竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
 

 見えてくること、それは、「慈悲からうまれたもの」という意味とともに名があり、遠い未来にこの世に下生して衆生を救うため、兜率天にあって今なお修行している、そのものに因っている。半跏の姿はくつろいでいるようでも、その待機は休息ではなく、思惟の集中は休みなく続き、明智の水位は高まりつつある。そのものが在ることで、来るべき救済が約束され、数分前に放出された太陽の光が人々の元に届き続けるように、未来は現在にとめどなく流れ込んでおり…。
 (この星が無数の木を育て、
  その一本を愛したゆえに、
  人は、その木について考えはじめ)


  #29

 仏像はシルエットで見る
 逆光として受けとめる


 そのとき、仏から放たれる生命のほほえみが
 この身に激流する血を、なだめ…

 立像トシテ巨木カラエグリ出サレタコト
 ナサレルママ金箔デ輝カサレ
 人々ノ畏敬ノ目ヲ浴ビセラレタコト


 イツシカ人ノ気配ガ長ク長クウシナワレ
 雨風ガ過ギ、渦マク地ノ大揺レデ落チ葉ノウエニ横タワリ


 手足ニくもガ巣ヲヒロゲ
 トキニ頬ヤ腹ニはとガ糞ヲ落トシ
 フタタビ人ガ現レ、コビリツイタ積年ノ汚レヲ清メ


 朽木トシテ整イ、かたちトナリ…

 その場において開かれ
 今を告げていると、知る


 「生物が変わるということは、生物の属性である。だからといって生物は好きなように変わっているかといったら、そうではない。なぜかというと、地球上のすべての生物は、もと一つのものから生成発展したものであり、そこに始めから、一つのシステムとしての相互適応が成り立っている。相互適応が成り立っているということは、そこになんらかの調整があり、抑制がはたらいているということである。したがって、自然の生物を自然から取り出して人間のもとにおくと、今まではたらいていた自然の抑制、あるいはシステムの抑制というものがなくなる。そこで生物はその属性を発揮して、自然状態では絶えてみられないようないろいろな変異をあらわしてくる。例えば栽培植物や家畜にはいろいろな品種がつくり出されている。あんなのを自然界に戻してやっても、たいていはうまく暮らしていけない。それがもう一度野生化して、もとの種に戻ったら、生きていけるだろうが。だから、人間のコントロールのもとで、あれこれできたとしても、自然においておこなわれているという証拠にはけっしてならない」。
 今西錦司によると、地球上の生物には抑制がはたらいており、秘めている属性が発揮されるためには特殊な環境の持続が必要らしい。つまり、技術の組み合わせによって危うくもバランスを保つ世界像が必要となる。そうした人工的な環境への変化が、地域ごとで留まっていた間は、人類全体にとって大きな問題とならなかったが、一八世紀後半のイギリスを中心に起こった産業革命のように、手工業から機械工業へといった大規模な変化が各地に広がることで、人間のための世界は、地球による本来の抑制から分離した。それは、地球にとっての正しさと関係がなくなることを意味する。結果、人々はこの星の自然に則ってではなく、解放された自己の属性に基づいて維持されることになり、その属性の可能性を追求しながら、健全性および健康を買い続けることでしか自己を評価できなくなった。換言すると、現代人、とりわけ二一世紀以降に都会で育てられた者は、海辺や里山といった大地ではなく、社会という構造のなかに、故郷を感じているとも推測される。
 その形象化の現在的達成がスマートフォンとの生活であり、職場でも家庭でも手軽に利用でき、すばやい事務対応や趣味の世界での達成をゲーム感覚で進められるだけでなく、郷愁を誘う画像に見入ることでフッと帰省したような気分転換も味わっている。しかし他方、生物としての人間の第六感は刺激を与えられることなく衰え、街中には、化粧や雑学でその身を整えた美男美女があふれているが、彼らは養殖の魚を品定めするかのようなまなざしを互いに向け、どんな異性にも絶対的な魅力を感じなくなっている。
 そういえばこの国の人々は、自然に生えたものなど、今ではまったく口にしていない。過剰に品種改良された植物や、人工的に配合されたエサしか食べていない動物ばかりが、きれいに処理され、食卓に届けられている。そしてその工程で排除されるものは、ゴミと呼ばれてきた。だが、地球上のものは、時間をかけてすべて循環しているのだから、人類が存在しなければ、そもそもゴミという概念はあり得なかったはずだ。それとも、この星にとっての正しさと無関係になることがゴミだとすると、異様な生物が排除されようとして、癌や脳梗塞になる人が増えたのだろうか。ここにこそ現実が見えないこともない。


  #30

 いくつかの大都市では
 その夜景がきれいだと公的に宣伝されているけれど


 昼間の街並みに調和した美がかんじられないからこそ
 それぞれ勝手に消費される電気による平板さに
 郷愁にも似た見世物を求めたくなるのだろう


 ひとつひとつの灯りの向こうには
 職場であろうと自宅だろうと
 たいてい老後の閑暇や長時間労働や恋愛に溺れた顔がゆがんでおり


 そんななか、一人の詩人は
 狩猟生活者の気分で一冊の本をしずかに握りしめている


 かつて遊牧民が馬の群れを受けいれ
 馬たちがヒトの群れを受けいれた瞬間のように
 ともに草原を移動していく…


 余剰の光など持たなくてもいいから
 未来のようにふるえている


 およそ文学空間が人々の社会生活から乖離する様子は、人間社会が地球本来の秩序から乖離した際の状況に似ている。一般に、技術的な洗練により作品が抽象化されることで、作品内容が多方面の娯楽性を抱え込む。このとき文学空間は、目の前の人々の生活感情を過剰に刺激しようとする。過剰な刺激は受け手の身体にストレスを与えるが、同時にストレスを緩和させようとして快楽作用も起こるため、鑑賞者は心地良さをなめるように認識していく。そこに、超絶技巧への自虐的な衝動が成立する。
 その点、人々の生活感情に寄りそうように歌われた昭和の歌謡曲は、当時を振り返る個人にとって、今、驚くほど身に沁みてくるのはなぜか。それは、かつてのように心を躍らせるのではなく、失われた大切なものの具象性に覚醒させてくれるようだ。いわば精神的な心の動きが主体となり、超越的な視点を発生させ、個人的な好みとは関係なく、現状維持すべきものに気づかせる。かつての現在が理想的な未来へと引き上げられ、その未来が身近に実現することで距離がなくなり現在と重なる。ここにこそ、地球本来の秩序に近いものが達成されていると、想像できないだろうか。
 文学であろうと映画や漫画であろうと、作品空間が、地球本来の秩序との接点を見出させるきっかけを与えてくれることは、現在の地球の生態系が不安定になっていると人類が判断しているだけに、来るべき批評になり得るだろう。


  #31

 この星の本能に忠実でいられますように

 その響きは
 たった今、みつけた祈り


 やさしい気持ちでくりかえし唱えられる喜び、その染みわたり

 うちなる慈悲の感触をあらたにし
 我々である死を、生において受けいれさせる涼しさ


 なにより、多くの意見を集約して決めたルールの明確さこそ
 地球上での醜悪さであると信じさせる浮遊感


 だれもが、この響きの非力さしか認めないとしても
 なんとかなる、心配するな、という安らかさ


 わたしの本能に忠実でいられますように

 多くの人にとって、現代社会を生きることは苦痛でしかない。不幸にも妄想がひどくなれば、「わたし」と対立する社会の象徴として、『ターミネーター』や『マトリックス』などの映画のストーリーが思い出されてくるだろう。計画的な管理で成り立つ機械文明と戦う主人公たちは、生身の自分自身を自覚して取り戻すことで、地球による抑圧で成立する本来の不確定な自然の秩序へと戻りたいと願う。ただし、人は現状に不満を抱いたとしても、必ずしもその状況を外側から眺められるわけではない。たいてい、現状として取り巻くものの内側において、不満に対処する。
 状況を外側から眺められるまなざしとは、その共同体に対し普遍的な観点から判断できることを意味するが、仮にそれを延長していけば、人間の物語そのものが、おのれの根拠をめぐって戸惑いをおぼえるはずだ。家畜化されていた動物や植物なら野生化もできるだろうけれど、家畜そのものでしかない人間が野生化するとは、どういうことなのかと。
 (無数の木が育つなか、
  一本を愛したゆえに、
  その人は、木についての考えがわからなくなり)


  #32

 オフィスは、所在としてのビル
 という原石を
 自身にとっての到達点だと見做しつつ
 影を、音のように伸ばし
 権利のあるなしで動くものがあちらへと糸を張っていく


   梅雨の晴れ間
   飲んでも、さらに飲んでも
   渇こうとするのは
   熱への順応のためか
   その身体性に反応できない「心」が
   「べ」になり、立ち尽くすからか


 どんな戦場も野蛮だというなかれ(戦争で負ける
 ゆえにその民族は野蛮だとみなされた)
 そこには聖霊が舞っていて
 裸者のための故郷をいつしか歌おうとしている


 けれども、きみの考えるように
 超越性はたしかに人よりも、悪魔と親しく
 糸は、渇きを知らない彼のためにある


 もしかすると、文学空間が人々の社会生活にとけ込むには、人間社会が地球本来の秩序から乖離していないと感じさせる作品を示さなければならないのだろう。
 それこそ、詩人としての賢治や中也には、不器用さやへたくそな面も目立つ。この二人より巧みな近代以降の詩人や、今の詩の業界から高評価を得ている詩人は幾人もいる。しかし一般的に、より好まれているのはこの二人ではないか。これは、一休や良寛といった人物についても同様にいえる。はるかに僧として偉大だった人物はいくらでも記録されているが、彼らほど世間で愛されている僧はいない。
 ともかく、この四人に共通するのは、若いころに苦労しながら生真面目に勉強し、一種の完成を自覚したあと、その表現方法を徹底的に崩してしまったということだ。そこで彼らが向き合ったのは、天然の自我ではないか。つまり、現状の社会に対して謙虚になるのではなく、地球本来の生産性と同化するような働きを受けいれ、赤裸々に生きたのだと思われる。この働きは、過去の文化を乗り越える意図などわざわざ持たないので、専門化された文学空間や宗教空間の内部には、本質的に居場所はない。
 そうして、風に舞った彼らの言葉は、いまだに人の心に響きわたり…。
 (無数の木は育ち、

  その一本、
  その人)

  #33

 周辺のどこよりも小さな住居とともに家族があって
 妻は「どうもどうも」と一日を過ごし
 育ち盛りの子は、泣いたり笑ったり返事をしなかったり

 まっしろだった壁が油染み、へこみがあらわれ
 手ごろだった部屋の広さも捨てられないガラクタでふさがっていき…

 
 重なる日々を自覚したからなのか、自室に一人でいることが増え
 散策しながら季節の草花を眺めるときよりも
 とおい星々の存在を身近にかんじている


 目のまえに開いた諸手に、鼓動する地球から与えられる親しみ

 夜空へ掲げた星座をたどり、いつまでもみつめられる驚き


 宇宙はここでは静かだ

 人であることを忘れさせる
                         (二〇一九年九月二八日 了)

竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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