詩書評 1
何らかの誰かがもう一人に語る」     八潮れん 
  ──高塚謙太郎詩集『哥不』(ヰ層楽器発行)についての考察──
 

 

 「哥不」とはなんだろう。その読み方も意味も分からない。サブタイトルは「抒情的同位体」らしい。少しこの作者らしく思えたので緊張がほぐれページをめくる。まずは巻頭の詩篇。

線々とふる

ノートを
深い雪原に立っている
留めて
ええ
物語をしたがえて降るものよ
わたしの額は
紙のように
ペラペラと(つぎつぎと

折れてしまう
のっ原に咲いているおまえの耳
こぼれ落ちる紙片の水
水にひたされた深さ
指示に
奥能勢にひかれた線の深さ
一振りで
裁っている永いながい物語の
降らしめる深さの
野よ
わたしについてまわる韻律に
雪原のふる(い
井のぐるりの
たち姿の一行の


 全編このような、作者曰く「鵺のような在り様」。はてこれらの詩的言語をどのように読むべきか、作者の強迫的なファンタスムをどう粗探しするべきかなどと考えながら耽溺していく。

 連続する裏と表の反復のように表現された文字の中に意味以外のものを感じ、それが表す到達不能なところまで行ってみたいと思うがそれはどだい無理だろう。今更言うのもなんだが、読み書きとは自分の生き方そのものという自己世界の秩序を再構成し、既成の秩序から逃れるという錯覚を得るために絶えずそれを批判するふりをする、そんな袋小路に自ら進んで入るようなものだろうから、私は進んで「哥不」の中でマゾ的な快感と共に迷子になる。

点調

調律の話になった
桐の箱に

原点の
川や岩や
腰のころに交わされた
目の前を過ぎる
昆虫
綿毛のなかのひとつの点
染まりつつ

見えない
あなたは終えない
体のまま生きていないという
そこに書いてある
譜として
空で話される原点の

 詩人の持つ様々なイメージを、それによって表象される言葉を「謎」としてただ受け取るのみ。詩人の手のひと所作は万の糸を動かし、糸は見えないままたなびいていき、そしてまたひと所作はそれらを更に万と結びつける。この連鎖は詩人の隠された(隠した)記憶を呼び起こし書き起こし続けるのだろうか。

 完読すると特別の強度を持った中心が散らばっているように感じた。作品のテーマというのでなく潜在的なもの。それらは更に謎をおびて執拗に繰り返されている。

 心的なものと身体的なものとの境界(?)で失われた「抒情的同位体」を再発見する試みは、それ自体把握できない分裂めいた快楽として読む側に伝わってくる。理性的で支離滅裂、生真面目で気まぐれ、この連なる詩語は詩人自身が記された彼の身体から一つの対象のように切り離された物質とも言えるが、それらは彼の身体を構成したと同時にその境界を表す印として読者の前にある。こんなふうに抽象化された語は何かの充溢よりも開放への呼びかけのように、私には思える。

日は日々


がのようなものが閃いて
土へとあらわれる

はすずなりになりなり
狐のようです
ひと声が家のまえで引きしまる
雨がすぎたの
くっきりとした日はこれほど
通巻も近い
水へ泳いでおいで
照りも芹も帰ってくる


 「哥不」の詩篇においては、意味は語の秘密の応答や暗号的な言葉の中に吸い込まれていく。当然ながら詩人は意味作用の際限のない戯れには満足しない。自身の主体性において誕生させた詩という形式の持つ力、切文法、そのリズム、同音意義的表現―新しい身体として文字が自らを構成し得た、そんな生々しさを感じる。

 そして詩人は流動し続ける。始まるが終わっているのかどうか分からないページたち 彼はそれらの存在を考え得ないものによって支えているかのようだ。「決して完成しない」と「永遠に構成されている」の間の振動、意味的必要の誘惑を断ち切って解かれた言葉の連鎖。戯れる語は毅然と優しく内密なゾーンへ、根源的な亀裂に入り込んでいく。

  
八潮れん
詩を書く人。長野県長野市出身。横浜市在住。2011年アンスティテュ・フランセ東京の詩祭における仏詩翻訳コンクールで優秀賞受賞。2016年第4詩集として自作の日仏対訳詩集「Temps-sable/時砂」を仏人との共著で出版。近年日仏で様々なジャンルのアーティストと朗読パフォーマンスを行なっている。2018年朗読CD発表(仏人との共作)。同年仏ブルターニュでの現代詩フェスティヴァルに招待された。​​​​​​​

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