竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
 

 日録のところどころに、星印をつけたメモがある。例えば一一月二七日には、「仕事を終えるとは、何もかも失い、次の仕事に新しさをみつけることだと感じる」という一節につけてあるが、読み返しても、当時の心情を取り戻せない今に気づかされるだけだ。失業などは問題ではない。社会のために役に立ちたいといったプラカードには無関心になっており、技術や戦略といった労働の本質にも楽しみをみつけられそうになくなっている。そうすると、どんな職場に行っても同じだから、「終える」ことができない。こうしたときに、超越性への強い気持ちがあふれてくるのは、やはり当然なのかもしれない。
 さらにページをめくっていくと、次は三月二六日に、「本能とは、個体維持と種族維持において、現状維持を望む。けっして子孫繁栄を求めているわけではない。なぜなら、それは自滅をもたらすからだ」と記されている。そのころは、今西錦司全集を順に読んでいたため、学んだ内容を一息分にまとめたのだろう。ともかくこちらは、おのれの世界観を一変させるほどの発見だと考えられるものであった。
 日記を読み返すなんて、この二〇年、一度もなかったが、本業がうしなわれ副業だけをのんびり続ける空白の多い時間のなか、昨年以降の記述を開いてみて、忘れていた言葉に出会うというのも、何かの啓示のように思われる。
 いつだって、本当の仕事がしたいと彼は意識していた。仕事といっても、経済活動との関わりを気にすることなく、生きるうえで大事なことをみつけ、それにふさわしいかたちを与えたいと考えていた。それが詩歌になっていった。逆にいえば、職人にはなりたくなかった。職人における技能の熟練には敬意を感じるが、そこで見出された箴言に、本物はないと信じていた。なぜなら、人工空間のなかでの達成にすぎないからである。真の芸術家の作品ならば、自然との調和を人は得ることができると教えられるが、職人の巧妙な作品では、人間の能力の可能性が示されているだけだと、彼には受けとめられたのだ。
 そのような気分で、かつてのサラリーマン生活を描いた自作を読み直すと、自然との調和への意志がほの見えないこともない。逆説的な方法として、社会的評価を放棄したような対象に、不思議に輝くものをみつけ、価値あるものとして取り上げていたのがわかる。

  #15

 印刷所に元原稿とそのデータを持参すると
 営業担当者がコーヒーでも飲みに行きましょうと誘う
 まだ若くみえるおじさんだが、来月には定年退職だという

 「田舎に住んでいるから新しい自転車を買ったけど
 遊んでばかりじゃ、すぐ飽きるだろうなぁ」の合間に
 「残っている支払いを早めにお願いしますね」のほほえみ

 それから話題は、「選挙中の候補者先生には
 結果が出る前日までにポスターの印刷代金を払ってもらわないと
 事務所がなくなって逃げられてしまう、ひどいね」とのこと

 高卒で植字工として入社したが、世の中の印刷技術が大きく変化したとき、不器用で他に何もできないため、お情けで営業職に変えてもらい、四十数年なんとか勤続してきたという。これからは印刷業もますます経営難になるはずだから、今回はいい潮時だと。
 退職までの一週間、会社が近く、適度に若かったため、三度も昼食に誘われ、寿司屋なら「特上」、うなぎ屋では「松」、イタリアンのランチならセットにケーキなどもつけて、ごちそうになった。おそらく、勤め先との関係も最後だから、経費で落とせるだけ落としたのだろうが、古き良き時代の話をたくさん聞かせていただいた。
 思い返すとこの小柄なおじさんは、ふらりと会社に顔を出し、何か仕事ありませんかねぇ、と社長とにこやかに雑談を交わしていたが、その後も年に三度くらいお茶菓子をおみやげに、やって来るようになった。それから五年ほど経っていただろうか、取引先とうまくいかなくなったとき、名刺の連絡先に電話し、見積りをできるだけ下げてもらって、ついに月刊誌の印刷をお願いしたという経緯があり、あのときの笑顔は忘れられない。

  #16

 本日の仕事に区切りがついたらしく
 八〇歳前後のおじいさん二人がインスタントコーヒーに湯をそそぎながら
 「最近、電車のなかで、みんなスマホをいじってる

 こんな社会にするために残業残業で働いたわけじゃないのになぁ」
 「ハハハ、コーヒーも昔は豆からひいて飲んだけど、今はなんでもいい」
 …それはもはや、穏やかとしかいえない抜き取られた光景

 かつて地球上で生え、泳ぎ、這い、歩み、飛んだ多様な生物のうち
 九九%以上の種類は消滅したと生物学者らは意見している
 人類による自然破壊など、むしろ自らの首を絞めているだけか

 単なる他人として、知人にさえあまり干渉しないということ。個人それぞれが生活習慣の経済効率を上げると同時に、パズルのように空白の時間を埋め尽くしている時代。若い者は若い者らしい所有物により、年寄りは年寄りらしい所有物によって、光をいっぱいに浴びた自己を整理している。まるで、覗きにくいちいさな手鏡のなかに自分を押し込め、視覚や聴覚や味覚を、単調なリズムで酷使するみたいに。
 他方、その陰で生物はすでに去り、いるものは隠れ、ひっそりと育っている。総体でしか感受できないその事実を、死者と裸者のあふれるジャングルを一人さまようことで、自らを傷だらけにしながら学んだ人もいた。そこでこそ、「かつて地球上で生え、泳ぎ、這い、歩み、飛んだ多様な生物のうち、九九%以上の種類は消滅した」からである。それは、人としての生き方を反省する機会でもあったはずだ。
 パズルのなかで辻褄を合わせようとする人生、それはすでに結末と共にあり、すぐさま消えてどこにも無くなるだろう。学生のころに描かれたシュールな風景画のように。

  #17

 帰宅時の車内におおきな声が響きわたっている
 「明日、給料日だから五万円くらい入る」と痩せたのが話せば
 「オレなんか日給一〇〇円だから一カ月三〇〇〇円だ」と太ったのがいう

 「それじゃ、帰りにジュース飲んだら足でるじゃん、交通費は出んのか」
 「交通費は母親が出してる、定期だから七〇〇〇円くらい」
 「じゃ、仕事やめて、定期代をかわりにもらった方がいいじゃん」

 太ったのは、おもむろに歌いはじめ、声はしだいに高くなっていく
 アイドル歌手の曲のようだが、切れ切れに、無骨に、いとおしそうに
 車窓の菜の花畑につつまれて、あたたかい車内がゆられている

 満員電車にもまれる出勤時と異なり、帰りは早目の時刻だったので、比較的ゆったりと立ち、読書ができた。経験しただれもが感じていることだろうが、車内ではさまざまなやりとりの観客になる。背中にぶつかったといって喧嘩をはじめる二人の大人。昨夜の彼とのやりとりを大げさに話す若い女性とうなずく友人。同じ話題を大声で繰り返すおばあさんたち。それらに対し、多くの乗客はちらりと眺めた後、静かに自分の姿勢を保つ。
 もちろん、親切さにあふれる方ともすれちがえば、驚くほど美しい顔立ちの異性としばし目が合うこともある。いずれにせよ、こうした人々については、それ以上はみんな忘れた。いつまでも印象に残っているのは、あの太った少年の、まったくためらいのない歌声だけだ。それは、消滅しなかった一%の種のように、思い出せば、呼吸しはじめる。

  #18

 新居に慣れるほどに部屋を移動する自分の手足はなめらかになり
 収まったような収まらないような家具たちも目に立たなくなったが
 訪ねてきた妻の母や妻の友人はそろってカーテンが気に入らないという

 一階のリビングのカーテンは窓の高さの半分ほどしか垂れておらず
 ささやかな庭に植えたアサガオやそれぞれの石の表情をいつでも眺めさせ
 折り重なる光の作用を床に示しながら「時」を彩るというのに

 あるがままの景色から学ぼうとする姿こそ幸福の原点ではないか
 多にして一にすぎない家庭の形式主義にそまる心は闇に溶けていくだろう
 カーテンの噂で機械的に笑う者が自らの作用に巻き込まれる空虚さよ

 彼にこだわりがあったわけではない。やや不自然であろうとも、「収まったような収まらないような家具たち」が、不満を表情にあらわしたこともなかった。むしろその場所で、午睡のまどろみにふけるように、互いに幸せそうにしていた。
 そうか、あれが幸福のかたちなんだと、示してくれているようだった。
 それは日常への誘惑であり、埋没でもあろう。しかし、ささやかなこうした時間を許そうとしない力が、いつだって他の生命を狙っているのだ。

  #19

 午前四時、台所のちいさな電灯をつけて冷たい麦茶を飲もうとすれば
 食器棚に収まるグラスたちが見慣れない妖しげな光陰を放つ
 日常としての蛍光灯は公権力のように存在を味気なくしていると思考し…

 午後五時、信号のない十字路のあちら側、自転車の前後に二人の子供を乗せ
 若い母親が身動きできずに立ち止まり、三人はふりかえっている
 こちらが自転車で進むと、路上におもちゃの拳銃が落ちており

 右折する車が通りすぎてから拾おうとおもうと、踏み潰される音がする
 破片を拾って女性に手渡せば申し訳なさそうに礼を述べ、子らは泣きじゃくり
 自家用車は公権力のように子供の夢をふみにじると重ねて思考す…

 ふだんとは異なる色と角度の光を浴び、グラスに輝きがあふれていくひととき。まだ眠気の残っている頭だから、人工的な美は結局、公権力の模倣でしかないと、なにものかに囁かれている気がする。やがて目がはっきりと覚めれば、おもちゃを踏んで走り去る自家用車のように、ルール以外は見えていないものこそ、恐怖の対象なのだと学ぶ。
 そのように、公権力と同化する生活を強いられ、それでいて私的に力を行使していると感じるよう脅迫する社会。民主主義の向かうところは、個人主義に引きこもることの肯定であり、個々の趣味を発展させるために資本主義が利用されるという現状の維持であろう。見方を変えれば、進歩や改革などの名目で、経済活動のすみやかな流れが優先されるとともに、種としての本能の働きに対しては、当事者の合意の有無が露骨に問われ、罪と背中合わせのものとして隠微に抑圧されている(そして脱いだ女に魅力はなくなった)。
 まさに、責任の所在を都合よく明確にすることで、法こそが安全を調えているとみせかけ、本来の意味でのナイーブな未来を消し去る思想がはびこっている。こうした場所に本物はあるのだろうか。疑問は湧いてくるが、観念的な現実から逃れられそうにない…。

  #20

 自然状態からみれば公権力は癌細胞のようなものだから
 法律を増やそうとする彼らを排除するひとつの手が必要なのに
 この国では仕事中の彼らに対抗する術もなく、妄想にふけるしかない…

 見通しのよい砂漠に一本道が伸び、赤信号が灯っている
 その横には一本のやせ細った木があって木陰にパトカーが止まっている
 やってきた一台の車は停車して青を待つ

 かつて大きな災害が続けざまに起こったため昼間は赤のままだと
 記憶の底から思い出されてきたが、もはやしかたない
 この青空の地平線へと視線を駆けぬけさせれば実に気持ちいいだろうに

 われわれは監視され管理されている、と知っている、と思わされている。
 いつか、人工的な技術で地球環境を完全にコントロールできたとしたら、地球外から入り込む未知の力がない限り、一〇〇〇年王国も夢ではないだろう。その前提として、この星の生命体の可能性と限界が分析できていなくてはならないが、現代の科学者とAIの実力をもってすれば、数値的には時とともに明確になっていくにちがいない。
 動物や植物などの野生生物が、正確に管理されることで相対的に家畜化し、これまで以上にそれぞれの秘めている能力が発見され、さまざまな分野で利用されるだろう。人間の暮らす環境は、可能な限り快適な空間となり、個人の健康の目安が定期的に一覧に示されるだけでなく、身体に悪影響を及ぼすウイルスや菌類は、人間の生活領域から必要なだけ遠ざけられるだろう。日々の労働においても、能力の適材適所が柔軟に機能されることで、売買における価値の感覚が変革し、そのうえ多くの犯罪の原因でもあった金銭による取り引き制度が廃止されることも予想される。
 政治世界では、人工知能に依存することで無駄が抑えられ、どうしてもなくならない利害関係や既得権益に対しても、関係者への排除の発想ではなく、地域全体を視野においた第三者機関による時間的余裕をもった穏当な裁判が実施されるだろう。こうした世界観は、絶対神による宗教的世界観に近いのかもしれないが、その目的は隣人愛や慈悲の心による調和ではなく、文化秩序の物理的な維持ということになるだろう。ならば、人間社会にとって当面の敵となるのは、現状に不満や違和感をもつ夢想家の反抗ということになる。
 そして、巨大な隕石の落下のように彼の言葉が存在する、という瞬間もくるだろう。

  #21

 毎朝、家族親族の一日の無事を祈っていると
 唱える文句がしだいに長くなってきた
 それでも慣れれば自己流の言葉がよどみなく流れ出すようになる

 ときに、心に引っかかることがある日には
 祈りの響きが途中で切れてしまうけれど
 気持ちを入れかえ、意識して唱えれば身が引き締まるようだ

 心配ごとといえば、温厚すぎる子と咳のつづく妻のことばかり
 ちいさな水槽に一九匹もいた金魚は
 病気がひろがり、あっという間に一匹だけになったから

 だが、言葉を費やせば費やすほど、おのれは凡庸になっていく。いや、凡庸さを費やせば費やすほど、おのれは観念的になっていくようだ。観念の世界では、観念の積み重ねで勝負するしかないが、相手が先に敷いた論理のなかでは、勝てるわけもない。
 だからもう一度、日録を開かなければ…。
 「自然現象への感情移入、擬人化は、悪である。それは生命の営みではなく、開くべきでない可能性を描く観念にすぎない」。日付のない日に、このようなメモがあった。コミュニケーション能力を無くしたものによる、内なる愛情の発散だろうか。人間が生命とかかわる際の、あるべき姿についての預言の切れ端とも受け取れる。
                         (二〇一九年八月一六日 了)
竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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