竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
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 悪の手段を用いてでも善になろうとする誘惑に抵抗し、教皇ヨハネスは次のような決心をしていたと、ハンナ・アーレントは著書に記している。「彼は、野の百合のように、いつも『一日一日、いや一刻一刻を生きる』ことに満足していた。そして彼は今、彼の新しい国家(教皇政治)の『運営の基本ルール』を定めた。『未来に関心をもたない』こと、『人間による未来への備えをしない』こと、『だれにも、確信をもってまた不用意に未来について語らないように気をつける』こと、である。『それをすることでだれかの役に立つだろうと期待して何らかの面で悪と共謀する』ことにならぬように彼を守ったのは信仰であって、神学的ないしは政治的理論ではなかった」。
 善い人間であっても、誘惑に負けて悪い手段を受け入れてしまうのは、因果的必然という理屈や、神意の解釈に結びついた未来での善というイメージに起因することが多い。そうした選択へと陥る理性に対し、教皇ヨハネスは否定的なまなざしを向け、信仰に依拠して拒否したわけだが、ここで支えとなり得るのは信仰だけだろうかと考えてみたい。
    そもそも、未来の価値をどう想定するかによって、その共同体を支配する思想は根本的に異なる。図式的に述べるなら、かつての遊牧民(自由人)は貯蓄が困難(未来像)であるがゆえに仲間に等しく獲物を分け与えた(平等)が、市民社会(機会の平等)では所得格差を是正する名目(未来像)で規制を増やしている(不自由)。この譬えでみると、教皇ヨハネスの発想は遊牧民の生き方に近いと理解できないこともなく、市民社会(法の支配)で神のしもべを代表するヨハネス(自由意志)は、未来像(善悪判断)を拒否するゆえに平等に対応できた(信仰)のように、一面では社会像として時代に逆行していたと見做せる。逆行の問題はさておき、信仰に代わり得るものとして、遊牧民における平等な分配という慣習を想定してみたいが、ここにはどんな善悪の姿が潜んでいるだろうか。
 いわゆる多神教とは、地球による本来の抑制を尊重した、人と自然との距離感の持続性のことだとすると、平静な自然の力の向こうに、嵐への畏怖を忘れないのは当然だ。それゆえに地域性から逃れられず、歴史ではなく神話を継承しようとする。他方、一神教(世界宗教)とは、人間のつくりだす世界像を抽象化し、完璧さのイメージを神として整えるとともに、そのイメージの向こうに超越性(永遠)という不可侵の一点を定めることかもしれない。多神教における嵐の記憶は未来への警告であるのに対し、一神教では過去の清算として神との新しい契約を意味づける根拠となっている。そのため一神教の神は絶対であり続けなければならず、世界は全体主義に似てくるだけでなく、歴史的にも争いに負けるわけにはいかない。善のかたくなさによる規律が特殊な者を浮き彫りにし、彼らの反動を増長してニヒリズムを出現させるなど、構造的に排除の作用を備える。この点、多神教はニヒリズムに相当する神を存在させることで内部的に処理し、全体ではバランスを保っている。ここに遊牧民における善悪のあり様を想像してみると、ヨハネスの方法とは、「排除の作用を備え」ることを、非知や時差を利用して避けていると捉えられよう。
 次に、ヨハネスと遊牧民から得られる仮説をそれぞれ簡潔にして、二つの命題を導いてみる。(神から与えられる)自由は、(人間による)未来像を拒否するゆえに、(個々人は)平等である。(個々人の)自由は、(絶対的な)未来像を拒否するゆえに、(意味の分配性において)平等である。両者を比較する前に、「主なるものの働き」と相関関係にある人間の性質、特に社会的に弱い立場の者が主体性を獲得する方法に注目しておきたい。つまり自らが社会のなかで主人になることを放棄し、神に服従することでまとえる主体性によって精神の安定を取り戻す、という解決が、一般性を獲得している事実のことである。
 この本能的な傾向をふまえ、神と単独者との相関性を肯定するなら、二つの命題の差異は難なく消される。(主体性における)自由は、(他の主体による)未来像を拒否するゆえに、(意味の隠匿性において)平等である、と。要するに単独者とは、獲物を消費した遊牧民の狩猟前の状態のようなものだといえるが、これでは空虚な言い草でしかないため、各時代でさまざまな遠近法が加わる。例えば他者(神)との距離感についても、「意味の隠匿性」による事前的な平等と、「意味の分配性」による事後的な平等との間を、揺れ動いているのかもしれない。いずれにせよ、現在の平等の質を見極めることで、この時代の遠近法を確認し、幸福な様子をしているかどうかを見極めることは、詩につながるはずだ。

  #22

 あれは、わが子が三歳のころだったか
 公園で追いかけっこをしていて、はじめてのミミズに立ち止まり
 「かっこいい!」と、てのひらに捧げ持ったことがあった

 幼稚園の卒園式でのスピーチでは
 運動会でも、お泊まり保育でも、かぐや姫のお爺さん役をした発表会でもなく
 「ねんどであそべたこと」が一番の思い出だと、胸をはって声にした

 今、一年生のきみは泥だんごに夢中だ
 かためて、こすって、いつかはアオイくんのものよりピカピカにしたいと
 なつかしい輝きを秘めた目を向け、パパに話してくれる


  #23

 現代の小学生には地域ごとに集団登校する決まりがあり
 上級生四人につれられ、わが子はたのしそうに通っている
 休日も彼らと遊ぶようになると

 ちいさなわが家にも集まって、隅から隅まで走りまわっていたけれど
 何度か来るうち、ひとつふたつ、おもちゃが減っていくことに気づかされた
 犯人はわかっているので、もう家にはいれないとその子に話したら

 「わかったよ!」と強気にこたえ、しぃーんとした数週間が過ぎていった
 その間も毎朝、子供たちは変わらず仲良くしていたが…
 やがて寒さの緩むころ、ポストの上、消えたおもちゃが立っていた


  #24

 どうにもしかたのないことだけれど
 わが子は園児のころから、早く走るのが得意ではなく
 仲間と鬼ごっこをすれば何度も何度も鬼になって、泣いていた

 運動会も間近いある日、練習で今日は四位だったと聞かされ
 一人抜いたのかと父母はおどろき喜んだが
 よくよく教えてもらうと、休んだ子がいたとそっけない…

 二年生になり、クラスで一番早いものがあると誇らしげに告げるので
 なにかと尋ねてみたら、給食の早食いとおかわりだそうな
 どうりで、ますます立派なお腹になってきたわけだ


  #25

 夕刻、子を迎えにいくと右足首にシップを貼って痛そうにしている
 「お父様と連絡がつかなかったので、お母様にご連絡したら
 職場から車ですぐ向かうとのことでした」と学童の指導員の方が教えてくれる

 待っていてもしかたないので、子をおんぶして帰ることにしたが
 子もあまりしたことのない姿勢のため、父の首をグイッと絞めるばかり
 重い重いと家に着くころ、妻も戻り、病院に向かい検査すればやはり捻挫で

 数日は体育を休むことにしたものの、痛みが治まったころに風邪をこじらせ
 金曜から月曜まで家で身を縮め、回復はしたが、「明日は、とびばこだから
 見学したい」と、弱気になり苦手なものを避けようと母に訴える始末


  #26

 「むかしは、黒と白しか世界になかったの?」
 「そんなことないけど、どうして」
 「だって、古い写真はみんな黒と白だけだから」

 こんな会話で笑いをあふれさせてくれたきみも
 テレビを観るときには画面にじわじわ近づくようになり
 図書館で同級生に会えば、眉間にしわをよせて確かめたりで…
 
 上巳の今日、決心してパパとママは眼鏡屋にきみを連れていった
 お似合いのフレームは濃い緑、やや四角く細みのもの
 ふいに世界がはっきりし、子は、空の彼方に未知の色を探すかのよう


  #27

 妻の誕生日には毎年のようにこぎれいな和菓子を持ちかえるが
 今年はわが子とともに選んだスパークリングワインを添えて夕食の席につき
 好みのチューハイを買ってきた彼女にも泡立つワインをたっぷりそそいだ

 子はテレビゲームを早くいっしょにしたいとさわぐけれど
 ごきげんに呑みつづけるパパとママは、まだまだおしゃべり
 ほろ酔いの妻はさきごろ出席した友人の結婚式の模様を話してから

 わたしもパパと結婚してよかったぁ、と述べる…
 オヤッとおもう驚きが、ゆったりと歓喜に染まっていき
 心の奥、妻への申し訳なさがあったことも、つくづく噛み締める


  #28

 きみの持ち帰ったプリントのなか、「わが家のルール、家族のきずな、
 命の大切さ」をテーマに短詩を作るという宿題をみつけ
 アリ好きのきみが風呂に入っているあいだに

 「ぼくがアリを飼いたいと頼んだら
  家に入るからダメとパパは言う
  でもアリはだれより地球の近くで働いていて

  地球もこの家よりアリと仲よしなんだよ」とメモしてみた…
 これをみつけ、よくわからないからバツと言い
 それでも書き写し、翌日、巣へ運ぶかのようにきみは学校へ持っていく

 家族三人の平凡な日常では、幼い子供の存在がどうしても中心になるから、夫はパパと呼ばれ、妻はママとなり、少年だけがいつだって愛称で褒められ、叱られ、心をこねられ、スナップ写真のように記録が増えていく。そこに家庭があることで、園児生活という区切りでの一番の思い出が語られ、近所の友人との上下関係が深まり、苦手な分野での笑い話や、思いがけない怪我、無垢な質問で新鮮な気持ちをまわりに与えてくれたり、両親から邪魔者あつかいされたり、ときにイタズラのように宿題の手助けがなされたりする。
 これらのスケッチは幸福感にあふれているだろうが、およそ現代の遠近法とは無縁なものだ。なぜなら、ここには他者が入っておらず、平等の観念さえ必要とされていないからである。三人にとって家庭とは、荒野にも似た社会生活のなか、唯一の安全な場であり、その感覚はある意味で、時代状況とは関係のない普遍的なものといえるだろう。
 だからこそ今、「意味の隠匿性」による事前的な平等と、「意味の分配性」による事後的な平等との間からはぐれ、深刻に虚無をさまよっているのは、人間の尊厳という宣言ではないかと思う。見栄をめぐる名誉ではなく、命の尊厳という、生死に対する基本的な抑止力が無効化するとき、自分を含め人類は無価値だと、人々が感じてもおかしくはない。
 人と人は互いに心からの挨拶ができなくなり、他者に気を遣いつつ自己の立場を有利にするばかりだから、この国の多くの地域で挨拶という機能が消えかけている。会社内では、仕事の流れにおいてリーダーと阿吽の呼吸ができない者は、無能だとけなされている。地域社会ではルールをごまかす者との些細なトラブルで、隣人への不満はふくらみ、法にふれない程度の復讐を狙っている。もちろん、そんな機会は訪れず、はからずも不幸に巻きこまれた隣人を笑うことで昇華している。だが、何のための復讐なのか。
 実のところ、人間であると確かめたいのだ。そうしていつか、彼の前にイメージを超えた自然が現れる。どんな暴力もやりすごし、冤罪にもかかわらない、その微笑みに驚かされる。見渡す限りの生命に、老父母へのおもいやり、妹への慈しみ、亡き叔父への親しみを取り戻し、今が過去を照らし未来へと送り出されていくなかで、弥勒さえ見えてくる。
                                       (二〇一九年九月九日 了)
竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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