竹内敏喜 蛇足から  
蛇足から 16 (二〇二三年九月二三日)

     
波の花
…菜、実、野、葉、名(それは性あるものの立ち並び)
玄関を出れば、道路が土や砂で陽にさらされていたころ
幅は二台の軽自動車がかろうじてすれ違えるほどで
住宅街を直線に四〇メートルほど伸びていたから
近所の少年少女が一二人ほど集まると、つま先で線を引き
細長いコートをつくってはドッジボールを楽しんだ
小さい子はすぐに当てられ外にまわり、強い者が本気になると
あちらの植木、こちらの車からも砂ぼこりが立って
とうとう隣家の窓をぶち割るから
やや血の気の失せた顔をそろえては、またもや謝りに入った
けれども、きつく叱られた記憶はない
毎日が新しかったから、寄せては返すような生の味も知っていた

十日の菊
…戸、緒、架、軒、工(それは備えようとして失われる)
気分を変えようとしてか、高学年の少年たちは移動し
稲刈り後の田んぼでサッカーをはじめる
でこぼこの土の塊を蹴散らし、走り抜ける相手にはスライディングタックル
積まれたワラのうえ、下手なオーバーヘッドキックを気取り
ときに後ろから泥だんごを投げつけては笑い合った
ボールがわきの小川に落ちると、靴のまま平気で入っていった
真夏の水田なら、ドジョウやザリガニ捕りに夢中になり
農家のおっさんに追いかけられるのも楽しかった
着ていたものだけでなく、与えられた時間まで泥まみれになっていた
そうして汚れのとれない自分が今もここにいる
手遅れだろうな、手遅れでもいいさ

夜の鶴
…余、流、濃、尽、留(それは巡り巡って開かれる)
どちらかといえば評判の悪い書物のようだが
トルストイの『藝術とはなにか』を三〇年ぶりに再読し
部分的にはむしろ共感している自分に驚いた
「連中の感情は、その大半を、
 三つのごく下らない、単純な感情に帰することが出来る
 傲慢、性欲、生の哀愁がこれである」
この三つこそ富裕階級の芸術の内容だとしているが
斜陽する日本の、昨今の詩歌の二つの傾向をはからずも教えるようだ
一つ、若人の垂れ流す隠喩に見え隠れする傲慢な性欲
一つ、老いたる者の暗く明るい吐露には傲慢な生の哀愁
いつからか開かれた死が恋しい理由を、百年前に自死した彼から学べようか


竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。『魔のとき』(同、2022年)
 
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