みすらうかがえない紙面に墨痕が鮮やかである。達筆だ。
 改めて、あたりを見渡す。
 立ち並ぶのは人家ばかり、まごうことなき住宅地だ。神社仏閣が付近にありそうな、森閑とした雰囲気ではない。興味をそそられた。看板の矢印が示すのは、二股に分かれた道の、より細い方である。翅の生えた足はふらふらと、より狭い方へ引っ張られる。鉄錆の滲んだ床屋の看板、飴色をしたガラスの喫茶店、打ち捨てられたようなコインランドリー、乾燥機がごんごん重い響きで回り、だが店内に人はいない。雑多としか言いようのない町並みを横目に半信半疑で右左右左、足を動かす。

 ほどなくして神社は現れた。唐突に。

 木造の一軒家と三階建のアパートに左右を、背後に駐車場を構え、その鳥居はひょっこりと立っていた。塗りのない木の鳥居は、雨風にさらされてしらっちゃけた色をしていた。御参拝の方はお清めください、との注意書きと、ボサボサの竹箒が立てかけてある。一人が詣でればいっぱいになりそうな、小さな、小さな社だった。
 賽銭の持ち合わせもなかったもので、鳥居はくぐらずに外から様子を伺うにとどめる。不躾に眺め、一礼も残さずにまた走り始めた。狐の赤い前掛けが、やけに印象的だった。
 にわかに尻から腰にかけて鈍痛を覚える。久しぶりに走ったからだ。準備運動もしなかった。体力の衰えに苦笑いしながら、さて家はどっちだろうかとぐるり、四方を見渡した。
 自慢じゃないが、方向感覚はいい方だ。ざっくりとあっちが北、とかその程度だけれど、都心で生活するには充分だろう。道路標識、バス停の時刻表、いざとなったら太陽の位置も、いま何処なのかを教えてくれる。子供の頃は、しょっちゅう迷子になっては夕飯時にひょいと戻って、母親にしこたま叱られたものだ。こちらは迷っているつもりなどなくて、ただの散歩としか思っていなかったのだけれど、待つ身とすれば不安で仕方なかったらしい。由無し事をつらつら脳裏に浮かべながら右左右左、縦横に走りつづける。しかし、どうしたことだろう。
 人がいない。
 静かすぎる。
   ここへきてやっと、どうにも周りがおかしいことに気がついた。
 もうどれほど走っただろう。港へ行くのに片道で三十分はかかる。体感としては往路と同じくらい走った感覚だ。家を出たのが午前六時の少し前、そろそろ喫茶店が営業を始めてもいい頃だろう。こみこみした住宅街だ、お掃除のおばさんひとりくらい、居たっていいはずだった。 
 なのに、誰もいない。
 不意に心臓が高鳴った。
 妙なざわめきを払うように頭をぶるんとひとつ振り、スピードを上げる。空は青く太陽は上がり、だが左右からぐんと寄った家々に阻まれて影の方向は掴めない。まだ朝だ、車の一台でも通れば、向かう方が大通りだと見当もつくけれども、聞こえるのは自分の呼吸と鼓動、それに足音だけだ。肩越しに振り返れば、どこまでも似たような人家が連なるばかりだった。
 右左右左、何かに追い立てられるように走ったからだろうか、些細な段差につまづき、転んだ。無様に転倒し、ハッと見上げれば、白い紙に墨痕鮮やかな看板。
『伏見稲荷神社』
 背筋が、ぞぉっとした。



 這々の体で書き上げた頃には午後十時を回っていた。締め切りの二時間前である。
「やあよかった、お待ちしてました」
 まだ痛む尻をさすりながら私用の携帯へ電話をかければ、快活な声の合間にタイピング音が響いた。定時などとうに過ぎただろうに、どうやらまだ会社にいるらしい。おそらく、私のせいである。いきなり罵倒されなかったことにまずは胸をなでおろし、後輩の待機も終了ということで、原稿を手渡しがてら酒を飲むことになった。
  地下鉄の駅からも私の家からも歩いて十分ほどの居酒屋は、暖房が効いて暑いくらいだった。となればやはり一杯目はビールである。
「お疲れさまです」
 ごつんとジョッキをぶつけるなり、後輩は一息に半分ほどを飲み干して、気持ちのいい笑顔を見せた。
 後輩は、名をポンちゃんという。
 徳島県の生まれらしい。本名は裕子だったか結衣子だったか、最初はゆーぽんだったのがつづまってポンちゃんになったのだ。名付け親は不肖この私である。本人も気に入ったらしく、ほうぼうで自ら「ポンです」と名乗って回った。
 じきに彼女は「本好きポンちゃん」として知られるようになり、本名はいよいよ忘れ去られた。我らが民俗研究会において誰よりもよく読み、書物を愛した彼女は、卒業と同時に大手出版社へ就職して現在に至る。ちなみにサークルへ所属していたうちでもろくでもない数名は、今でも彼女の子飼いである。
「ご苦労をおかけしたようですね」
 やわらかく緩ませた眦に、薄くくまが浮いている。私の仕事は決まった文字数を決まった納期に上げることだが、彼女の仕事はこれからだろう。しかも、連絡もせずに締め切り当日を迎えたのは、今回が初めてだ。申し訳ないことである。
「いや本当に面目無い限り」
「ま、テッペン前ですからね。ぎりぎりすべりこみセーフでしょう。次は、私もも少しこわいですよ」
 深々と頭を下げれば、後輩はテーブルの向こうから腕を伸ばして肩を叩いてくれた。ついでに南京豆の小皿をこちらへ押し出すので、遠慮しいしい一粒つまむ。後輩はむんずとひとつかみを口へ放り込んで軽快に噛み砕きながら、でも、とわずかに首を傾けた。
「先輩が音信不通になるなんて珍しいから、正直心配したんですよ」
「申し訳ない。本当にごめんなさい」
「やだなあ、なんでそこで謝っちゃうんです」
 ほら飲みましょ飲みましょ、と早々に二杯目を注文する後輩だ。その朗らかさに救われる思いで、ようやくビールに口をつけた。
「一言も連絡くださらなかったってことは、相当しんどかったんでしょう」
「そうだね。なにせ書いた端から自分の手が消していくんだ。悪夢だよ。何を書いてもピンとこなくて。できれば、もうあんなの経験したくないなあ」
「残念なお知らせですけれど、書けない期間は定期的に巡ってくるものらしいですよ」
 ゾッとするようなことを言わないでほしい。怖気を震わせたこちらを笑い飛ばし、後輩は悪戯っぽい目で「どうやって抜け出したんです」と身を乗り出した。
「うちのセンセイ方も皆さん、かわりばんこに陥る穴です。おかげで私は毎月、残業のレッドゾーン入りでしてね。特効薬があったなら、ぜひ教えていただきたい」
 単に締切に追われ、物理的に逃げ出しただけなのだが。ぐいとにじられてわずかに身を引く。古馴染みとはいえ、妙齢の女性に身を乗り出されると変に緊張してしまう。だが後輩は今回の原稿を切り口にしてあれやこれやと突っ込んでくるので、結局洗いざらいを白状させられることとなった。
 まったく、書いたものを人に読まれるなんて、パンツを脱ぐより丸裸だ。
「ははあ、つまり頭が動かないから体を動かした、と」
「簡単に言えばそうなるなあ」
「いいんじゃないですか。頭と体は繋がってますからね」
 干からび始めた漬物を胃袋へ片付けつつ、後輩は三杯目のビールを飲み干した。後輩は健啖家だ。深夜にほど近いというのに、鳥の唐揚げにポテトサラダ、すじ煮込みに焼うどん、次々彼女の口へ吸い込まれていく。よく飲みよく食べ短く眠る、は編集者の鉄則なのだそうだ。身を以て実践する彼女に、見ているこちらの胃が重くなる気すらした。
「そういえば、思い通りにいかなくてもやもやすることを『不完全燃焼』って言いますね。ちゃんと燃えたら熱が発生して二酸化炭素と水ができるけど、うまく空気が回らないと中毒性のあるガスが出る。うーん、ずっと机の前に座ってたら、先輩は今頃窒息してたかもしれませんねえ」
「逃げ出した先で道に迷ってしまったもんだから、結局苦しかったけどね」
「先輩、方向音痴でしたっけ」
「失礼な。民研の方位磁石と呼ばれた僕だぞ」
「寡聞にして知りませんが」
「そりゃポンちゃんたちが入ってきた頃には、みんなスマホ持ってたからな」
 地図の読み方を知らなくたって、目的地にたどり着ける昨今だ。GPSの元では知らない道など、あってないも同然だろう。その昔、酔っ払って「駅はどっちだあ」と胴間声を上げる諸先輩方を無事に最寄り駅まで送り届けるには、たいそう重宝されたものだが。
 まさかその自分が道に迷うなんて、あの時まで思いもしなかった。
 墨痕鮮やかな『伏見稲荷神社』の看板が脳裏をよぎる。
 かえすがえすも、おかしな体験だった。
 走っても走っても似たような町並み、一歩踏み出すごとに足腰が痺れ、息を切らし、胸は苦しく、もうこれ以上走れない、と思った瞬間だ。
 ぽん、と見覚えのある通りへ出た。
 つんのめったように足を止めた。八車線の大通り、反対側に見える豆腐の角を落としたような建物は、まごうことなき警察署。ひっきりなしに行き交う車の向こうで、赤と白のポールを構えた警官が退屈そうに立っていた。呆然と立ち尽くす鼻先を、鈍い排気音を響かせてバスが通過していった。
 あれだけ走って、どうやら元どおりの場所に戻ったらしい。信じられぬ気持ちで振り向けば、箒を持ったおばさんと目があった。不審げにこちらを睨めつけるおばさんには不器用な会釈をぎっくりと返し、痛む足と尻をかばいつつ家まで逃げ帰った。もちろん、今度は大通りだけを走って。
 狐につままれたような、まったくもって面妖な体験だった。
「稲荷に手を合わせなかったのが原因だったのかもしれないな」
 二杯目と四杯目のビールが到着し、乾いた喉に潤いが補給される。脱稿の清々しさにアルコールが加わって、舌の回りが滑らかになった。
 明らかに放置された神社、手の一つも合わせず、眺めるだけ眺めて走り去ったのが、お使い狐の怒りに触れたのかもしれない。
 冗談めかして付け加えたら、後輩はどうしたわけか、飲んだ酒が酢であったような顔をする。
「何馬鹿なこと言ってんです」
 重い音を立ててジョッキをテーブルに戻し、深々とため息をついた。
「狐はもっと悪辣です。熊を騙して畑を耕させたり、かわうそ騙して魚を分捕ったり、ずるい奴なんですよ。ちょっと人間を迷わせるなんて、そんな自分に得のないことはしない。ましてや神罰だなんて。狐がそこまで高尚なことするもんですか」
 語気が荒い。なんだろう、ポンちゃんは狐に恨みでもあるのだろうか。
「先輩のお住まいはほら、お寺の近くでしょ。県の指定林があるところ」
 こちらの戸惑いをよそに、頬杖をついた後輩は、薄ピンクに染めた爪ですうっとテーブルの上に線を引いてみせた。
「あの辺りはね、こう……山を取り囲むように道を作ってますからね。だからでしょう」
 爪はテーブルを伝って山に見立てた灰皿の縁へたどり着き、そこから螺旋を描くように虚空へ見えない道を引く。てっぺんまでたどり着いたところで、今度は蛇行の軌跡でゆるゆる降って、くすぶっていた吸いさしをつまんで深々と一服した。
「ぎりぎりまで山肌を削って、稜線に沿って道を作ってあるんです。大通りはそりゃ整備されてますけどね、一本入ればあちこちくっついたりかしいだり、まるで脳味噌みたいにくちゃくちゃで、皺だらけの道ですよ。迷ったって仕方ない」
「これでも、方向感覚には自信がある方なんだが」
「人間なんですから、そんなこともありますって」
「そうかなあ」
「そうですよう」 
 首をひねって疑念をビールで流し込むが、腹の底に溜まっただけだった。
 道の方は、まだいい。
 だが、あんなに人がいなかったのはどういうわけだ。
 三連休の中日、朝寝をする者は多いだろう。だが再び大通りに放り出されるまで誰ともすれ違わなかったのは、流石にちょっとおかしい気がする。田畠に囲まれた村ならまだしも、ここは腐っても政令都市だ。
 家に帰って時計を見たら、午前九時を回るところだった。六時前に家を出て、港まで走って三十分、戻るのに同じだけかかったとして、ゆうに二時間近くも彷徨っていたことになる。犬の散歩をする人くらい、すれ違っていてもよかったはずなのに。
 灰皿で火種を丁寧にすりつぶし、後輩はぺこりと頭を下げた。
「ま、ともあれ脱稿、おめでとうございます」
 おどけた仕草に、ひとまず疑念は腹のなかへしまったままでこちらも頭を下げる。
「スランプはしんどいけど、書けると、やっぱ嬉しいな」
「これで先輩も職業作家の仲間入りですね」
「なんでだよ」
「スランプですって。書き続ける人だけがその言葉を許されるんですよ」
 言外に休まず書けと脅されて、いよいよ頭が上がらない。平身低頭のこちらへ、後輩はニヤニヤ笑うばかりである。だが何はともあれ、あの恐ろしい空白を乗り越え、書き終えた。今宵は軽口の一つや二つ許されたいものだ。
 とはいえ相手が悪かった。一つ二つ言えば三つ四つを返してくるのが、敏腕編集者ポンちゃんだ。
「それにしても今回はしんどかった。難産だった。産みの苦しみだった」
「よかったですね、生まれ変わらなきゃあ味わえないやつじゃありませんか」
「減らない口だな」
「先輩の教育が良かったもので」
「育てた覚えはないぞ」
「ご存知ですか?人という字は二人の人間が背中合わせに支え合う形からできてるんですって。みんなおかげさまです」
 編集者にあるまじき放言のもと、後輩は頭を反らせて笑った。タートルネックの首元に小さなダイヤが光っている。
 時計の針はまもなく重なろうとしていて、そろそろ終電が近い。ところが後輩は気にも留めない様子で新しい煙草に火をつけ、ぷかりと煙の輪っかを浮かばせた。ふわふわと漂ってきたのをふうっと吹いて散らすが、重たい煙がまとわりついてうっとうしい。
「あら失礼」
 と後輩は格好ばかりぱたぱたと払ってくれるけれども、匂いはきっと染み付いて、風呂に入らなければ取れない。ここは先輩風を吹かせてやるべきかと、あえて苦言を呈した。
「モテないぞ」
   先輩としての威厳を意識したつもりだったが、後輩は両の鼻穴から傲然と煙を吹き出し「そんな狭量な御仁はこっちから願い下げです」と胸を張るものだから笑ってしまう。
「いちいち古くさいなあ、ポンちゃん幾つだい」
「三百飛んで二十七歳になりました」
 ああ言えばこう言う。口の減らない子である。まあ、これくらい打たれ強くなければ編集者なんて務まらないのだろう。一人で納得する向かいで、うまそうに煙を含んでゆっくり細く吐き出し、後輩はすうと目を細めた。
「あのね、先輩。連載やりませんか」
 箸先からつまんだきゅうりのぬか漬けがぼとりと落下する。
 何か、信じられないことを聞いた気がした。
「……なんだって?」
「連載ですよ。来月も、再来月も書いてほしいんです」
 皿へ落ちたところを再度つまんだが、箸を掴む手が震えているので何回も取り落とす。後輩は動揺する私を面白そうに眺めてから、居住まいを正した。つられてこちらも箸を置き、背筋を伸ばす。
「ご存知の通り、出版業界は先細りです。あっちこっちで雑誌が廃刊になってるでしょ。私のとこだってそうです。月刊誌は広告と、固定のお客様からの需要で成り立ってる。広告はそう増えないし、増やせない。でも私は続けたい。だったらお客さんの方を増やすほかありません」
 後輩の声が、夢のようなことを言っている。
 連載。
 私が?
 書けなくて、パソコンの前から逃げ出して、挙句道に迷った私が。
 経験に乏しく、定職にもつかずにふらふらしている、この私が。
 月刊誌に、連載だと?
 心臓が高鳴る。舌の根が乾いて、空唾を飲んだが喉の奥がひりつくだけだった。だらだらと冷や汗を流す私に、後輩はぽんとトドメの一言を放った。
「私ねえ、先輩の書くコラム好きなんですよ」
 本当に、ポンちゃんは腕がいい。
 その一言が、書く側にとってどれだけありがたく、舞い上がらせるものなのか、きちんと了解しているのだ。
「書けるだろうか」
「大丈夫です、ちゃんと追い詰めますから」
「うう、お手柔らかに頼むよ」
「お任せください」
 どんと胸を叩き、好きに書けと太鼓判を押してくれる後輩に、今度こそ感謝の念を込めて深々と頭を下げたのだった。上がらぬ頭の上で、柱時計が重々しく十二時を告げた。
「そろそろ行きますか」
 明日も出社するはずの後輩に促されて席を立つ。懐の原稿料を内心であてにしつつ、詫びに奢ろうと提案したところ、プー太郎がなに仰るんですと伝票はあっさり奪われてしまった。
「経費で落としますよ」
 男前極まりない台詞である。鼻白んだ気配を察したのだろう、振り返った後輩は「これが言いたくて私は会社に入ったんです」と大きく口を開けて笑った。ヘビースモーカーのくせに真っ白な前歯が、チラリと唇からのぞいてすぐに隠れる。
「あ、ごめんなさい。大きいのでもいいですか」
 男前な彼女の後へ続いて向かった勘定場で、後輩が財布から取り出したのは、確かに大きな。
 青々とした、葉っぱだった。
 ぱちぱちと瞬きをする。
 目がおかしくなったのか。瞼を閉じ、また開いても、華奢な指先が摘んでいるのは葉脈のくっきりと浮きだした、手のひらほどもある、つい今しがた、枝からもぎ取られたように瑞々しい。
 どう見たって、木の葉であった。
「……葉?」
「は?」
「いやだってそれ」
「なんですか」
「何の冗談だ」
 それ、と指差してやれば、後輩も不審げにくりっとした黒目を手元へ落とす。長い睫毛が目元のくまへ影を落とし、後輩は手の中の葉をしげしげと眺め。
 一拍おいて、吹き出した。
「やあだ、間違えちゃった」
 葉を財布へしまい直し、改めて取り出した一万円札を親父さんに渡す。「こないだ公園で拾ったんです。綺麗でしょ」とペロリと舌を出すのに、固まっていた親父さんも相好を崩した。透かしを確認することもなく受け取り、数枚の札と小銭を引き換えに返す。いやまあ、疑う必要などないのだが。
「あ、領収書ください」
「へい毎度」
 受け取った領収書を財布へしまうところで、わずかな隙間からまた、ちらりと青い葉が覗いた。
 縄暖簾をくぐり、外へ出ると早春の風が冷たい。裸の街路樹も寒そうに身を震わせている。とはいえ暦の上ではとうに春、瞬きをする間もなく葉を茂らせるのだろう。さて、それまでに締め切りはまたやってくるわけか。身震いし、いやこれは武者震いだと自らに言い聞かせたあたりで、違和感が脳裏をかすめる。
 けれど隣の後輩がポケットを探り、またしても煙草を咥えたもので、全注意力がそちらへ向いた。ぎゅっと眉間に皺が寄る。
 この辺りはまだ喫煙禁止区域ではないが、さすがに歩き煙草はいただけない。行儀の悪い後輩である。
「こら、」
 先輩らしく口を開いたところへ、火のついた煙草が押し込まれた。息を飲む。
    頭一つ分小さな彼女が、腕をまっすぐに伸ばして笑っていた。
 細い人差し指と中指の先が、一瞬だけ唇へ触れた。すぐに離れて、乾いた感触だけを置き去りにする。
 ひんやりとして、滑らかな指だった。
 つんと独特の匂いが鼻先を掠め、風もないのに漂った煙がふわりと私を取り囲む。

「おかえりはお気をつけて。狐に化かされないようにね」

 踵を返す後輩の足元で縞模様のスカートがわだかまり、太い尻尾のような形を作った。
 

つむぎ
1985年、横浜市内に生まれる。横浜市内でずっと育つ。
今のところ動くつもりはないが、つもりがないだけである。
好きなものはコーヒーとバタートーストとチョコレート、苦手なものはわさび漬け。
AB型。
趣味は社交ダンスとカラオケ、特技はラテアート。
移動手段は主に自転車を使用。
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