つむぎ うつくしい物語 ①
炮烙の恋

 恋を焙烙にざらりとあけた。よくよく水で洗い、一晩乾かした恋は生白い肌色をしている。軽くゆすり、中身を鍋底へ均等に広げてからコンロに火を灯した。国道を通過する大型トラックの排気音が、地響きに似てときおり響く。それ以外はしわぶきひとつ聞こえない。静かな夜だった。
 古いガス式のコンロは元栓をひねってからマッチで火をつける形式である。腫れぼったい指先で苦心してマッチを擦る。ぼっと勢いよく上がる青い炎を確認し、少し待ってから中強火に調整した。
 煮炊きをする場所で恋を扱うなど少し後ろめたい気がする。いくら綺麗に洗ったとはいえ、味噌汁の鍋が片側に休んでいるままのコンロで恋を炒るのは、手の方が先に止まってしまうような戸惑いを覚えた。それは風呂場で歯磨きをするような、トイレで本を読むような、人によってはどうということもない行為かもしれない。理屈はわかるけれど、体が嫌がる。頭と体は仲が悪い。もっとも、手際の悪さは曲げることも伸ばすこともおぼつかない指が直接的な原因ではあった。
 恋人と別れて半年になる。わたしはその人のことがたいそう好きだったので、別れるにベストなタイミングを見極めた上でずるずると引き伸ばしていた。破滅的な解散は時間の問題に見えたところが、思わぬ第三者介入により、わたしたちは非常に友好的な態度で別れの握手を交わすことができた。 
 以来、わたしは原因不明のむくみに悩まされており、焙烙の恋はその特効薬であるらしい。



『足のつる人 ご相談ください』『おしっこチョロチョロ 残尿感』『耳鳴り 聴力低下』角が折れ、変色した張り紙の中から『むくみ』の三文字に引き寄せられ、古びた薬局へ足を踏み入れたのは薄曇りの午後だった。
 一呼吸で見渡せる程度の、小さな薬局だ。胸までの高さの棚が三台、ガラスのカウンターの奥には調剤室、カウンターの隣には小さな机と椅子が二脚。客はおらず、白衣の男が一人、カウンターの上で何か書付をしていた。白髪混じりの頭が上がり、目が合う。背中で自動ドアがひっそりと閉まった。
 男は背を伸ばし、こちらを見た。蛍光灯を跳ね返す白衣は糊が効いているらしくピンと張っている。訝しげに首をかしげると、鏡面仕上げのレンズの縁がきらりと光った。眉をひそめ、「どうなさいましたか」と尋ねる声はいかにも気遣わしげで、わたしは入り口に立ち尽くしたまま、一息にこの悩ましきむくみについて切々と訴えた。
 思い当たる手段は全て試した。湯船に浸かり、しっかりとストレッチ。各種サプリメントで栄養バランスに気を使い、睡眠もたっぷり八時間。それでも朝起きた時からふくらはぎがパンパンに張っている。瞼も重く、顎は緩み、関節の皺は伸びきって、拳を握るのすら難しい。張り詰めた水風船になった気分だ。動くたびに体の中身がチャプチャプ揺れて落ち着かない。不快だし、不便だ。なんとかならないか。楽になりたいのだと。
 薬剤師はこくりと頷き、「こちらへどうぞ」とカウンターへわたしを招いた。
「恋の病ですね」
 舌の色と手のひらの温度を確かめたのち、薬剤師は薄いレンズ越しに至極真面目な態度で言った。
「どうも失礼しました」
「お待ちください」
 くるりと回れ右をしたところで鋭い声がかかる。バカにするなと振り向きざま怒鳴りつけるつもりが、薬剤師は「恋は難病です」と厳しい調子で言った。まるで教師が生徒の嘘を咎めるような、絶対的な正しさを背負った声だった。思わず気を飲まれ、首だけ振り返ったまま硬直する。
「医者でも草津の湯でも治せないと聞いたことがあるでしょう。甘く見ると大変なことになる。手遅れになってからでは遅いのです」
 射抜くようにまっすぐな視線とまっすぐな声。こちらが足を止めたのを見てとり、彼はやや語調を緩めた。
「どうか、少しお時間をいただけないでしょうか。端くれとはいえ、私は人様の体を楽にする仕事をしているのです。効果があるとわかっていて、お勧めしない理由がありません」 
 大きく出たものだ、と目を眇める。どんよりと重い瞼に元来の近眼も手伝い、たいそう人相が悪いと評判の藪睨みだ。ところが、薬剤師は一向に動じる気配がない。真正面から受け止めた上で、効果がある、と言い切った。医者もマッサージ師も匙を投げたというのに、町の薬屋さんがいったい何をできると言うのだろう。
 わたしは長く息を吐き、カウンターへ向き直った。
「……それで? 薬剤師さんは何を処方してくださるって言うんです」
 聞き返したのは、もうすがる手段など残っていなかったからに過ぎない。どうせ何をやっても同じだったのだ。今更失敗の数が一つ増えたところで何も変わりやしない。



 まずは風呂に入り、藁半紙に書きつけられた手順に従って恋を取り出した。ついさっきまで体内にあった恋はレバーに似て、紫に近い赤色をしていた。表面にはプツプツと丸い斑紋が浮き、そのくせ指の腹で触れるとつるりと滑らかだった。脱衣所に半身を乗り出し、あらかじめ用意しておいたステンレスボウルで受ける。そのまま洗濯機の上に置いて身体を拭いた。
   パジャマに着替え、ボウルを片手に台所へ立つ。俎板に載せるとゼリーのようにたゆみ、包丁を入れると不思議にざらついた中身が覗いた。断面につぶつぶが覗き、カエルの卵に似てる、なんてうっかり考えたせいで胸が悪くなった。
「レバーは肝臓、これは心臓、みんな食材、おんなじ、おんなじ」
 口に出して唱えながら、大まかに切り分けたところを冷たい水で丹念に洗った。正確には心臓ではないし、食材でもないのだが、細かいことには目を瞑る。水に触れたところからゼリー質はさっと溶け、艶のない真珠のような粒だけが残った。断面にのぞいていた部分が溶け残ったのだろう。
 ごしごし洗って、ざるに上げては水を流す。この部屋は、水まわりだけは新しいのが幸いだ。レバー式の水栓を手首で跳ね上げながら思う。指が効かないので、手のひらをこすりあわせるようにして恋を洗った。五回目に水を替えると、恋はさっぱりと不純物を流し去り、ただ生白くステンレスのボウルに沈んだ。
   しばらく眺めてからざばっと水を流し、ざるに引き上げる。どこで乾かそうかと悩んだ挙句、水切りかごの隅に置くことにした。適度な傾斜が水気をうまく逃がしてくれることを願って就寝する。
   たっぷり八時間眠り、よく晴れた空は鮮やかだが体は相変わらず重い。のろのろと台所に立ち、水を一杯飲む。軽くゆすいだコップを水切りかごに伏せた拍子に恋が目に入り、やや複雑な気分になった。



 壁掛けの柱時計が物憂げに三度鳴る。木製の椅子は案外座り心地がよく、わたしは無駄と知りつつも足首を回しながら薬剤師の説明を聞いた。
「同物同治と言います。薬食同源の思想がベースです。悪い部位を治すには同じものを摂取するのが良い、と聞いたことはありませんか。不整脈なら心臓を、肝障害ならレバーを」
 白衣の裾をさばきながら向かいの椅子に腰掛けた薬剤師に、おや、と思った。
 どうやら、若い。
 白髪と落ち着いた物言いのせいで、てっきり老人かと思っていたのだ。よくよく見れば目尻にも口角にも張りがあり、頰はつるりとして髭の気配はない。ボールペンを握る手の甲にもしわやしみは見当たらない。同世代、いや、もしかしたら年下かもしれない。
「ですが、適正な下処理を施さないとかえって体の負担になる場合があります。食材として流通していない副産物には、夾雑物や有害物質が残存している可能性も高いのです。基本的にはよく洗い、よく加熱すること。恋心の場合は流水にさらし、乾燥させ、炒り、砕き、そして湯を通すことで必要な成分だけを抽出することができます。感傷、嫉妬、劣情、美化、執着。人それぞれ程度の差こそあれ、純な恋なぞお目にかかった試しがございません。ですから下処理には多少の手間がかかるのです」
 不躾な視線をものともせず、彼は机の引き出しに手をかけ、一枚の藁半紙を取り出した。そこへ恋の取り出し方と処理手順をさらさらと書き付けていく。癖のない、読みやすい字だった。
 こまめに水を替えること。最低でも十二時間は乾燥させること。可能であれば厚手の鍋を使うこと。説明しながら、彼は赤いボールペンで重要なところにアンダーラインを引いた。
「火にかけるときは必ず換気扇を回してください」と薬剤師は言った。
「ひどいにおいの煙を出す場合があるそうです。部屋じゅうに重曹を撒いても効果がなかったと聞きました。その方はセスキ炭酸ソーダを水で溶いて壁から天井から床まで拭きあげて、ようやく家で眠ることができるようになったとおっしゃいました。元は人体の一部ですから、多少の脂分が含まれているのでしょう。保存状態にもよるのでしょうね、酸化した脂は加熱されると煤を出しますから」
「フライパンでも構わないでしょうか」
「お嫌でなければ」
 薬剤師は軽く頷いた。少し考える。フライパンを使った料理は好きだった。
「……おすすめの鍋ってありますか?」
「火の通りが穏やかであれば、基本的にどんな鍋でも構いません。そうですね、強いて言うなら、金属よりも土の鍋が向きます。適度な通気性がありますから」
 ふむ、と腕を組んだ。厚手の鍋にはいくつか心当たりがあった。ル・クルーゼのシチュー鍋にすき焼き用の鉄鍋、引き出物でもらった無水鍋。だがどれもこれも鋳物だし、おまけに台所の一軍選手だ。登場頻度の低い土鍋は年の瀬に割ってしまった。しばし考え込む。通気性が良くて、あまり使わない、土の鍋。
『地厚だからゆっくり加熱できるし、芯から豆が膨らむんだよ』
 一つだけ、思い当たるものがあった。
「焙烙では駄目でしょうか」
「焙烙?」
 薬剤師はぱちりと目を瞬いた。その反応に、彼が間違いなく青年だと確信する。焙烙、という言葉を知らないのだ。
「素焼きの片手鍋です。急須に似た形の。鍋の側面に空気穴が空いていて、そこがそのまま持ち手につながっています。銀杏とか、古くなったお茶の葉なんかを炒るのに使うやつ」
 薬剤師は首を傾げている。まだピンときていないのだろう。それはそうだ、わたしだって恋人が焙烙を持ち込んだ日は随分じじむさいものをと笑ったものだ。
 下戸だった恋人はコーヒーに凝っていた。暇を見つけては生豆で直輸入したコーヒー豆を好みの加減に炒り、火の通り方が抜群だと炮烙を見せびらかしてきた。香ばしい匂いを漂わせては、ネルだペーパーだ水出しだと嬉しそうに豆を挽いた。
 わたしは料理こそ好きだけれども、酒のつまみには塩さえあればいいという口だったので、その焙烙で胡麻やら銀杏やらを炒ることはなかった。互いに忙しくなってからはキャビネットの奥にしまい込まれており、彼が荷物を引き上げる際にすら忘れ去られていた。割れ物の回収日を把握できていなかったがために我が家へ居座り続けた代物だ。まさか再び出番が来るとは、と苦笑いする。
「へえ、そういうものがあるのですね」
 薬剤師は心底感心したように言った。
「結構です。素焼きでしたら通気性もいいでしょう。大きさは?」
「こんなものです」
 手のひらを広げてみせる。一度に焙煎する量は茶葉なら十五グラム、コーヒー豆なら七十グラムが適量だと言っていた。ちょうど手のくぼみに収まるくらいの分量だ。小さすぎるかな、と不安になってそっと薬剤師を伺うと、「ちょうどよろしいかと思います」と微笑んだ。笑うといっそう年若に見える。
「見えないものほど大きく感じるものです。お客様の症状でしたら、恋の実体はお考えよりも小さいでしょうから、ご心配には及びません」
 彼はボールペンを引き出しにしまい、「さて」とおもむろに手を机の上で組んだ。
「どのような恋でしたか」
 藪から棒である。
「言わなきゃいけないんですか」
   あからさまに不満を声に表してみたが、薬剤師は平然と頷いた。
「可能であれば。生育期間や保存状態によって火の通りが変わるものですから」
「……わりと面倒なんですね」
 背もたれに身を預け、ため息をつく。薬剤師は申し訳なさそうに眉を下げ、なだめるように言った。
「ポイントさえ押さえれば、恋心の扱いはそう難しいものではありません。けれど、注意が必要なのです。火加減に気をつけないと、危険です」
「危険?」
「はい。破裂します」
「破裂」
 思いの外過激な発言に瞠目した。薬剤師は重々しく首肯する。
「元来、恋ははじけるものなのです。急速に加熱された恋は火が通っていない状態で破裂し、内容物を撒き散らしながらあたり一面に飛び散ります。生焼けの恋は床や天井にへばりつき、染み込んでしまうのです。熱くならない恋ほど手に負えないものはありません。恋は体内にあるときは液状、空気中では半固体、ところが真水に触れると硬化し、一方で中身は液状のままという厄介な代物です。固まった外皮からは中の様子を窺い知ることはできません。粉砕できるまでに硬化させるには、じっくりゆっくりと火を通すほかありません。不用意な扱いは惨事を招きます。どうかご理解ください。危険と分かっていることをお伝えしないわけにはいかない。言いづらいのはお察ししますが、必要なのです」
「……わかりました」
 部屋中に散った恋の後始末など、考えるのも嫌だった。半ばうんざりしながらも、わたしは恋人との馴れ初めから別れまでを時系列順に説明した。薬剤師が変に同情するようなそぶりを見せず、淡々と質問してくるのだけが唯一の救いだった。



 時間をやり過ごすのは、この半年でずいぶん上手くなった。食事をして、風呂に入って、あとはテレビでも見ていれば一日なんかすぐに経つ。念には念を入れて、ガスの火をつけたのは午後十時、恋を洗い上げてからかっきり二十四時間が経過したところだった。
 コンロのそばに椅子を引き寄せ、青い火をぼんやりと眺める。焙烙の中身がちりっ、ぱち、と小さな音を立てる。今のところ目立った変化はない。こうして焙烙の中でつぶつぶころころしていると、昨夜の生々しさからは程遠い。縁に近いあたりが濃いベージュに変わり始めたところで軽く鍋を揺すった。薄く煙が立って、換気扇に流れる。
 加熱された恋は焙烙いっぱいに膨らみ、じわりじわりと色を濃くしていく。煙もにおいもそうひどくはない。保存状態は悪くなかったようだ。嬉しいんだか悲しいんだか、よくわからない。こまめに焙烙をゆすり続け、全体的に濃い茶色に変化したところで火を止める。しばらく揺すってから新聞紙の上にあけ、なるべく平たくして熱を冷ました。水蒸気か煙か判別のつかない白っぽいもやもやがテーブルの上に漂っていた。
 ガスの火を消すと、急に冷える。木造のアパートは外気直結だ。身震いしながらミルの蓋を開け、粗熱の取れた恋をざらざらと流し入れた。途中でこぼれたのをつまんで隙間に押し込む。やや密度の詰まった軽石のような、奇妙な手触りだった。木でも石でもない、うっすらと乾いた温かさが伝わった。
 火の通った恋を砕くにはすり鉢とすりこぎでも構わないらしいが、胡麻和えを作るたびに恋を擦ったことを思い出すのも気味が悪いのでコーヒーミルを使うことにする。構わない、どうせもう使う人などいないことだし。ハンドルを回すたび、恋は三枚の歯にすりつぶされてごりごりと鳴った。手ごたえがなくなったところで屋号がスタンプされた紙袋から医療用ガーゼを取り出し、パッケージを破く。
「滅菌済み」と大きく書かれたそれは、糊抜きの必要がないから扱いやすいと薬剤師に勧められたものだ。そのままでも使えるとは聞いたが、なんとなく水通しをする。一応は口に入るものに触れるのだから、清潔にこしたことはないだろう。薄くて頼りないガーゼは指先に引っかかる。細い糸を切らないよう苦心して外し、割れた爪の先を見て舌打ちをする。むくんだ肉に覆われて気づかなかったのだ。
  爪が伸びるのはひと月で約三ミリ、つまり半年で概ね生まれ変わる。だから指先には半年前の生活が現れるらしい。指先の荒れはケラチンの不足、原因としてはタンパク質やビタミン・ミネラルの不足など食生活の乱れが挙げられる。それに、ストレス。
『いつ終えられたのですか』
『だいたい半年くらい前ですね』
『どのようなタイミングでしたか』
『二人とも異動の指示が出たところでした。お互い寝食もままならないくらい忙しかったです』
 薬局での会話が蘇り、もう一つ舌打ちをした。
 もう終わったことなのだ。通り過ぎたはずの時間が、こうして体に痕跡を残している。すっかり忘れていた今頃になって表出するなんて厄介だ。
 茶こしに合わせてガーゼをたたみ、薬缶に水を汲んでもう一度コンロに火をつけた。湯呑みはないので、異動記念に部署から贈られたタンブラーを代用とする。350ml入るようだから問題ないだろう。蓋を開けてその上に茶漉しを乗せ、湯が沸くのを待った。



「熱湯はあまりよくありません」
と薬剤師はいった。
「熱すぎる湯では香りも立ちませんし、酸味が尖ります。ボコボコと底から大きめの泡が絶えず上がるようになったら、火を消し、少し冷ましてください。そうですね、いま時期でしたら四十五秒くらいでしょうか。八十度から九十度の間くらいがいいようです。苦味がまろやかになり、甘さが立ち上ります」
 まるで料理でも作るかのような物言いだ。当事者じゃないからっていい気なものである。
「甘いもの嫌いなんです」
 憮然と呟くと、薬剤師は眼鏡の奥の瞳を細めた。
「甘いほうが飲みやすいですよ」
「甘いもの好きじゃないんです」
 いいじゃないか、女が辛党だって。第一、味のどうこうよりは効果効能の方が重要だ。食事でも嗜好品でもなくて、薬なのだから。饒舌を遮られた彼は少しむっとしたような顔で「空腹ヲ満タストキハ食ト言ヒ、病ヲ治ストキハ薬ト言フ、と唐代の書物にも記されています」と節をつけて返してきた。やれやれと思う。どうやら口を挟むだけ無駄だ。
「最初の湯は少しずつ垂らすのがコツです。中央からのの字を書くように細く細く垂らし、恋全体を湿らせる程度に湯を含ませます。二十秒程度お待ちください。待つ間に膨れてまいります。そうしましたら二回目の湯を注ぎます。ここで最も効き目のある成分が抽出されますので、溢れない程度にたっぷりと注いでください。きめ細かな泡が出てきたら成功です。泡を潰さぬよう、あくまでも湯の勢いは穏やかに。三度目からは少し注意が必要です。中央が窪んだあたりから湯を落とし始めるのですが、周りにできた泡と恋の層を崩さぬよう慎重に注いでいただきたいのです。新しい泡は二回目の泡よりも白いはずですから、そう難しいことではないと思います。適量が抽出されましたら、湯が落ちきる前にお外しください。絞ってはいけません。雑味が混ざります」
「一番出汁でも取るような感じかしら」
 皮肉ったつもりだったが、「その通りです」と薬剤師が嬉しそうに目を輝かせたので徒労を覚えた。
「どれくらいが適量なんです」
「そうですね」
 薬剤師はわたしの恋事情を書き留めたメモに目を落とし、余白でいくつか簡単な計算をした。ふむ、と顎に手を当て、顔を上げる。
「お伺いした限りでは、湯飲みに二杯程度ではないかと思われます」
「……ひと仕事だわ」
 得体の知れない飲み物をたっぷり湯飲みに二杯、これが苦行でなくてなんだろう。足を組み替え、反対側の足首を回し始めた。もちろん、むくみの引く気配はない。
「なんの」と彼は軽く手を振った。
「先日おいでのご婦人など、総量で四リットルを超えたとおっしゃいました。朝・昼・晩・寝る前と一杯づつ服用し、一週間ほどかけて召し上がったそうです。香ばしくふくよかな香味だった、苦にはならなかったとさっぱりしたお顔でいらっしゃいました」
 聞いているだけで胸が詰まってくる。四リットルもの量になる程の恋とはいったいどれほどの思いなのか。薬剤師は穏やかな調子で語り続けた。
「その方は七十年来の幼馴染である女性に恋をしていました。生家がお隣どうし、幼稚園から小・中・高・大学と共に過ごされました。彼女が結婚し、ご自身も旦那様と結ばれ、互いに子ができ、孫が生まれても家族ぐるみのおつきあいを続けていたそうです。一粒の種から芽吹いた二本の蔓のように、互いの人生に絡み合っていたのだと。驚くべきことに、ご婦人はその幼馴染に思いを告げようと考えたことは一度もないとおっしゃいました。愛おしい人がすぐそばにいる、それ以上に何を望むことがあるのだろうと。ところが」
 薬剤師はふっと言葉を切り、わずかに悼むような表情を浮かべた。
「お気の毒に、ご友人は病を得てお亡くなりになりました。向かう先のなくなった恋は身体中で暴れまわり、ご婦人を苦しめました。こちらにおいでになった時には、不謹慎ですが彼女こそ死人のようなお顔色でございました」
 暫時、言葉を失う。
 間近にあり続け、恋しく思いながらもひたすら耐える日々とはどんなものだろう。まして、その相手がいなくなってしまっては。
「お元気な姿を見せていただけて、心底ほっとしたものです」
 と、気を取り直したように笑みを浮かべる薬剤師には、嘘や誇張は読み取れなかった。
「……本当に、効くんですね」
 確認と疑問を兼ねて問うと、薬剤師は「もちろんですとも」と自信ありげに頷く。ただ、と彼はわずかに逡巡した。
「程度は異なりますが、若干の好転反応はどなた様にもございます」
「副作用?」
「そう取っていただいて結構です」
 と、薬剤師は居住まいを正した。
「確実に、効きます。ただ、効果が強いのです。はじめから副作用と申し上げると服用をためらう方もいらっしゃいますので、便宜的に好転反応と申し上げております。恋の場合は、体内にあったものを加工してもう一度取り込むわけですから、自家中毒といったほうがいいのかもしれませんけれどね」
 そこでいったん言葉を切り、こちらを伺うような目を向けるので、「どんな症状ですか?」と聞く。
 妙なオブラートにくるんで誤魔化されるよりも、起きうる事態を正確に伝えてもらったほうがいい。毒だか薬だか知らないが、それほどまでに効力があると聞いては、今更やめる気などなかった。
「早ければ服用直後、遅くとも一時間以内には反応が現れます。症状は人によって様々です。頭が割れるような頭痛が起きたり、全身に痒くてたまらない発疹が現れたり」
「大変じゃない」
 前言撤回だ。スピードと症例の程度が思った以上である。薬剤師はわたしの怯えを察したか、ためらいがちに続ける。
「一昼夜おならが止まらなかったという方もいらっしゃいました」
 おならも嫌だ。
 嫌だが……頭痛や発疹よりはちょっとだけマシかもしれないと気を取り直す。痛かったり痒かったりするのは辛い。「ずいぶん激しい反応でした」と薬剤師はゆっくりと首を振る。
「その方は音楽のお仕事をされていたそうです。どのような反応が出るかわからないので、少なくとも二、三日の間はご自宅でお過ごしくださいとはお伝えしたのですが、どうも引き合いの多い方だったようで。また、強気な方でもいらっしゃいました。早く楽になりたい、私は多少の病気なら我慢してきたんだ、盲腸になったときだって演奏が終わってから倒れたんだとそれはもう自信満々で。これはもう何を言ってもお耳障りだろうと、どうぞ手順だけは違えずにお取り扱いくださいとだけ申し上げました」
 薬剤師は沈痛なため息をついた。それで、どうなったのだろう。
「はらはらしながらここへ座っておりましたところ、一両日ののち、お電話をいただきました。開口一番、午後からレコーディングなのにどうしてくれる、と。よりにもよって著名なピアニストと共演する日だったのだそうです。大変な剣幕でした。ただ、電話口からも地響きのような噴出音が響いておりましたので、こちらのお詫びが先様にお届けできたかという部分においては少々疑問が残っております」
 聞くほどに不安が募るが、ほんのわずか、薬剤師を気の毒にも思った。
  客は往々にして勝手なものだ。丁寧に説明をしたところで、都合のいい部分だけを聞く。聞き流したくせに聞いていないと怒る。体調不良で機嫌が悪くなるのは分かるが、この饒舌だ、薬剤師の説明が不足していたとは思えない。とすれば完全に八つ当たりではないか。
「とんでもない女がいたものね」
 うっかり労わるようなことを言ってしまった。ところが、薬剤師は「いいえ」と小首を傾げる。
「その方は初老の男性ですよ」
  けろりと言い放たれたもので、頭の中で意味を結ぶには暫時を要した。開いたままの口が渇いてきたところで、ようやく阿呆面を取り繕う。呆れて声も出なかった。
  なんとまあ。
  いい歳をした大人の男が、恋の一つや二つでこんな若造を怒鳴りつけたのか。世も末だ。ため息が漏れる。
「終わった恋についてぐちぐち考えるのなんか、女だけだと思ってたわ」
「どうしてどうして。一昔前までは口コミが中心でしたので、女性のお客様が多くいらっしゃいましたけれども」
 彼はなんでもない風で笑った。
「男性はとかく悩みを打ち明けるのを嫌いますから。弱みを握られたくないとか、恋ごときで騒ぐのはみっともないとか。どれだけ辛くともひたすら耐える方が多うございました。まあ、そこは情報化社会の恩恵でしょうね。「恋 不調 治す」のキーワードで検索をかけていただければ、十ページ目あたりでうちの電話番号がぽこんと上がってまいります。近頃のお問い合わせはほとんど男女同数、この半年に限っては男性の方が多いくらいです。そもそも、恋の痛みに性差はございません。症状はひとそれぞれとはいえ、難病ですから。皆様それぞれにお困りでいらっしゃいます」
 最後に薬剤師は棚から医療用ガーゼの包みを一つ持ってきて、「こちらがよろしいでしょう」と言った。藁半紙を四つにたたみ、ガーゼと一緒に茶色の紙袋に入れてくれる。袋の口をくるくると二回折り、片方の端だけを逆側に折り返して、両手でそっと差し出した。
「お大事に」
 請求されたのはガーゼ代の二百七十六円だった。



 物思いにふけっていたところでヤカンの笛が鳴る。頭の中で数を数えながら、畳んだガーゼの隅を合わせて引っ張り、粉砕した恋を小山状に整えた。四十五まで数えてヤカンを持ち上げ、薬剤師の言った通りに細く、ゆっくりと湯を垂らしていく。恋は湯の落ちたところからむくむくと盛り上がり、湯気と一緒に米が炊けるのと似た、少し喉に詰まるようなにおいがした。
 茶漉しを持ち上げると、透明な湯はこんがり焦げた恋を通して琥珀色に染まり、タンブラーの底へ滴り落ちる。落ちる液体の量が変わらないよう、恋が茶漉しから溢れないよう、注意しながら二度、三度と湯を注いだ。タンブラーの八分目まで溜まったところで茶漉しを外す。底が見通せない程度に色のついた液体がたぷんと揺れた。
 おそるおそる鼻先を突っ込み、嗅いでみる。
 焦げたにおい。それから、南国の果物に似た甘やかさ。蒸留酒のように鼻腔を刺すにおいが少し。悪臭ではない。
 両手で挟むようにして持ち上げ、意を決して一口、すする。
 なるたけ舌の上に触れないよう、すすり込んだ後は頬をすぼめて飲み下す。熱い液体は、ほとんど後味を残さずにあっさりと喉の奥へ落ちた。しばらく息を止めてから、そろそろと吐き出す。続いて二口、三口、ゆっくりと飲んだ。においから予想したような甘さはなく、むしろ苦味が目立ったが、不快なものではない。食道を滑り胃に落ちると、喉の奥から白い花のような香りが鼻に抜けた。
 面白い味だ。
 タンブラーの中でくるくると回したり、口の中で転がすたびに味わいが少しずつ変わる。首をひねり、においと味の変化を確かめながら飲み続ける。気づけば中身は半分ほどになり、温度も人肌程度まで下がっていた。
 一度タンブラーを下ろし、体を動かしてみる。
 変化は、ない。
 相変わらずふくらはぎはパンパンで、手の指は曲がらないし瞼は重い。
 でも、副作用が起きる気配もなかった。
 拍子抜けした気分になって、タンブラーの中をまじまじと見る。液面は穏やかに波紋を広げ、人畜無害な様子である。
 なんだ、こんなものか。
 安堵と落胆が混ざった気分になって、椅子に背を預けた。
 それはそうだろう、なんせ修羅場も愁嘆場もなく別れたのだ。互いの前途を祝し、かたく握手を交わし。ちゃんと終わってたんだ。わたしの人生に影響を及ぼすような恋ではなかった。
 つまりむくみの原因は恋ではなく、故にこの液体も特効薬ではなかったのだ。
 やれやれ、薬剤師にすっかり騙された。苦笑いをして、冷めかけた液体を一息に飲み干す。タンブラーを洗おうと立ち上がった時だ。
 がんと衝撃が来た。
 体がかしぎ、テーブルにぶつかる。ぶつけた額よりも頭の中が痛い。両手の爪を頭皮に立てて掻きむしるが、痛みを散らすことはできなくて天面に上体を預けたままのたうった。喉の奥から獣のような呻きが漏れる。噛み締めた奥歯がカチカチして、目の前がチカチカして、まぶたは開いているのに何も見えない。頭が痛い。額を擦り付けて喘いだ。
 タンブラーが落ち、床に当たって耳障りな音を立てる。
 針の刺さった鉄球に殴られてるみたいだ。ずるずると膝が崩れる。息をするたびに血管が膨らみ、熱い針が血流と一緒に頭の中を駆け巡る。脳みそのあちらこちらに針が突き刺さり、頭蓋骨が中から殴られる。全身が雷に打たれたみたいに震えた。顔が熱い。視界が歪む。ぎゅっと閉じた目尻からころりと涙が溢れる。頬をすべって冷える軌跡を感じた。
 途端。
 痛みは、嘘のように引いた。
 そして、滂沱。
 息をつく間もなく、両方の目からものすごい量の涙が流れ出してきた。
 痛みから解放された安堵と不安からくるものだと思った。息も荒いまま、床の上にへたり込む。払っても払っても、涙はとどまることなく流れ続ける。顔中を濡らし首を伝ってパジャマを濡らし、あっという間にびしょびしょになった。
 どうも様子がおかしい。
 とんでもない量の涙が溢れてはこぼれ、首を滑り胸を濡らす。パジャマに吸い込まれては張り付き、肌寒さにぶるりと震えた。おかしい。これは尋常の涙じゃない。よろよろと浴室まで這ってバスタオルを当てるが、すぐにぐしょぐしょになる。全然止まらない。三枚目のバスタオルをずぶ濡れにしたあたりでようやく、副作用かと思い至った。
 脱力する。
 しばらく放心していたが、その間も涙はだらだらと流れ続けるのでだんだんおかしくなってきた。
 副作用が涙なんて、ずいぶんロマンチックじゃないか。くっくっと笑いが込み上げる。どうやらこの涙は、感情とは連動しないらしい。悲しみや苦しみを伴わない涙は初めてだな、なんて妙に冷静な思考もおかしかった。
 脱力ついでに床へ大の字に寝そべった。目のくぼみに涙がたまり、重力に従って耳の脇へ流れていく。もう頭痛はない。息苦しさも衝撃もなく、ただ蛇口の壊れた水道みたいにこんこんと涙が湧き上がり、こぼれ落ちた。髪が濡れそぼり、ひたひたと涙が水たまりを作り続ける。どうにもおさまる気配がない。硬い床の上に手足を伸ばす。なるようになれ、と文字通り開き直った。手が付けられないなら、放置するまでだ。
 遠くの国道を通過するトラックの音が回しっぱなしの換気扇から響く。
 静かな夜だ。感情も衝動も置き去りにして、涙は溢れ続ける。まばたきをしても視界はあっという間に曇る。分厚い涙の膜を通して、光が虹を作った。赤青黄色、天井の白に透けて、七色の光が目の中でちらちら踊る。
「……綺麗だな」
 声を出した振動で光が揺れる。赤色が大きく滲み、そのまま夕焼けになった。
 いや、違う。
 紫に染まった核、ピンク色の細胞質、薄赤い背景。黄昏時に似た、これは細胞標本だ。顕微鏡の先、プレパラートに乗った体内の宇宙だ。輪郭がぶれて深緑に変わり、午後の日が差すリビングへ変わり、広く青い海原へ変わり、星々の輝く夜空へと変わる。幻灯のように美しい景色が現れては消えて、そのすべてをわたしは知っていた。
 覚えている。
 恋人と過ごした景色だ。
 互いに研究者として出会った。彼は宇宙工学、わたしは病理学が専門で、どちらの世界にも極小と膨大があった。だから惹かれた。
 宇宙の果ての先を見たいのだと彼は言った。
 癌細胞の種を探すのだとわたしは答えた。
 見果てぬ夢、尽きぬ謎。わたしたちは探検者だった。そして彼はわたしの作った線維肉腫の標本に目を細め、美しいと言った。わたしは彼が3Dで描いたロケット模型の精巧さに息を飲んだ。
 違う言葉を使い、違う論理を用いながらも、目指す先は等しかった。生命の生まれる前、無限の外側。わたしたちは未知に取り憑かれていたのだ。もっとも近しい未知がお互いであったので、恋をしたのも当然のことだった。
 そしてわたしたちは途方に暮れることとなる。
 体は一つで、一日は二十四時間だ。
 研究室に籠もれば恋人に会えない。恋人と過ごせば研究は進まない。
 研究と恋人、どちらを手放すのも嫌だった。僕もそうだよと言った彼は、おそらく、ほんのわずかだけ、研究の方が大事だった。
 研究者としての彼を尊敬していたからこそ、苦しかった。
 選べない苦しさに終止符を打ったのは、双方に差し出された異動通知だ。
 どちらも栄転だった。しかも彼へ渡された通知はワシントンの開発チームへの招聘で、つまりわたしたちを物理的に引き離すものであった。異動通知という第三者介入は『遠恋への不安』という名目を掲げることを可能としたのだ。
 ゆらりと視界がぶれ、赤く染まる。

 覚えている。
 夕焼けだ。

 二泊三日、彼の出立の前に、海までほんの短い旅行をした。
 旅行の最後、黄昏時に、わたしたちは固い握手を交わした。
 研究の成功と互いの前途を祝し、しっかりと手を握った。
 涙が溢れる。時系列を縦横無尽に駆け巡って、涙は思い出を映し続ける。
 巡り巡る景色の中に、いるはずの恋人の姿はなかった。
 夕日に赤く染まった頬、深緑が影を落とす肩。コーヒーカップに触れるくちびるも連なる脊椎が浮き出たうなじも、衛星を探す深爪気味の人差し指さえも。
 飽かずに見つめた一切合切が、そこには存在しなかった。
 涙が溢れる。
 恋人がいるから美しいと思っていたあらゆる景色は、彼の不在をもっても変わらず美しいままだった。

『恋は心臓から取り出してもまだ生きているのです。不活性化させるにはまずまとわりついた不純物を洗い流し、乾燥させたのちに弱火でじっくりと火を通す必要があります。徹底的に水分を飛ばして、それから粉々に砕いて。念には念を入れ、これ以上ないくらいに息の根を止めることが必要です』
 出口までわたしを見送り、薬剤師は最後に言った。
『終わらせることが、何よりの薬なのです』

 涙はとめどなく溢れ、強く握った拳で目をこする。ぶわぶわにむくんだ指では叶わなかった拳を半年ぶりにぎゅうと握りしめて、何度も何度も目をこすった。
 末端が感覚を取り戻していく。涙がこぼれるごとに、張り詰めた水風船みたいだった体がゆっくりとしぼみ、軽くなる。
 二度と会わなければいいと思う。
 それができるだけの予測と判断、傾向と対策は万全だ。わたしの仕事に抜かりはない。
 願わくば、あの偉大な研究者もそうであってほしいと、強く強く思った。
 涙が溢れる。

 ああ。
 好きだった。好きだった。好きだったなあ。
つむぎ
1985年、横浜市内に生まれる。横浜市内でずっと育つ。
今のところ動くつもりはないが、つもりがないだけである。
好きなものはコーヒーとバタートーストとチョコレート、苦手なものはわさび漬け。
AB型。
趣味は社交ダンスとカラオケ、特技はラテアート。
移動手段は主に自転車を使用。
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