竹内敏喜 蛇足から  
蛇足から 15 (二〇二三年八月二三日)

     
アサガオの花がほとんど咲かない
今年は、バッタや青虫に葉を食い散らかされたと
近所のおばあさんたちが
わが家のまえに陣取り、甲高い声を張りあげている

いつまでも走る最後尾の見えない列車の地響きのようで
いつしか静かになっても
あとに散らかったままだと幻視される、青虫のフンや
耳の遠さゆえにたんたんと聞き落とされたこの辺りの近況の断片たち…
もはや話しかけることに楽しみは特化されているよう
それは、よくわかるが、ふと思えばこの現代も
いにしえの漢詩人が記したように(※)
人として、胸に湧いた憂いをだれとともに語り合えるのだろうか

この夏の朝焼けはぼんやりしていた
高度の低い太陽からの光が
昼より長い距離の大気中を通りぬけ、青い色の光が散乱し
散乱しにくい赤い色の光が人の目に届くという現象
直前まで夜だった空気の温度は、一日のうちでは低く
対流も弱く、人間の活動も少ないため
朝の空気は昼にくらべて静かだ
それに対し夕方の空気は、直前まで昼なので気温は上がっており
対流や風の動きもどちらかといえば激しく
水蒸気や塵の、空気中への放出も大きい
その点、人間臭さでは夕焼けが勝っているといえよう
…と考えるうち、ぼんやりした心に、芭蕉の句が浮かんでくる

一つ、人声や此道かへる秋の暮
一つ、此道や行人なしに秋の暮
いずれも晩秋の夕暮れが舞台にふさわしいと読まれ
老いて学ぶ人生観と、優れた詩人の知る孤独感が称えられてきた
だが二句目の工夫として別の表情も見えてはこないか
夕方ではなく、朝焼けを一人で眺める景色だと想像したなら
爛熟した社会をよそに、若者の高揚感が無窮の美を愛でる姿となろう
その道が、果てしなく伸びていく感覚の快さよ
(まぁ、秋の暮を晩秋の朝だと読むのは、ちょっと無理でしょうな)

  ※返照、閭巷に入る
   憂へ来たりて誰と共にか語らん
   古道、人の行くことまれに
   秋風、禾黍を動かす


竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。『魔のとき』(同、2022年)
 
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