つむぎ うつくしい物語 ②

クビキリギスの夜

 ディスプレイの真ん中にアラームセルが浮上する。
 セルは密やかに点滅し、午前一時を知らせた。途端、押し出していた感覚が戻ってくる。こわばった肩、きしむ背骨、痛む尾骶骨、組んだまま冷えた足先。肉体は、少々不快だ。
 窓の外で虫が鳴いている。チューニングの合わないラジオに似て、途切れず一定に鳴いている。目立った強弱もなく、始まりがわからぬほどに長く響く。マウスを動かし、右端の×をクリックしてポップアップを消去した。
 あらかじめ我に返るための仕掛けをしておくのは、現実に引き戻してくれる手がないからだ。単純作業は時間の感覚を失う。おまけに、ディスプレイの向こうとはいえ、ファストフード店の色味はあまり目に優しくない。
 眼鏡を外し、眉間を揉んだ。瞼の裏に凝った熱を散らすように、執拗に揉み込む。ぎゅうと強く目頭を押すと、深いため息が出た。そのまま目を閉じる。
 虫の音ばかりがうるさい。
 この辺りは子育て世代が多く、日中は生命の気配が濃厚だ。子供の足音や主婦の世間話、廃品回収車のアナウンスでそれなりに賑やかである。動物も多い。猫や狸、ハクビシンを見かけたこともある。彼らは夜行性だと聞くが、窓の外に蠢く気配はない。生き物はあらかた寝静まったのだろう。
 鳴くのは虫ばかりである。
 この虫の、種類も名も知らない。鈴虫やコオロギとは違う。あれらが鳴き始めるのはまだ少し先だ。うるさいにはうるさいが、蝉のけたたましさとも違う。もっとざらついた、脳の壁を粗目の鑢で丹念になぜられるような音だ。まだ続いている。息の長い虫である。
 こめかみにひやりとした空気を感じ、ゆっくりと目を開いた。真っ暗に塗られた居間は、ブルーライトに照らされたテーブルの周辺だけが取り残されたように明るい。横目でとらえた窓は闇に向かってぽっかりと口を開けている。
 隣は空き地で、元は宅地であったのだろうが今のところ建築予定はないらしい。更地になったのはどれほど前なのか。がちがちに締まった石ころだらけの土地には、それでも毎年律儀に名も知らない草が生える。いくつかは幼い頃にむしった植物に似ていたが、夏の盛りには胸の高さまで伸びるそれらは、かつて手のひらに馴染んだのと同種とは思えない猛々しさだ。風の強い日にざわつく気配にはときおりどきりとさせられる。幸い今はまだ、騒ぐほどの高さではない。虫の声がなければ、静かで、穏やかだ。
 三年ほど住んでみてようやく分かったのだが、空き地は全く放置されているというわけでもないらしい。勢いが収まる秋口になると、一台のトラックが乗り込んで草を払う。電動鋸がうなりをあげて、伸び放題のぼうぼうを端から切り開くのだ。薄茶色の泥が擦れたタオルを巻いて鋸を振るう姿は勇ましく、管理者というよりもむしろ開墾者のようであった。
 その姿を見たのは、一度きりだ。早い時間から始まった作業は、秋の短くなった日が落ちきる前に終了し、空き地は野放図から丸坊主になった。夕陽を浴びてなお青々とした草を荷台に積み上げた開墾者は最後に煙草を取り出し、せわしなくふかしながら運転席へ乗り込んだ。吐き出された煙は排気ガスと混ざり、すぐに消えた。
 積まれた草たちの行き先は知らない。いずれ埋められるか燃やされるのだろう。表に出過ぎれば払われ、処分される。世の習いだ。神のものは神へ、荒地は荒地へと。取り残された生々しい緑も、やがてくる冬には枯れ果てる。
 だが、と闇に満たされた窓へ目を向けた。街灯は遠く、四角く切り取られた黒には影すら浮かばない。
 然り、開墾者は勇ましく、瑞々しく柔らかな草は電動鋸の前ではあまりに非力だ。半年かけて育った背丈も鋸のひと振るいで落とされる。けれど、表出した部分をどれだけ切り取ったところで、時が満ちれば再び芽を出し葉を増やす。根は生きているのだ。
 実際、冬を経て春を過ごした空き地はすでに旺盛な兆しを見せている。開墾者の労働は儚い。あくまでも隘路を開き、わずかな見通しを確保するのに過ぎない。目の前の私道はおそらくふた月もすれば塞がれる。空き地は蔓性の植物の縄張りだ。地中に残った根は地表へ顔を出し、執拗に這い、絡み、伸びる。そして塞ぐ。今はまだ脛にも届かぬ高さだが、隠れ家としては十分なようで、このくらいになるとうるさい虫が鳴き始める。
 いったいどこに隠れているのだろう。あの音は草陰に隠れるにしては大きすぎる気がする。
 はたりと虫の声が止まり、ふっと明かりが消えた。入力が途絶えたので、ディスプレイが役目を終えたと誤認したのだ。連ねた数字はブラックアウトしたスクリーンの向こうに隠れ、窓の外と中が同化する。虫がうるさく鳴いている。
 知らず息を潜めた。

 妻がいない。

 明るくすると部屋が広く見えるのが嫌で、天井灯をつけなかったのが、却って逆効果だ。壁も床も窓も区別なく真っ黒に塗られ、広大な闇に押しつぶされる。自分がとてつもなく小さく思える。どうしたって不在の気配は消えない。
 見知った体積が空間を埋めていないことに動揺する。妻がいない。
 深く呼吸し、努めてゆっくりと、肩の力を抜いた。
 こうして一人、ダイニングテーブルの定位置へ尻を落ち着けていると、どうしても向かいに妻が座っている気がしてならない。埋められるべき空間がぽかりと空いているので、勝手に存在を補うのだ。開けた視界に慣れないまま、一週間が経とうとしている。
 妻は泉佐野の実家へ行った。勤勉な労働者であった彼女は、丸々二年分溜まっていた有給休暇を活用して長い産前休暇を取得した。まだ動けるうちに地元の友人に報告がしたいのだと、膨らみが目立ち始めた腹とスーツケースを抱えて意気揚々と新幹線に乗り込んだのが、月頭のことである。
 新幹線のドアが閉まった瞬間、これまでの生活が終わる音がした。
 二人きりの時間は終わってしまった。
 ホームに立ち尽くし、よぎったのは偏狭な思考であった。次に妻が帰るときは、両腕に子供を抱えているはずだ。ふくふくと丸い、新しい命と、少しやつれているであろう妻の笑顔。どうにも、喜びが湧かない。滑らかに走り出す新幹線を見送りながら、心の狭さにうんざりした。 
 妻に出会い、生きる単位が二人になった。
 見送り、出迎え、家の中に自分以外の存在が息づく気配。彼女といることは、一人でいるよりもはるかに、ずっと自然に感じられた。妻と二人の生活は良かった。穏やかで、満ち足りて、平和だった。だから、内心恐れていた。妻でも、自分でもない生き物が、この家にやってくる。
 闇に目を凝らす。
 気配はない。無音に鼓膜がじりじりと痛む。
 腹のなかに息づいている命は、二人の空間を脅かす侵略者に思えた。自分の子供に対して、無責任な感情だとは重々承知している。本来はただ喜び一色にまみれているべき出来事だ。「ゆっくりしておいで」と言った自分の唇は、引きつってはいなかったろうか。妻は常の羽毛めいた笑みを浮かべていたのだが。
 ため息をつく。部屋は真っ暗で、動くものは何もない。戯れにキーを一つ叩けば、ブルーライトが甦る。ほんのりとテーブル周りが冷たい光に包まれ、角を黒く落としたリビングに、妻はいない。

 さみしいのだろうか、自分は。

 喉の奥から苦笑が漏れる。さみしい。いい歳をした男が。
 くっくっと含み笑い、サブウィンドウを開いた。眼鏡を丁寧に拭いて掛け直し、一時停止をかけていた動画をクリックする。無音の映像が流れ始め、ゴミ箱にトレイが差し出されるたびに止める。くしゃくしゃの包装紙、潰された紙コップ、丸められたペーパーナフキン。分類し、種別ごとセルに数字を書き込んで、再生ボタンを押す。胸の空白のかわりに、表を数字で埋めていく。
 然り、自分はさみしいのだ。
 二人で生きるのは、互いの一部になることだ。だから一人になった今、こんなにもさみしい。腹の真ん中を冷たい風がすうすうと吹き抜ける心地である。
「馬鹿馬鹿しい」
 口の中で自らを叱咤する。馬鹿馬鹿しい。今生の別れでもあるまいに。気弱になったものである。彼女に出会うまでは、ずっと一人で生きてきたではないか。
 一人で生きていきたくて、一人で出来る仕事を探した。誰のものでもない仕事、だから誰もやらない仕事、そういう半端仕事を請け負って、どうにかこうにかやってきた。一生一人で生きていくのだと思っていた。妻と出会うまで、自分はそうして生きてきたではないか。
 キーボードを叩き続ける。単純作業は酩酊に似ている。画面に目を走らせ、エンターキーを叩くたび、胸の空白が薄くなる。作業に没頭すること数刻、五感が遠のき、キーボードを叩く指の感覚すら虚ろになる。我も個も彼方へ去り、親しみ馴染んだところの無に支配される。
 前触れはなかった。

 ピンポン、と。
 ドアベルが鳴った。

 はっと顔を上げる。壁際のモニターを振り返れば、間違いなく来客を知らせて光っている。気のせいではない。一拍置いて、心臓がばくんと跳ねた。
 ディスプレイの時計に目を走らせれば、数字の二と零が冷たく光る。来客の予定などない。当然だ。
 深夜である。真夜中である。生き物はとうに寝てしまった。だってこんなに静かで。
 この部屋には、私のほか誰もいない。
 むやみに心臓が高鳴る。シャツの胸元をぎゅうと握ったが、とうてい収まりはしない。やたらと送り出された血液が指の先を痺れさせる。息までが弾む。

 こつん、と硬質な音がした。

 こつん、こつん。

 ざわりと産毛が逆立った。
 ノックだ。
 立ち上がった瞬間、椅子がむやみに甲高く床を擦って冷や汗が落ちる。こわばった足先が震えている。言うことを聞かない両足を叱咤し、壁に手をついて、よろよろとモニターを覗き込んだ。
 ただ白い。ひくりと喉が鳴った。
 モノクロの画面いっぱいに、何やら白いものが映っている。無言の意図に足がすくんだ。
 訪問者は、明らかに故意に、カメラを塞いでいるのだ。
 おそるおそる通話ボタンを押し、そこらに放ってあった新聞紙を丸めて即席の武器とする。マイクの起動音は外へも聞こえたはずだが、応えはない。かわりに、がさりとノイズめいた音がした。訪問者は沈黙している。
 モニターをにらんだまま、後じさりに玄関へ歩み寄る。画面は白く染まったまま動かない。対話をする気はない。だが、正体も知らぬまま怯えるのはまっぴらごめんであった。そろりそろりと足を進め、玄関の前に立つ。息を潜め、鍵と、ドアチェーンがしっかりかかっていることを目視確認する。大丈夫だ。この砦は破れない。ドアベルを押す指があるのだ。実体を伴っているならば、そう簡単に通過できやしない。
 武器をしっかと握りしめ、大きく息を吸い込んだ。

「だ、」
「怪しいものじゃありません」

 誰だ、と。
 怒鳴りつけるつもりであった。
 だが、喉から出た声は情けないほどに掠れていた。
 追っかぶせるように、少し離れたスピーカーから聞こえるのと同時、薄いドア越しにもあたりをはばかるような小声が聞こえた。
 手のひらから武器が滑り落ちる。
 足元でばさりと新聞紙が広がる。
 緊張は霧散した。
 耳慣れた、だが、随分と久しぶりの声であった。
 新聞を踏みつけて上がり框から身を乗り出した。チェーンをかたんと外し、鍵を開ける。
 実際に表にいるのが得体の知れないものだとすれば、順序は逆だ。なけなしの二十センチ、最後の砦を先に解く程度には、気心の知れた相手である。ドアは向こうから開けられた。
 隙間から突き出されたのは白いビニール袋である。乗り出した分だけ後ろへ下がれば、のっそりと立っていた男は目の高さまで袋を差し上げてもう一度「怪しいものじゃありません」と言った。薄く透ける黒い星を誇示するようにがさりと揺らし、長い前髪の向こうで、一重まぶたがゆっくりと瞬きをした。
 まごうことなき、板東であった。
 のっそりとした居住まいに見合わぬしゃちほこばった物言いに、思わず吹き出す。身を引き、室内へ向き直る背後で、小さく錠を落とす音がした。
「なんだなあ、電気ぐらいつけろや。目え悪くすんぞ」
 無遠慮に天井灯が灯る。白い光に目を瞬いた。振り向くと、板東は前傾した片足立ちでスニーカーの紐を解いている。バランスを取るように壁に添わせた指先がついでにスイッチを入れたのだ。勝手知ったる風情である。年単位の無沙汰はかけらもない。板東は上がり框にコンビニの袋を置き、ついで担いでいた風呂敷包を下ろした。壁に立てかけると、ごとりと重い音がした。
 怪しいものではない、と自ら弁明するのは、学生時代からの倣いであった。己の風貌が訝しがられて当然と自覚しているわけだ。板東は正直で、俯瞰的な男である。
 実際、板東の風貌は怪しい。襟の抜けた長袖のTシャツに膝の抜けたジーンズ、それに風呂敷に包んだ縦長の大きな包みを背負っているとなれば、怪しさもなかなかのものである。
 ずるずると伸ばした髪はさながら売れない音楽家だが、単に無精の故だと知っている。年がら年中長袖を着ているのは、紫外線に弱いからであるらしい。外見と言動が少々変わっているだけで、物を殴ったり人を傷つけたりするような輩ではない。
 時間がたつだけで、露呈する事実もある。
 学生時代であれば、板東のような奴はそう珍しくもなかった。私とて似たようなものである。ただ、学舎を後にし、はや二十年近くが経とうとしているのに、未だ社会というやつにうまく馴染めずにいるあたりだけは、今となっては少々珍しいと言えるだろう。 
 つまり「怪しいものではない」という奇妙なエクスキューズは、端的に現象と心境を表している。説明する気がないのだ。板東は怪しいものではない。では何者と語ることができるわけでもない。ただ世の中の流れからほんの少しずれている、そういう男だった。
 玄関にスニーカーを放り出した板東は、ずかずかとリビングへ踏み入り、一週間前から脱ぎっぱなしの上着を床に放って正面の椅子へ腰掛けた。
「お前、いつ来ても仕事してんのな」
 呆れたような声音である。放っておいてほしい。フリーランスたるもの、いつでも働かねば食えないのだ。そういえば、この男は今、何の仕事をしているのだったか。いや、そもそも仕事をしているのか。この缶ビールは、果たしていかなる金で購ったものであるのか。疑念がちらりと頭をよぎる。板東はがさりと袋ごとビールをテーブルに置き、「今回は」と気のないそぶりで尋ねた。
「ポテトの食べ残し統計」
 自分から聞いたくせ、板東はあからさまに嫌そうな顔をする。
「残飯処理か」
「文字通りね」
「隙間産業だな」
「今回の依頼主は大手だぞ」
 反論すれば、板東は肩をすくめてみせた。くるりとノートパソコンを回し、画面を見ようとするので、勢いよく閉めてやった。指を挟んだらしい板東がぶうぶうと文句を垂れるが、知ったことではない。一応、守秘義務のある仕事だ。なにせ大手上場企業様のご依頼なのだから。
「んだよケチ」
 板東は不満げにノートパソコンを引き寄せ、その上に行儀悪く肘をついた。子供っぽい仕返しである。こうなってしまっては、板東は梃子でも動かない。やれやれと首を振る。
「最近はコンプライアンスなんぞで、ファストフード店のロスにも世間の目が厳しいからな。新商品を出したら、販売数だけじゃなく、ちゃんと客の胃袋まで届いたか検証する必要があるんだと」
「販売数と廃棄量くらいデータがあるだろ」
「足し算引き算にもコツがあるのさ」
 頬杖をついた板東は、わざとらしくあくびをしてみせた。
「確かに、各メニューの販売数と、それぞれの包装量、それに総廃棄物の重量まではデータがある。まずは総販売数の把握、そこから各メニュー各サイズの包装量を割り出して、廃棄物のトータルから容器の分を引く。ここまでは簡単だ。けど、ただ引いたじゃ、残飯がバーガーなのかナゲットなのかポテトなのかわからないだろう。全部混ざっての『食い残し』だから。結局、人間がアナログで見分ける必要が残ってるんだ。
 けど、食い残しの映像だけ二十四時間かける一週間分、見たいやつなんていると思うか?」
「だからお前の仕事がある」
「その通り。半端仕事の谷津と呼んでくれ」
 仕事道具を奪われたらもうお手上げだ。眼鏡を外して傍に置き、板東の差し出す缶を手に取った。

 グラスを、と席を立つが「お構いなく」と制されてしまった。客人へ出さぬところを自分だけグラスを使うのも気が引けて、仕方なしに缶のままでいただくことにする。
 缶入りの液体を飲むのは、実は少々気味が悪い。
 中の色も量もわからぬ。飲み口から中を覗いても、暗がりがあるばかりだ。缶へ直接口をつけるのは、中に広がる闇ごと飲み干しているようでどうにも苦手であった。なぜ人が、ああも無防備にあの暗がりへ口をつけられるのか、どうにも解せない。
 手渡された缶のプルタブを引き開ければ、思いのほか勢いよく白い泡が吹き出して狼狽した。慌てて啜り込み、事無きを得る。板東は悠然と溢れた泡ごと缶を傾けて景気よく喉を鳴らした。
 乾杯などない。
「久しぶりだな」
「まあな。悪いだろう、新婚さんの家に入り浸ったら」
 面食らう。板東にそんな気遣いがあったとは驚きだ。新婚さん、と鼻の奥がくすぐったくなるような響きに狼狽した。いや、相違あるまい。入籍して、一年も経っていないのだ。世間的には初々しい部類に入るだろう。片割れが四十を超えていなければ、の話だが。
 どことなし面映ゆく、口をすぼめてビールをすすった。それにしても、この男に会うのはどれくらいぶりだろう。板東は缶の表面を指でなぞり、滴り落ちる水滴をもてあそぶ。手癖の悪い男である。
 ゔぃぃぃぃぃ、と虫が鳴く。
 板東ははたと手を止め、「虫がいるな」と窓の外へ顔を向けた。
「ああ。なんだか知らんが、この時季になるとよく鳴くんだ。うるさいだろう」
「クビキリギスだ」
「何?」
 不穏な言葉を聞いた気がした。
 板東は手についた水滴を払うと、親指を四角い暗がりへ向ける。つられて外を見るが、一面の闇である。何も見えはしない。
「隣の空き地、メヒシバとエノコログサの領土になってたろ。あの虫はイネ科の草を食うんだよ。変圧器みたいな音で鳴いて、ちょっとバッタに似てる。見たことない?」
「いや」
「越して三年も経つのにか。相変わらずぼんやりしてんなお前」
 板東は一息に残り全部を飲み干して、ビニール袋をガサガサやっている。虫はまだ鳴いている。耳障りな、あの音。
 不意に喉へ手を当てた板東は、長く太いおくびを漏らした。象の屁のようである。
 板東は、あの虫をなんと呼んだか。
「なあ、クビ、なんだって?」
「クビキリギス」
 首切り、と字を当てて、まさかと思う。源平合戦でもあるまいに、時代錯誤も甚だしい。「どうやって書く」と問えば、板東はポケットからボールペンとメモ帳を引っ張り出してサラサラと書きつけた。
「ん」
 無造作につき出された紙に目を走らせる。

 首切螽斯

 帳面を横切るように癖字が踊っていた。
 含んだビールを、空気ごと飲み下す。ごくりと喉が鳴った。
 上下のバランスが悪すぎる。首切、の二文字は空間が多く、螽斯、の二文字は甲虫の腹のように混み入っている。二文字と二文字の間に、見えない線でも引っ張ってあるような。
 頭と胴とで分断されているような。
「……物騒な名前だな」
「首が抜けやすいんだ」
 呆気に取られた。冗談のような話である。
「それはまた、ずいぶん脆弱な」
「生き物としてどうかと思う残念さだぜ」
 板東はにやりと唇の端を持ち上げて、指先で帳面を横切る文字をとんと突いた。
「クビキリギスは、クビキリギリスともいう。バッタ目、中略、キリギリス科ササキリ亜科クビキリギス属クビキリギス、な。名前の通り、キリギリスの親戚筋だ。親戚っつうか、兄弟かな。
 かなり貪食で、親戚筋の虫じゃあ歯が立たないような葉とか、種なんかをガシガシ食う。顎が頑丈なんだな。
 で、首が抜けやすいのは、下顎の力は強いくせに首の付け根が細いから。頭の真下に関節があるんだけど、まっすぐ引っ張るだけでポッキリ折れる構造になってる。設計ミスとしか思えねえよな。だったら顎の力を少し弱くするか、でなきゃ首の関節を太くしてやればよかったのに。神の意地悪さを感じるぜ」
 同意でもするようにゔぃぃ、と短く鳴いて、クビキリギスは唐突に沈黙した。どしんと腹に堪えるような静けさである。
 板東は今更のようにビニール袋からすべての缶を取り出し、垣根でも作るように並列させた。小さなダイニングテーブルが分断される。城壁を乗り越え、板東の領土から空になった缶を引き揚げた。今時期は夜半の涼しさに油断していると、日中の陽気ですぐに臭うようになる。後片付けは、間を置けば置いただけ億劫になるのだ。初夏は厄介である。
「朝も、」
 しんと冷えた空気に、板東の漏らした独り言はプカリと浮かんだ。
 日中であるなら旺盛な命の音にかき消され霧散したのだろうが、鼓膜が締め付けられるほど静かであったため、小さな小さな独り言は塊のままで私の耳へ届いた。
 朝。
 朝はまだ遠い。
 空き缶をゆすぐ手を止め、振り返る。不意に席を立った板東は、玄関から風呂敷包みを引きずってきてテーブルの横へそっと寝かせ、神妙な顔で包みを解いた。古風な唐草模様の下から現れたのは、柱時計である。これまた年季がはいっている。木製らしい盤面は古びた艶を帯びて、ガラスは黄色く濁っていた。
 かたわらへ胡座をかいた板東はポケットから真鍮らしい鍵を取り出すと、盤面の、変色したガラスを開けた。蝶番が嫌な音を立ててきしむ。二つ並んだ穴の一つに鍵を突っ込み、慎重に巻き上げる。きり、きり、きり、と抵抗を感じさせる響きを立てた。
「朝も昼も夜もない、閉じた部屋があるとするじゃない」
「ああ」
 背を向けたままの右肩が小刻みに揺れている。その肩へくっつけるように首を傾げ、一段深く背を丸めて、板東は言った。
「壁の色は白……いや、薄い灰色がいいんだろうな。この辺の空気は濁ってるから」
「ふん」
 鼻息だけで相槌を打つ。水栓をひねり、勢いよく水を出して、アルコールの残滓を洗い流す。薄くシンクに溜まった水は小さな渦巻きを作って排水溝へ吸い込まれていった。板東は手元に目を落としたままで続ける。
「閉じた部屋、窓はない。それで、朝昼晩の光を模した波長の灯りが部屋にともる。朝は青く昼は白く夕は赤く。室内の温度も光に合わせて調節する。適度な睡眠と、日に三度の食事は定期的に。だけど、外の空気も、景色も見せない」
「未来都市だな」
「ああ、悪くない。進めるんだ」
「何だって?」
 板東はゼンマイを巻く手を止めない。歯車の軋みが深夜の隙間を切り裂く。
「一日に一時間でいい。朝昼晩、二十分ずつ時間を縮めて、一日あたり一時間を早めていく。一週間で七時間。ひと月足らずで丸一日、その部屋の時間は外界よりも早く進む。
 一日あたり、たった一時間。些細だが、結構な誤差だ。
 順調にいけば、一年で半月。二年で、約一ヶ月。どうだ」
「どうって」
 返答に窮する。閉鎖空間だと言った。外界から隔絶された、人工の昼夜。誤差だと。
 部屋の中と、外の差だろうか。
「ずらして、どうする」
「比べるんだよ」
「誰を」
 板東は大仰に肩を震わせる。のっそりと振り返り、左手で前髪をうるさそうに払った。瞼のふちが赤らんでいる。酒に弱いのだ、この男は。
 流しに寄りかかり、腕を組む。跳ねた水滴が腰のあたりにじわりと沁みた。
「誰?」
「中に、誰かいるんだろう。外を見せたくない、誰かが、そこに」
 人工灯で作り出された、偽物の昼と夜。そこで食事をとり、眠り、生活をする誰かがいるのだ。衣食住を見守られ、一日あたり一時間だけ未来に進む誰か。
 それは誰だ。
 そして、誰と比べるのだ。
「ああ」
 板東は目を瞬き、傾げた首を、今度は反対側に倒した。
「子供だよ」
「いくつの」
 板東はちらりとこちらを窺う。口に出したものかどうか、喉の先までこみ上げたものを牽制するように煙草を咥えた。
 少しだけ、いやだな、と思う。
 妻と一緒になってから、私は長い付き合いだった煙草をすっぱり辞めた。辞めてみれば、他人の煙は実にわずらわしい。煙は紛れ散ったとて、においだけは染み付いて残るものだ。
 逡巡は顔に出たのだろう。板東は咥えたのをもう一度パッケージに戻し、煙の代わりに「あかちゃん」と吐き出した。
 室内の空気が、すうと温度を下げた気がした。
「叶うなら、生まれたばかりがいい。猿だか猫だかわからんような、ふやふやにやわらかくて、小さな、あかちゃん」
 風向きが変わったのだろうか。組んだ腕の、右手のひらで左の二の腕を軽くさする。
「それで」
「育てるんだ」
 板東はアルコールでとろりと緩んだ目を中空へ据えた。これも学生時代からの癖であった。前触れもなく、何もない壁の一点を見つめる。何を見ているのか、杳として知れない。
「成長期であって欲しいんだよな。その部屋の時間は早く経過させたいから。
 人間の赤ん坊って、一ヶ月で倍の大きさになるんだろ。二歳くらいになれば、ひと月分の誤差は目に見えるくらいになるんじゃないか」
 板東は昨日の夢でも語るような調子で続ける。
「一人は外で、一人は部屋の中で。同じものを食わせて同じだけ眠らせて同じように遊ばせる。比べるなら、同じくらいに生まれた子がいい。できれば、遺伝子も似た、同性の子供。
 一卵性双生児なんか、最高だな」
「何が知りたい」
 比べて、どうするのだ。
「俺は、ずれてるだろう」
 板東は、時計の盤面に突き刺さったままの鍵に視線を落とした。
「いつからずれたのか、なぜずれたのか。ずれてるのと壊れてるのはどう違うのか。故意にずらしたらどうなるのか。戻るのか、それがきっかけになってずれるのか。俺は、それが知りたい」 
「知ってどうする」 
 ゆっくりと首を振って、板東は言った。
「クビキリギスは長生きだ」
 どうも話の流れがおかしい。
 酔いが醒め始めたか、あるいは夜気のせいだろうか、背筋がぞくぞくする。
「春に孵化して、秋に成虫して、冬眠する。で、次の春に繁殖行動を起こす。卵を産んでも、大半の成体は健在だ。夏をまたぎ、秋を過ごし、再越冬する奴もいる。今、外で鳴いてるのの中にも、俺が前に来た時に鳴いてた個体が混ざってるかもな」
 ひとりごち、板東は顔も向けずに問うた。
「ところで、お前んとこどう?」
 押し寄せる静けさに耳の奥が押されて痛い。不意に喉の奥が張り付いた気がして、無理やり唾を飲む。
「何がだ」
「体調とかさ」 
 板東は姿勢を変えない。
 つっと脇腹を汗が滑る。
 そういえば、あの日も夜中だった。
 この暑いのに、よく長袖など着ていられるものだと思ったのだ。
 あれは二年前であったのか。
 板東が、缶ビールを下げてやってきた。一晩かけて二箱分の煙草を煙にし、缶ビール一ダースを交互に開け、板東はあの夜も私から仕事を奪った。
 以来、今日まで一度も、音沙汰はなかったはずだ。 
 私は、言っただろうか。
「奥さん、初産だろう」
 結婚をした、と。
「大変なんじゃないか」
 妻が妊娠したのだと。
「二人分じゃ、腹も重いだろうに」
 この男に、話したことがあっただろうか。
「……違う。双子じゃない」
 時が満ちれば露呈する嘘を、咄嗟に吐いた。
 強く腕を組み、上体の震えを戒める。
 板東はふうんと気の無い相槌を打って、再び柱時計に向かう。きり、と回しかけたところで「そうだ」と思い出したように首を上げた。
「クビキリギスのこと、もう一つ教えてやる」
 ゔいいいいいいいい、と、ひときわ高く虫が鳴いた。耳障りだ。脳の襞をざりざりと擦るような、チューニングの合わないラジオのような音が止まらない。
「雌は単為生殖するんだよ。雄なしでも、勝手に卵を産んで、どんどん増える。しかも、単なるクローンじゃないんだ。雌だけで産んだ卵から、雄と雌の両方が産まれる。逞しいよな。クビキリギスに、どうして雄が必要なんだか、俺にはさっぱりわからない」
 虫の話だ。親指一本にも満たない、小さな虫。でも、それが恐ろしくてたまらない。
 窓の外でクビキリギスが鳴いている。さして広くはないアパートを、ノイズが満たす。
 八畳の居間、六畳の寝室が二つ。子供が大きくなったら、引っ越さねばなるまい。ずっとここへはいられない。いてはいけない。いっそ妻が。
 妻が、帰ってこなければいいのに。
 板東はゼンマイを巻き終えたらしく、そっと盤面から鍵を抜いた。
 柱時計は床に横たわったまま、沈黙している。
 虫ばかりがいつまでもうるさい。
「それ、動くのか」
「動かねえよ。壊れてるんだ」
 板東は長針に人差し指を添え、ゆっくりと一回転させた。

つむぎ
1985年、横浜市内に生まれる。横浜市内でずっと育つ。
今のところ動くつもりはないが、つもりがないだけである。
好きなものはコーヒーとバタートーストとチョコレート、苦手なものはわさび漬け。
AB型。
趣味は社交ダンスとカラオケ、特技はラテアート。
移動手段は主に自転車を使用。
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