竹内敏喜 蛇足から  
蛇足から 2 (二〇二三年一月八日)

     
二〇世紀前半のフランスの哲学者アランによると
「合理的な性質が、強欲で貪欲で貪婪で盗もうとする性質を
支配するために設置された力」が正義であり

「他者のものと自己のものの問題を、裁く人のように
または裁く人によって解決させる」ことへと導くものだとしている
なかでも契約は、正義の大切な部分で

「その規則は平等であり、あらゆる交換、分配、支払いにおいて
当人の知るすべての知識をもって相手の立場になり、
具体的な取り決めが相手に満足を与えるかどうか」が重要視される

 それが社会においてうまくいったのは
 いつのことだろう、どこでだったのか

一方、善とは「義務の方式であって、
すべての人に共通で、各人の行為を公然の結果にしたがい規律する」
ゆえに自分の義務を果たすことは、それを知ることを超越する

慈悲心にも気づかず、その義務がたんたんと営まれること
その先で、善という言葉は、財という言葉へとひろがっていく
…これらの語りが神話にも似て聞こえるとしたら現状は空虚なのだ

導かれるまま、うまく理解できていない語を探ってしまうが
それは詩をひらく鍵なのだろう
ただ、正義という文字がこちらに出会い戸惑っているようだけれど

 そうだろうね、実はゲーテの『親和力』を再読し
 この生々しさは五〇代になってはじめてわかると

感じつつも
もう一度焦がれたい、一〇代みたいに恋焦がれたい
と考える怖さにつかまっている臆病さを、みつめている

(異性の内的な清純さは、欲望にとって、もっとも魅力あるもの)
(無知ゆえに、強い恋情は一転して罪深いとされる欲望へと変わる)
その現実を、詩人はなぜ描こうとしたのか

今こそ婚姻制度が多くの善意をゆがめた因果に向き合うべきなのか
個人においてではなく、その二人の関係性に個性があらわれ
だれのものとも特定できない個性が、正義を主張してきた恨みよ




竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。『魔のとき』(同、2022年)
 
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