竹内敏喜 今、社会的な自己を放棄するということ
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 今ならわかるが、そこで「アイル ビー バック」と声が発せられたのは、ある個人を助けるようプログラミングされたマシーンの異常な学習能力による愛情表現ではなく、また未来を見通すことも可能な人工知能の出した次の結末への新しい一歩でもない。あの一コマは、映画監督や脚本家が観客のヒューマニズムを煽ろうと演出した場であったにもかかわらず、マシーンが人類の知能を上まわった時点で、人々には先の予測がまったくつかなくなる技術的特異点についての、なにものかによる警告にすり替わっていたようだ。
 警告の意味を理解するにあたっては、例えば規則の定められているゲームの場合を考えてみればいい。二〇一七年一〇月、囲碁の基本的なルールだけを与えられた人工知能「アルファ ゴ ゼロ」は、先人の対局記録を参考にすることなく、自分自身との対局のみでより良い打ち方をみつけ、四〇日という短期間のうちに、人類最強と謳われる棋士にも勝った従来のどのバージョンよりも強くなったと発表された。そのため最近では、若手プロ棋士の多くも、一手の質をAIで数値化することで囲碁の勉強をしている。そのようにして学ぶものは、最短時間で勝つためにルールを最大限に活かす方法なのか。彼らが強くなるほどに、盤上におかれる石からは「アイル ビー バック」と余韻が響くようだ。
 同様に、世界中に高度な情報処理能力が普及したことで、社会全般の数値的管理は知らぬまに進み、一律的かつ強制的になってきた。裏を返せば、人工知能の進化速度は進化とともに早くなるため、規格となるものを最初に開発した者に地球上の富が管理されるのは明らかなのである。識者によると、人間にしかできない仕事はいずれ存在しなくなるともいう。この事実を前にして、国と国、企業と企業の競争は激化し、人工知能に人工知能を監視させる技術の研究は、後回しにされざるを得なくなっている。そのように安全管理を見失っていること、これも「アイル ビー バック」と繰り返される理由だろう。
 とはいえ、知識として危機感を知ってはいても、まだまだ先のことだと人々が思っていた、あの穏やかな時代の話からはじめたい。

  #1

 社長の腕時計の針が止まったので
 電池の交換を頼もうと
 購入した店へ専務に行ってもらうことにしたものの

「会社が以前入っていたビル近くの商店街のあの小さなお店
 もう何年も寄ってないけど残ってるのかなぁ」
 長い散歩のつもりでお出かけになった

 やがて動いた時計とともに戻ってこられたが
 「あなたの顔は覚えていないけれど
 この時計ならよく覚えていますよ」っていわれたそうな
 
 彼がその会社に就職したのは一九九九年のこと。社員二〇名ほどの出版社で、月刊誌の編集業務を中心に、取材、毎月の発送作業、請求書の作成、近辺への本の配達および集金、社長の補助としては銀行での日々の入出金、そして仕事のおそい事務員の手伝いなど、多忙な毎日を送っていた。主に統計資料を集めた年刊の書籍を扱っていたため、官公庁や図書館、大学、企業に営業すれば、かなりの部数が売れた。
 しかし、インターネットの普及と、公的機関での出版物に対する経費削減、さらには法による個人情報の保護により、経営はしだいに厳しくなっていった。時流に乗り、環境や福祉についての単行本を次々に手がけたものの、勢いは続かなかった。まさに止まった時計の針は、未来を暗示しているようだった。

  #2

 勤め先の老齢の社長が入院して一カ月が過ぎた
 膝の痛み止めの薬の常用で肺に水がたまり
 ほかにも悪い箇所があってしばらく集中治療室にいたらしい

 専務に昼食をごちそうになりながら生ビールも一杯、二杯…
 故郷の北海道に土地が買ってあり社長はしきりに帰りたがるが
 わたしも千葉の港町を恋しく夢みるようになったという

 防犯のため雑草の処理をしたと役所から請求書と写真が届けば
 その土地も、近所の見知らぬ隣人らの駐車場にされていると高笑い
 昼休みの限りあるビールにこそ、一生の酔いかげんを学ぶべきか
 
 社長も七〇歳を過ぎたころから、仕事をやめてのんびりしたいと家族につぶやいていたそうだが、入院の前日まで通風を我慢して出社していた。それが、体調があまりに悪くなって病院に行くと、すぐに手術すべきだといわれ、妻でもある専務は介護と仕事に追われるようになる。専務の出社は隔日になり、やがて週一回も難しくなった。
 社長が倒れてから露見したのは、会社に多額の借金があるだけでなく、担保として社長宅も取られかねない状況だったことだ。その大きな原因は、数年前に取引先が倒産した際、約四〇〇〇万円の回収ができなくなり、印刷会社や銀行への支払いが滞って、他のところからお金を借りたことにある。また、その後は予算を切りつめたため、杜撰な本しか出版できず、ほとんど売れ残るという事態が追い討ちをかけた。裁判が終わった後で漏れ聞いたが、その取引先の社長は、こちらから六〇〇〇円で仕入れた商品を三〇〇〇円で同業者に売り、利益はひそかに自分の懐に収めていたらしい。つまり計画倒産だったのだ。
 生命保険に入っていなかったため、社長の入院費は月に五〇万円を超え、気丈だった専務も急激に気が弱くなり、彼を頼りにして毎日の業務をまかせるようになった。


  #3

 月刊誌に新作映画の紹介を連載してくださっている
 自称「淀川さんの弟子」の八六歳一人暮らしの方の原稿が
 通常の半分しか届かず、自宅に電話をかけてもつながらない

 たちまち一週間が経つので地元の杉並区役所に事情を伝え
 安否の確認をお願いしておいたけれど
 そちらからも何の連絡もなく、さらに三日が過ぎた

 ふたたび区役所の担当部署につないでもらうと
 今回のことは個人情報にあたるので詳細は教えられないという
 気分はかさねて嫌な気分に混濁し、初校に入れるアカが目に立つ


 心のやさしい人物だった。酒もタバコもせず、小柄で謙虚な人柄だった。とにかく映画が好きで、届いた試写会の案内にはできるだけ参加し、どんな作品に対しても批判的な評は書かなかった。時代が変わり、手書き原稿では仕事がうまくいかないと理解すると、メール入稿するために、八〇歳を過ぎてからパソコン入力をマスターした。アパートには貴重な映画のビデオがたくさんあり、せっせとDVDにダビングしているともいっていた。
 子供のころは大阪のど真ん中の繁華街に住み、戦争中の空襲について、その恐ろしさをはっきり思い出せると語った。もうだれも知らないだろうことを記憶しているので、それを私小説風に五〇〇枚ほど書いたから、暇があったら読んでほしいと彼に頼んでいた。
 親戚もみんな亡くなっておらず、天涯孤独で、結婚をしなかったからか、いつまでも青年のような印象をかもし出している方だった。遺言のように記された五〇〇枚のなかの言葉は、受け取り手もなく、闇に消えていった。


  #4

 会社が永代橋のすぐとなりに転居した年の一〇月
 疲れのでる午後三時には日課のように橋のうえから川面のゆれを眺め
 あれは生産をくりかえす姿だと、海の大きさにおもいは至った

 消費行為で生活をみすえる人類の政治がいかに醜いかと理解するにしても
 美を愛し、醜悪なものに容赦のなかった時代は、おのれのなかから過ぎており
 日が暮れて学童に子を迎えにいけば、小ぶりな泥だんごを渡される毎日

 家の周りには舗装された道路しかないため、さらさらの砂はみつからず
 磨かれないままの泥のかたまりがひとつずつ増えていくけれど
 地球くらいの大きな泥だんごがつくりたいと、わが子は目を輝かせている


 月額三五万円以上になる家賃の支払いが困難になり、社内で相談した結果、事務所を移転することにした。長く会社に尽くしてきた営業マンたちは、社長と同じように持病を悪化させ、一人また一人と退職していったため、社内の半分は倉庫と化していた。税金のかかるゴミでしかない在庫の大半を処分し、広さは半分以下になるが、家賃一三万円ほどの物件に決め、引越にともなう多方面にわたる事務手続きも、税理士と相談しながら彼がたいていおこなった。落ち着いてみると、新事務所には八人が残ることになった。
 社長の子息はもともと月刊誌の編集長という立場で働いていたが、借金まみれの会社を引き継ぐのは嫌で、けれども雑誌はつぶしたくないと、その部門だけを独立させ、一人で株式会社化した。そして家賃負担をしないにもかかわらず、新事務所で作業をおこない、利益があるように自分にみせかけていた。当然、社内はますますギクシャクしていった。


  #5

 通勤時、一面の雲を見上げながら歩いていると
 ちいさな丸い青空がのぞき、しだいにひろがっていく
 あぁ 名残の空のようだ

 職場が原因のストレスは自宅にいる週末にもモヤモヤしていた
 穴があいたら、そこからはぬるく赤黒い液体が漏れだすのだろうか
 …いつしか晴れわたった空のなか、一点のまぶしさよ

 億を超える借金に対し毎月の返済は四〇万円ほど
 社長は病気療養で二年半も会社に来ず、専務は介護のため休みがち
 単なる社員として返済の催促に対応してきた疲れ、むなしさ


 社長が出社していたころも催促の電話はよくかかってきたが、病気療養中とわかってからは、彼宛に週にいくつもかかってくるようになった。主な相手は、信用保証協会、銀行、債権回収関係が二件、印刷会社は三件。そのうちの一件が裁判をおこそうとしたとき、担保であった社長のもつ賃貸用不動産二件が競売にかけられ、かなり安くなったものの、かろうじて支払いを済ませた。北海道の土地も売りに出されたが買い手は現れなかった。
 専務は、数十年かけて老後のために貯めていたお金のなかから、当時すでに会社に対し一〇〇〇万円以上を貸していた。しかしその後も、社長の入院費だけでなく、どうしても足りなければ会社に貸しつけとして数万円単位で出さざるを得ない立場にあった。
 毎月の支出は、家賃、電気代、電話代、配達業者宛のものなどを済ませてから、営業担当者や事務員に給料が与えられ、そこで残るもののほとんどは返済金に当てられた。そのため、専務は無給、彼には遅れがちなうえ、いつ支払われるかわからない状態が続いた。


  #6

 夫である社長の介護と、会社の借金問題を苦にして
 とうとう専務の胃腸はこの二年半で三度目のダウンをした
 「駅に着いてトイレに入ったら、血を吐いてしまった」とささやかれる

 休息がてらと、馴染みの寿司屋で昼食にビールをいただいてから別れたが…
 翌日の朝一番に会社へ電話がかかってきたとおもったら
 帰りにどこかで財布や会社の印鑑を入れたカバンをなくしたという

 あぁ、これまでか、と感じながら、奥の卓上に立っている小さな仏像に祈る
 身体から、さざなみとなって自己の気が流れ出すのがわかり
 やがて専務の、バス会社が預かってくれていたとの連絡が届いた


 悪いことは重なるものだ。社長がいないので新刊がつくれず、営業職は売りにくい在庫の販売を続けていたが、業績を上げようと顧客に対しやや強引な営業をしていたのか、苦情が多く寄せられているとして都庁の消費生活部の取調べを受けることになった。事務所での事実確認の後、報告書が届き、請願書の提出、やがて結果通知のために出頭すれば、三カ月の営業停止処分であった。その対応も、手探りで彼がおこなうしかなかった。
 倒産はしたくてもできなかった。責任者が長くいないことで決断が先延ばしになり、費用の捻出が不可能なところまで来ていたのだ。社長宅も銀行に取られることが決まり、その時期を交渉していた。懇意な税理士は、世間ではざらにあることだと冷静に話した。結局、営業停止を乗りきって一年ほど経ったころ、会社本体を休業状態にし、子息だけは自分の会社を続けたいので、編集の手伝いをしてくれないかと彼に依頼してきた。この時点で、減額されていた彼の給料のうちの六カ月分が支払われておらず、入る見込みはなくなった。だが、不器用な子息を見捨てるわけにもいかず、彼はその申し出を受けいれた。


  #7

 足の裏はしもやけ気味で、つめたい向かい風の吹きつける朝には
 日本橋の手前から職場のある茅場町の奥まで
 やや暖房の効いたあたたかい地下道を通っていく

 都会なら舗装された地面の堅牢さに足が痛むのはしかたないけれど
 この明るいトンネルに、地に根を生やした草木はないから
 呼吸も整わず、人々の波に心こそ乱れていくばかり

 地上へ上がり、ふいに目前の激しい逆光
 人々はゆらめきの影となり、街路樹は輝きつづける
 裸足で大地を歩けない都会人はもはや自然にとけこめないのだろう


 月刊誌の編集のため、彼は週に二日出社した。オフィスには一人でいることが多く、必要な作業を終えると、ちょうど退社の時間だった。小遣いほどの給料がきちんと支払われたが、しだいに事務所の維持費が大きな負担となり、子息は自宅を発行所にして生き抜こうとした。その後は郵送でのやりとりを中心にして、さらに一年が穏やかに過ぎた。
 もちろん子息の日常は、一人っ子で両親と同居していたため、認知症になりつつある社長の介護、疲れきった専務の手伝い、取材に原稿執筆、会社の借金の取立てへの対応と、気の晴れない日々を過ごしていただろう。運に見放されるとは怖いもので、この間、目前を急に横切る車を避けようとして、自家用車を道路わきにぶつけ大破する事故まで起こしている。そしてついに雑誌は休刊されることになり、彼は立ち去った。
 彼はその会社に一九年ほど勤めた。入社した最初の日から事務所のなくなる最後の日まで、床の掃除は社内でもっとも若い彼の担当だった。窓を開き、掃除機をかける。そのマシーンは一度も壊れなかった。しかし事務所がなくなり、どこかに消えた。役目を終えたものは、けっして「アイル ビー バック」とはいわなかった。
 時が来てみれば、彼の一番の思い出は、掃除をする一人の時間の明るさであった。
                         (二〇一九年六月一九日 了)


竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)​​​​​​​。
 
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