竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
 

 いつしか穏やかな気持ちで生きている。自分が現代人の一員であると思えなくなったからこそ、日常は変わりなく、本業のないまま副業では多くの客の対応をし、多忙なときに限って手間のかかる注文が続くことさえ楽しんでいる。優先順位を見極め、最短時間で作業すること、その際に負の感情を反応させず、慈愛の念で対応に調和を見出すこと。表面的にはマシーンを制御する論理に似ているが、それは生態学の原理にさらに近いだろう。少なくとも、観念的に正否を決定して組み上げた人間の制度とは、次元の違う姿勢だといえよう。関係のつながりゆえに保証される生命のシステムとしての生態系は、有機物の生産量などからみて成長段階から安定段階にうつるものだが、その発達の過程で種の多様性を増し、それによりバランスと安定性を得る。ここに、生命本来の思想を見てみたい。
 やがて気づいたのは、「意味の隠匿性」が調和を求める祈りだとしたら、「意味の分配性」は得られた調和への感謝であろうということだった。平等の感覚は、そのように自由意志と同化している。けれども現代を形作る物質と記号は、膨大な過去の遺物に染められているため、人類の雑多な能力を集めても、意味をコントロールできない。その重圧に耐えられず、人々は分業で支え合うふりをして、事後処理の責任を押しつけ合っている。

  #34

 何のために生きるのかとのおまえの問いにこたえを示すなら
 それはギリシャ悲劇の血なまぐさい宿命観にも似て
 ひとつの預言のもと、人はいわゆる全知全能の道具にみえてこよう

 それとも、ものであることを拒否して迎えた造物主不在の時代
 稲光のような真理を求めずにいられない個の資質に照らされ
 劇的な経験の可能性を信じるのは、かの神々による呪いにすぎないか

 情の発生にもエネルギーが必要だと自覚する老齢になれば
 (たいていの女は気に入らないことがあると人格を豹変させたものだ)
 ささやかに灰の巨神を讃えられるだろう


 「巨神」、すなわち虚心か。風に舞う「灰」は、だれにも見られることなく四散する。いつだって青年期の思い出のように。…二五年前の大学のゼミ 議論の時間を延長させたいために 炊飯器をもちこんだ二人がいた その釜にはかつて吐いたことがあると 一人が告げれば ごはんが酸っぱくてちょうどいいと もう一人が応えていた 彼らはなぜかゼミの終わるころにやって来た …橿原市に住んでいた二一年前 中秋のまるい月の夜に アルバイト先の友と二人 石舞台で酒を交わしたことがある 入場料として一本のワインを墓にそそぎ びくともしない巨石に寝転がり星空を眺めた 明日香村は闇に沈み 暴走する多数のバイクの音を響かせていた …その土地に住むからには 天候の悪い日にこそ体験してみようと 台風のなか四時間かけて 多武峰を越えたことがある 標高六〇〇メートルほどでも 霧は足もとをするする昇り 舗装路では雨が真横から刺しこんで 耳もとは高速道路を据えた騒がしさだった …三九歳のときに祖母が亡くなった 職場で知らせを受け 新幹線に乗りそのまま通夜に向かった 施設に入れられた数年前から会っておらず 昔のことを聞けなかった自分を悔やんだ 祖父が亡くなったのは小学校の卒業式後すぐ 病院のベッドに横たわる肉体の 頬を叩いて父が最後に確認していた…。

  #35

 「放蕩息子」を告げた預言者の声は正しかった
 かつて彼らは夜空の星を読み、母なる大地をも商品にした
 今、売れ残った彼らの文字は麻痺の事実を象りはじめている

 何十億年もかけて、この星との契約を検討し
 ようやく与えられた生存への認可のしるしが本能だとしたら

 うちなる魂の求めること以上の行動は、この地の望むものではなく
 人々が良かれと考え、おのれの能力の可能性を追求すれば
 知性による人工空間が足元を遊離させる結果にしかならない

 ましてや人間社会の機能とは商品を流通させることだから
 この星が流通を拒否しているとき、社会は麻痺に陥る

 異性を愛するなら、その容姿を味わえばいい
 だれが鶏の知能を問うて、その肉のうまさを確認するだろう
 だが、異性と生活をともにしていくなら

 二人に共通する観念をみつけなければ破綻する、これは何の因果か
 人は他人のルールに苛立ち、不安をおぼえるばかり

 動物には痛みを感じる器官があるからと、その殺傷を哀れんでベジタリアンになったレオナルド・ダ・ヴィンチは、科学と自然の調和を探求するなか、芸術における最高位は絵画であり、詩歌も絵画ほど優れていないと主張した。女性の魅力を詩人と画家に描かせたら、彼女の恋人がどちらに吸い寄せられるかは明らかだと。この論法に異を立てるのは簡単だが、ここにモナリザの真実を見出せることこそ大事なのだろう。また、絵画の技法に関し、「遠近法の表現において影は何よりも重要だ。影がなければぼんやりとした物体も確固たる物体もきちんと表現できない。影によって物体は形をとる。影がなければ、物体の形の細部をとらえることはできない」と記して、輪郭線ではなく影の観察と実験に勤しみ、ついに未完の作品ばかりを残すことになった。人類による法の探求がこの影のようなものに向かっていたなら、光はもっと多くの人と良い関係でいられたにちがいない。

  #36

 湯船につかりながら
 からだの力をできるだけ抜いてみると
 ふたつの腕の浮いてくるのがわかる

 それは見知らぬもののように浮いてくるのだが
 つけ根である肩の角度によって
 液体のなかでの落ちつき場所は異なるらしい

 水面まで腕の上がったときが
 もっとも力を抜いた状態とは必ずしもいえないようで
 自由とはそんなものだろうと感じ

 そろそろ湯のなかに腕をもどそうとすれば
 思いのほか力がいる
 なるほど秩序とは習慣で動いてこそ楽なのだろう

 ひとりで入る湯はあたたかい
 数をかぞえるのにちょうどいい
 いつからか一〇八でやめる癖がついたけれど

 流れるものはなく
 まぶたを閉じて星をみつめる
 このまま腕を残して宙に出るに如くはない

 現代を漂った彼も、一生で学んだのは詩作の方法でしかない。それも、ひとつきりだ。
 …他者を知覚する働きでは、未知なる概念が時間軸上の流れとともにしだいに言葉で示され、その単一方向の統合の彼方に、相手の内的複雑さが秘められていると感じさせる。つまり複雑さとともにある単純な表現であり、実際、相手の個性を形容できるが、その意味するものを本当に理解しているわけではない。一方、自己を知覚する働きは、未知なる概念が空間的に分裂し、それらが内面で図式化される様子をそのまま言葉にしようとする。そのため図式を共有できない他者には混乱としかみえない表現があらわれるだけでなく、複雑さを疑いにおいて派生させるため、中心の喪失を余儀なくされた体系がうまれるだろう。以上の作用をふまえると、対自意識によって自画像を描くことが、非常に困難な理由も理解しやすい。とはいえ、どんな言葉も関係性のなかの一部であるからこそ、「中心の喪失」そのものを言葉で実在させることが可能なのだ。その喪失感を、外部との関係性で埋めようとするのが実存の不安の根源だとしたら、言葉にかかわるとは、足元の本質的な矛盾を超えられないまま、主題の発見を先送りしている行為だといえるのではないか…。
 そう、終りはない。穏やかな心で妻と子を見守ること、それは永遠に影であることか。

  #37

 その日、職場から示された研修に参加するため
 電車を乗り継ぎ、着いた駅まえでは
 事前に調べておいた人気店で昼食をとり
 やや満足した気分になって
 妻は、午後の会場に座っていた

 はじまってみれば
 感染症の実態および対策に関する発表に対して
 専門の医師たちから活発な質問がつづき
 おもいのほか勉強になったと
 本人は話してくれるが…

 たとえば近年、世界でもっとも多くのヒトを
 死に至らしめる原因となった生き物は蚊であり
 その媒介により細菌やウイルスが
 巧みに人体へと侵入している

 この話題があんまり印象的だったらしく
 名称である一文字だけは資料の端にメモしようとして
 八センチ四方もありそうな「カ」が
 細々と力なく、夢うつつに伸びている

  #38

 五月のはじめ
 このカナヘビをどうしても飼いたいと息子が言い張り
 しかたなく本人にまかせたが

 以前、アリを育てようとしたときと同じく
 数日はいじりまわすので
 小さな生き物はくたくたに疲れきってしまった

 ケースのなかで動かなくなったカナヘビも哀れだが
 アリのときには、手足がもげ
 腹をぶちぶちとつぶされていったことを思うと

 やはり放っておけなくなり
 仕事帰りに草地でバッタをつかまえ
 エサとして与えることにした

 やがてニヒルな彼にもほどほどに愛着がわいて
 より良い獲物を捕えたくもなると
 気分はまさに狩猟民の長だ

 夕方、若くもない男が一人
 空き地の草の中をかがんで探っている姿は
 さぞ、異様なものだろうけれど

 飼っていたカナヘビは、捕獲前にしか交尾はできなかったはずだが、一〇日おきくらいに五回も卵を二個ずつ産み、最初の三回の六匹が孵った。エサを与えたものの、幼体は一週間ほどで死んだ。親が子を残そうとする強い力に比べ、子の命はあまりに儚かった。
 拾われない預言は時空に取り残され、命もばらばらに散っていく。まるで朽ちて顔を無くした弥勒の像のように。今ならわかるが、二つは同じものだ。それは、「未来が身近に実現することで距離がなくなり現在と重なる」はずだったのに、こだわりなく消える。
 そういえば、部屋にいた蚊を殺そうとして逃げられると、痒みには死の予感があった。

                        (二〇一九年一〇月二〇日 了)


竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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