さらといイソノミア

コンセプト

 コロナ禍の蒸し暑い7月の夕方、仕事を終えて歩いていると、足元に緑色のなにかが動いているのに気づき立ち止まった。じっと眺めてみると、ぱっちりとした目の赤子のメジロで、どうしたものかと見ていると、通りがかった小学生とその祖父らしきひとが来て言葉を交わす。「どうしたんだろうね」「生まれたばかりなのかな」「ヘビがきたら食べられちゃうね」「車にひかれないようにしないと」etc…
 これは、この夏に私が経験した一コマですが、ふとしたときに、何かを誰かと共に問いかける、そんなこと、みなさん日常的にありますか? 「職場」で「学校」で、趣味を共通とする“クラスター”で、何か、もう一歩立ち止まって考える場が、もしかしたらあるひともいるかもしれません。が、それはわずかでしょう。しかも、答えがあるようでないような不可思議な出来事について、問いかけるなんて、ばかげてます。
 Youtubeは、それができるふさわしいプラットフォームである、とも思いませんが、そんなちょっと不可思議な時間と場所を共に見つけ出すひとと出逢う場にはなるのではないか、希望的観測でありますが、そう思い、私同様ふらふら生きて来た「三助」さんに声をかけて、「さらとい イソノミア」チャンネルを作ってみました。
 願わくは、あたかも応える気のない政治家に面食らわすように、日々、足元に視界にあらわれる出来事に更なる問いかけができることを。チャンネルでつながるひとたちが、アーレントが言うような、「無支配関係のもとに」過ごせるような関係が、互いに対等な関係が、築けることを。

 「政治現象としての自由は、ギリシアの都市国家の出現と時を同じくして生まれた。ヘロドトス以来、それは、市民が支配者と被支配者に分化せず、無支配関係のもとに集団生活を送っているような政治組織の一形態を意味していた。この無支配(no-rule)という観念は、イソノミア(isonomy)という言葉によって表現された。(略)都市国家は民主制ではなくイソノミアであると思われていた。「民主制」という言葉は当時でも多数支配、多数者の支配を意味していたが、もともとはイソノミアに反対していた人々が作った言葉であった。」(ハンナ・アーレント(志水速雄訳)『革命について』ちくま学芸文庫、1995年、40頁)

 「ギリシアにおける民主主義デモクラシーの進展といえば、アテネを中心として語られる。この見方はまちがっている。イオニアから見るべきだからだ。しかし、ある意味で、そのような見方は正しい。というのは、イオニアにはデモクラシーなるものがなかったからだ。イオニアにあったのはデモクラシーではなくて、イソノミアである。」(柄谷行人『哲学の起源』岩波書店、2012年23頁)
                                                                                            青木孝太
第0回「コーナー紹介」
第1回「教育格差を問う」
 
「ひとりの人間にとって大切な問題は、必ず他の多くの人間にとって、大切な問題とつながっています」(見田宗介『社会学入門』岩波新書、2006年、pp.12-13)
青木孝太
 
 かつて社会学者の見田宗介はそう言って、永山則夫という一人の“青年”を取り巻く社会状況を分析し、「統計的事実」のうちに「実存的意味」を見出す仕事をしていた(見田宗介『まなざしの地獄 尽きなく生きることの社会学』)。それは、極めて危ない綱渡りに思えた。というのも、なぜ永山にとっての「実存」の意味を、その「他者」であるはずの見田が見出すことができるのか、極めて特権的な位置に自己を置きでもしない限り、不可能な所作だからだ。しかし、もし量的な統計データが、語のそのままの意味での「抽象的」で、具体的なひとりの人間を欠くものだった場合、いったいそのデータには何の価値があるのだろうか。

 わたしが今回「さらとい イソノミア」のチャンネルの中で、取り上げた松岡亮二著『教育格差』(ちくま新書、2019年)は、量的に圧倒すべき統計データから現代の社会に生きる人々の教育が、階層や地域や学歴の三つに大きく条件づけられ、「緩やかな身分社会」(p.288)とでもいうべき「格差」の状態にあることを明らかにしたものである。なぜ、この本を取り上げたのか、それは私が教育の現場を生業としているから、といったある種の専門的な問題関心からではない[1]。それは、この本を読む中で、かつてのじぶんじしんが、現在の自己を形作ってきたじぶんじしんが、そこに見出すことができたからである。
 ひとは、幸福に違和感なく生きることができているひとは別として、ときに、「じぶんはなぜ生まれ、どこからどこへいこうとしているのか」そうした実存的な問いに日常をかすめ取られてしまうことがある。この問いが毒々しい、中二病的なものに映るのは、この問い自体が答えの出しようのない性質のものであり、はまったら抜け出せないアリ地獄のようなものだからである。
 けれど、この問いの中心核に迫ることはなくても、その外縁部ともいうべき地帯に迫ることはできる。その意味で、まさに本書は、わたしにとってその役割を果たしてくれた。だから、紹介したまでである。
 もちろん、左派的な立場から、この本を基に、いかに日本が教育環境に財政支出をしておらず、生まれ育った地域や、親の経済文化的な階層と、親の学歴に子供が不公平なことに左右されてしまう、と日本社会の問題を声高に叫ぶこともできる。
 だが、それはあまりにも容易いことではないだろうか。
 なによりも困難で価値ある思考は、統計データの中に自己自身の来歴を見出すこと、言い換えると、この社会に空虚な実存の足場を悲しくも見出すことではないだろうか。それも、見田が永山にやろうとしたように、他者に自分の場所を教えてもらうのではなく、じぶんじしんでじぶんの生まれを考えること、それがこの本に実存的価値を付帯的に授けると、わたしは思っている。


[1] これは、半分は「嘘」である。当初、この本を手に取った理由は、教職という自分の職業分野についての理解を深めたい、という気持ちがあったのは事実だからだ。実際、本書は、量的データによる客観的分析が売りの本だと考え、知念渉や打越正行、上間陽子らの質的調査によって、教育理解を深めようと、同時に読解してきた(知念渉『<ヤンチャな子ら>のエスノグラフィー ヤンキーの生活世界を描き出す』青弓社、2018年。打越正行『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』筑摩書房、2019年。上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』太田出版、2017年)。しかし、本書を読解したときの鮮烈な印象というのは、そこに自己自身の軌跡を見出すことができたことにあり、本書を「さらとい」で紹介する気になったまでである。

                                 
第2回「都市で進化する生物たち」
自然とは何か


「おばさん、ってことはヘラジカもいるような森でキャンプしてたの!?」
「そうよ。時には一人でキャンプしたこともあるわ」
「すごいや!!」

 これは、子どもたちがリビングで見ていた『おさるのジョージ』の一コマで、話はうろ覚えでシリーズも文脈さえもよくわからないが、小学生くらいの男の子(+ジョージ)に年配の夫婦が過去にキャンプした写真を見せている場面だったと思う。

 この場面が印象に残ったのは、週末に子どもを連れて、秋川渓谷を訪れ、なんというか「キャンプ」まがいのことをしたからだ。と言っても、川に大量に放たれたマスを釣って、焼いて食べる、ただそれだけのことをしたまでである。しかもヘラジカを恐れる世界の荒々しさとは別世界で、何のことはない、入漁券を3,300円払って、これまた300円で購入したブドウ虫を針にさして、マスの群れ目掛けて投じるだけである。すると、20秒もしないうちに、マスが釣れる。だけど、これが想像以上に堪えたのだ。

 というのも、浮きが沈んですぐに竿を引かなかったことで、針をマスが奥まで呑み込んでしまい、どうやっても針が外れない、そんなことが度々生じたためだった。虚空を眼差すマスのぱくぱくとするその口に、思いっきり中指を突っ込んで、針を押し外そうとするが、うまく外れない。そうこうしているうちに、まるで自分の喉元をえぐられているかのような気持ちになってきて、気持ち悪くなってしまった。結局、一匹は、針を強引に外すことになってしまった。

 “しまった”わけだが、よくよく考えると、釣りあげていいのは10匹までと決まっているので、売り手としては、10匹のマスを1匹300円で売っているだけのことで、逆もまたしかりなのだ。けども、ここで商品化されているのは、スーパーで魚を購入するのとは違い、ある種の「自然」的な体験なのである。でもそこには、『おさるのジョージ』に出てくる少年の「すごいや!!」という感嘆に値するものは何もない。

 第二回の「さらとい」でわたしが問いかけたのは、この「自然」とは何か、ということである。そこで声高に、わたしは、都市のなかにもわれわれの視野に入っていない生き生きとした「自然」があるはずだ! と叫んだような、叫んでないような、気もするが、当のわたしの週末は「自然」を郊外に買いに行く、といった有様である。

 しかし、ジョージ的少年の感嘆が、パッケージ化された「マス釣り体験」になかったわけではないのだ。わたしや妹が吊り上げる中、ひとりなかなか釣れないでいた小学4年の長男が「パパ!! 釣れたよ!!」と喜びの声を上げたので、見てみると、どこにもマスの姿はなく、全長4-5センチのマスにしては小さな何かがかかっていた。翼のようなものが小さく両腕にあって、顔はよくみるとモアイ像みたいな何か。「え、何これ? ハゼ?」となって、帰宅後に図鑑で調べてみると、どうやら「マハゼ」っぽい(“ぽい”というのは根拠が適当なため)ことがわかった。

 なんで、マス釣りに来て、ハゼが釣れたのか。まあ要は、合理的に考えればマスの群れに針を投ずればものの20秒もしないうちにマスがかかるのに、10歳児はマスのいない川で釣りをしていたわけだ(正確には、マスのいなさそうなポイントで)。こんな規格化された場所であっても、その川にはさまざまな生き物が、“自然”的な何かがそこにはあって、それと出会えたのは、なによりも10歳児にも“自然”的な何かがあったからではないか。そんな風に思えてくる。

 マス釣り場だからと言って、他のさまざまな生き物がいないわけではなく、そこにあるのは、川なのだ。違いは、他の川よりも、人為的にマスが大量に放流されているだけである。そこを“マス釣り場”だと認識するのは、近代的な社会に染まったわたしのような人間であり、子どもはそこから逃れていたというわけだ。「さらとい」で「自然」についてあれやこれや言ったあとでこんなことを学ばされてしまう週末だった。

 ところで、そのマハゼは、「ゴン」(ちゃん)と名付けられて、いまわたしの家にいて、何も考えずにメダカの水槽に入れたが結果、10匹近くいたうちのメダカが2匹にされてしまう結果をもたらし、「自然」の恐ろしさをメダカたちにも教えてくれている。
第3回「適切なもの」
第4回「土偶を読む」
Back to Top