竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
 

 神話とは… 南北アメリカのどの先住民に聞いても、人と動物が区別されず、人と動物のあいだで、どのようにも姿を変えられた時代におこった物語であると、答えが返ってくるだろう。ある意味で、現在の私たちにとって悲劇的ともいうべき真実は、人類と同様に生きていながら、意思疎通できないものたちと、私たちが間近に接して生きていることだといえる。神話時代にはそれが可能だったのだ。レヴィ=ストロースはそう語っている。
 先進国の現実を振り返ると、人間の条件のその悲劇性こそ、私有財産に執着する資本主義によって隠されてきたともみえる。だが、隣人の多くが、「人類と同様に生きていながら意思疎通できないもの」と化していて良いのだろうか。エコロジー運動も例外ではない。環境条件の人工的な改造に反発し、擬人化による思想は未成熟なまま、大資本家に抵抗するだけで手一杯の取り組みを進めている。これでは地球の負担を増しているにすぎない。
 今、この星にやさしいとは、人間の活動の速すぎる部分を見直すことではないか。あらゆる地域で地産地消ができると、実作業の苦労は絶えないが、地球が本来おこなっている現状維持のための変化という価値に、気づけるはずだ。ナショナリズムとは関係なく、地元産の製品以外はボイコットし、運搬業務の負荷を最低限にすること、こうした行動がひどく過激に思えるくらい、人々の生存条件は物流の管理下にあると知るべきだろう。
 雄大な風景を前にして、森や渓谷をみつめる人、先住民の遺跡をみつめる人、受け継がれた伝統と現在の暮らしをみつめる人、あるいは埋蔵される資源やその利潤をみつめる人もいる。利害の絡み合いで成り立つ社会では、人間の歴史も発明と破壊の繰り返しで意味づけられるしかなく、出来事を外から眺める超越的なまなざしは、いまだ存在していないに等しい。だからこそ人々は、文学のなかにそのまなざしを期待したこともあった。

  #8

 その日の仕事を終えた母親が
 保育室の五歳の子を迎えによってから
 ドッと座席に腰をおろし車で自宅に向かう日常のひととき

 
    初冬の午後六時では夜空の深まりもまだ淡いが
 ネオンで彩られたレストランの看板こそ
 火の起源のあたたかさに満ちていて


   「ここ、けっこう、おいしいよ」
 ココケッコー、ココケッコー、コケコッコー
 真似れば、二人笑い、車内も原始の音響へと溯っていく

 ささやかな日常の合間に、仕事とは、保育室とは、自宅とは何かと、彼も考えたことがあっただろう。帰宅後、職場のグチをたんたんと話しはじめる妻、それは昭和の時代に例外なく嫌がられたオヤジという登場人物に似ている。嘆かわしいことに、会社で寡黙だったオヤジとは異なり、勤務中、家庭でのエピソードを仲間うちで笑い話にすること、それはすでに下品でしかない。彼女らは、その繰り返しに一生を費やすかのようだ。
 また、いつも楽しそうに笑顔でいる子が、あるとき、保育室に行くのがどうしても嫌だと、両親に泣いて訴えたことがある。妻の職場に付属している施設だから、幼児教育を専門とするスタッフがいないのはしかたないけれど、昼食が済むと夕方まで無理に寝かせつけようとしたり、幼児のタオルを私用して返したりと、評判が良くないのは事実であった。結局、その職員らにとっては、他人の子供とは家畜のようなものだったのだろう。

  #9

 関東の田畑の多い平地の借家で育つことになったわが子は
 京の盆地の山の辺の自家で育った父親とは
 ふるさとへの感覚も違ってくるだろう


    見回しても山のない景色は
 いまだに頼りなく思われて馴染めないけれど
 雲なき夕空の蜻蛉のシルエットには澄みきった味わいを知った


    それでも盆地には、識者が述べるように
 母性に抱擁されるのにも似た安らぎや
 外部へ向かう際の多様な風光の楽しみがあったから…

 静かな明るいところに住みたいと彼は思い、具体的に想像してみて、遺跡の近くがいいと考えるようになった。ただし、それをなぜかと問うまでには、至らなかった。
 今にして記憶を紐解くと、二〇代半ばのころに住んだ明日香の地で、だれも来ない墳墓のなかの空間にじっと座りこみ、まったくの闇をみつめ、その闇がしだいに大きな岩の輪郭を示し、清潔な公園にでもいる気分になったことがある。心の通じる相手を身近に感じるような体験だったが、そのとき呼吸されていたものが、ようやく芽吹きはじめたと思われないこともない。
 いわば死者たちを、古人として敬愛の念をもって向き合える余裕がうまれたのだろう。それとも、親友と近所づきあいができる幸運が訪れるとは、期待しなくなったのか。

  #10

 幼稚園に通うわが子には七人でなる男仲間があるらしく
 なかでも一番の仲良しのカズヒロくんとは虫好きの趣味も合い
 らくがき帳に彼の家を空想して描くほどであったが


    両親の離婚によって彼も母親の実家に引っ越すことが決まり
 三月の終わりには離れ離れになってしまう現実を
 わが子は知らず、とても知らせることができないでいる


    七夕のお願いでは、父のように警察官になりたいと彼は述べ
 教室でわが子一人が「すごい!」と拍手をし
 自分は「大きくなったら恐竜になりたい」と発表したこともあった

 この子にとって、アリやチョウやバッタ、カマキリにカブト、クワガタ、そしてザリガニ、トカゲなど、自在に動きまわるカッコイイ生物にふれ、指でつかみ、ときにブチリとつぶしたり、はさまれて痛みを知ることは、尽きない楽しみのよう。
 そして両親が図鑑でしか眺められなかった恐竜を、BBCの制作した番組で、激しく獲物に襲いかかる巨大な生物として目で追うことは、なんとワクワクする体験だろう。
 幼いものの世界とは、父や母につれられて歩く範囲にとどまるわけではない。好きな生き物の姿になり、周囲に向かって自己を誇るとき、視線は時空を超えて開かれていく。

  #11

 六歳になったわが子に、そろそろ雨の日は自分でさした方がいいと
 はじめての透明なビニール傘をわたせば
 世界が上からはじけて来るのが楽しいようで


 立ち止まっては見あげていたが
 今日は雨音につつまれ、咳をしながらママと病院に行った…
 診察後、どこにも自分の傘が見あたらなくて


 「どうしてないの」と泣いたらしい
 他人が自分のものを持っていったのが理解できなくて
 「なぜないの」と傘立てのまえから離れずに泣いていたらしい

 このとき失われたのは、世界の完全さだ。コップを割ったこと、ボールを失くしたことは、それまでにもあっただろう。しかし、なにものかに所有物を奪われることは、世界との一体感を喪失させ、ものかげに魔的な闇を生じさせる。それは肉食動物が、他の動物を食することで自己を維持する働きとは、まったく違う。

  #12

 おまえは星のひとつなのだと未知の声が告げたとき
 その夢は途切れたから
 地球上で眺められるどの一点が自分なのかとてもわからないまま


 目を閉じて星になった自分を想像すれば
 おもいのほか、他の星々が近くかんじられる
 貧富の差があまりに歴然としているので笑みもこぼれてくる


 詩人たちの憧れた月なんて石っころにしかみえなくて…
 けれども自分は恒星か、惑星か、衛星なのか
 どんな姿であれ、わが子のいる地球の響きだけが脳裡にこだまする

 わが子への愛情は、時の流れとともに深まるのか。親として礼儀を示し、遊び仲間としてオニゴッコにふけり、男兄弟のようなものとして怒らせたり笑わせたりしきりにちょっかいを出し。それは欲や相性にもとづく異性への愛情とは、感覚が異なっている。離れがたい気持ちがあるとともに、遠くにいても等身大の子を信じられ、心は澄みきっている。

  #13

 その日の仕事を終えて帰宅し
 妻と子が帰ってくるまでの一時間
 入浴後、夕食を用意する


 皿やカップや箸をテーブルに並べ
 かるく煮込んだ鍋には蓋をしておき
 小ぶりの盃に純米酒をそそぐ


 スゥ  と 呑めば身体はあたたまり
 重力を忘れ空気と同化するよう…
 このひとときに、不満はない

 そのように一献の酒を楽しむことができるようになったのは、これまでに何度も、酒が原因で失敗したためだろうと思う。…あれは、子供が一歳半のころだったか。仲間と楽しく宴会をした帰り、大宮駅で乗り換える際、すでに来ていた電車に乗ろうと階段を駆け下りた。しかし次に浮かぶ記憶は、足腰の痛みと、取り締まる者の高圧的な声だ。階段の途中で取り押さえられ、駅構内の別室に連れて行かれるところだった。しだいに意識ははっきりするが、何が起こったのかまったくわからない。
 鉄道警察だと名乗る男は、あなたが階段を上がる多くの人々のなかに割り込み、目の前の男性を殴りつける映像が、防犯カメラに残っているという。その男性の上唇からは出血し、自分の右の拳には擦り傷があった。五〇代くらいのその男性は激しく立腹していた。土下座して許しを乞う、彼は財布にあった四万二〇〇〇円を治療費として手渡した。
 それから指紋を採られ、事実を証明する文書を書くよう求められたが、まだ頭と手はぼんやりしていたため、示された例文を、ふるえる文字で書き写しただけだった。
 引き取り人が必要とのことで、妻に電話がなされた。最終電車はとっくに無くなっていた。一時間ほど経ったのだろうか、幼児を連れた妻が心配そうに現れた。手続きを終えると、妻の運転する車で帰った。家に着き、午前二時を過ぎている時計を見た…。
 だが、記憶にない行為をどのように反省できるのか、疑問に思わないこともなかった。

  #14

 小学一年生になっても、わが子の寝相はあいかわらずで
 母親といっしょに一時間まえには眠りについたはずの
 布団を敷いた寝室へ入ってみれば


 子は横むきになり、ママの顔のうえに足をのせていた
 …翌朝、妻に尋ねると、まったく気づかなかったという
 そこで子は、すまし顔で答えるのだが


 「暑いから、動いてしまうけど
 ちょうど冷たくて気持ちよかったから、のせてた」
 頼りになるのは、なんでも母だということか

 その子が、「人はどうして楽しいということがなくなるの」と尋ねたことがある。その声には、自らを語らぬものの響きがあった。問われた彼は、一瞬、畏怖していた。
                         (二〇一九年七月一〇日 了)


竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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