オオヌマユウ Book Review ⑦
「誰か」ということ
  ──つりたくにこ「墓」(青林堂『月刊漫画ガロ』第184号 1979年4月)ほか──
 

 

「ここに怠け者の 墓がある」
「全部が全部 めんどくさくなって 死んだ 怠け者の墓だ」
「そいつの墓が 今は 村人の 腰掛け石として 役だっておる」
「いいことだ」[1]

 これは、『ガロ』1979年4月号に掲載されたつりたくにこ(1947-1985年)の「墓」という、計5コマ、たった2ページからなるマンガの全文である。
 私は初めてこの作品を読んだとき、やや大げさかもしれないが漫画表現の一種の極北を感じた。
 短い作品なので、まず各コマの描写について簡単に紹介しておきたい。

 マンガの始まりとなる1コマ目はページ全体の約半分の大きさを占めており、そこには遠くに見える山並みを正面から望む水辺の風景が描かれている。
 岸辺にはススキの葉のような植物が生い茂っているが、それは数本の細い描線の束として簡素に描かれている一方で、遠くの山は真っ黒のベタで塗られており、その稜線とマンガのコマの上枠とのわずかな隙間が空として機能しているものの、天候は晴れなのか曇りなのかわからない。
 コマ中央やや上には白く抜かれた縦長の枠があり、その中に「ここに怠け者の 墓がある」との独白が印字されている。
 もっとも、このコマには人物もいないことから、これが誰の言葉であるかはわからない。

 2コマ目はページ全体の1/4ほどの大きさで紙面右下に配置されており、短い草がまばらに生えた地面のただなかに、やや不格好な、薄汚れた四角い石が描かれている。
切り出されたものなのか自然石かはわからないが、石の縁は丸く苔むした様子であり、いずれにしてもそれなりの年月が経ったものであるように感じられる。

 3コマ目は2コマ目のすぐ左隣に置かれ、「全部が全部 めんどくさくなって 死んだ 怠け者の墓だ」との独白とともに、おそらくこの水辺に釣りをしに来る村人なのだろう、釣り竿を持って歩いている2人の人物が描かれている。
 これらの人物はいずれも輪郭線のみしか描かれておらず、白抜きの平面な紙人形のようである。
 また、コマの左下には先の石が描かれているが、同じコマ人物像と比較するとこの石は人の膝丈くらいの高さなのだということが見て取れる。これで1ページ目は終わる。

 ページをめくり、4コマ目は紙面全体の上から2/5程の大きさが充てられており、「そいつの墓が 今は 村人の 腰掛け石として 役だっておる」との独白と合わせて、これもまた白抜きの輪郭線のみの人物がこちらに背を向けてその石に腰をおろしている様子が大きく描かれ、その奥には同じく白抜きの人物が数人立ったり座ったりしている様子が描かれている。
 山の上に広がる空には暗いトーンが貼られているが、これは真っ黒というわけではなくわずかな明度をもっていることから、夕暮れ遅くか、または夜明け前であるかのような印象を受ける。

 5コマ目では、一転して空は明るく、遠くに見える山の稜線はいくつもの垂直線を組み合わせてまるで靄がかかったように描かれている。
 紙面手前にはうねるように描かれた草原が広がり、ペンで黒く塗られた石の上に荷物でも置こうとしているのか、袋か壺のようなものに手を突っ込み腰をかがめている人物と、その近くに座る2人の人物が描かれているが、いずれの人物もやはり白抜きでその表情や服装をうかがい知ることはできない。
 そしてコマの上方にはひとこと、「いいことだ」との独白が配置されている。
 これが最後のコマであり、ここでマンガは終わる。

 さて、「全部が全部めんどくさくなって死んだ怠け者」とは何なのだろう。そして、「いいことだ」とはどういうことなのだろうか。

 「墓」というタイトルから想起されるとおり、マンガ全体としては暗い雰囲気ではあるが、最後のコマのみベタで塗りつぶされた箇所がなく景色に白みがさしていることから、実時間はわからないがまるで夜明けのようにも見え、「いいことだ」という言葉はさほど投げやりには聞こえず、乾いていながらもあたたかさを感じる。

 この「怠け者」は、「全部が全部 めんどくさくなって 死んだ」というくらいであるから、結局のところ他人にも自分自身にも興味を持てなかったのだろう。
 石に腰かけている村人は、それが彼の墓だということを知らないかもしれないし、そもそも誰かの墓だということすら認識していないかもしれない。仮に知っていたとしても、彼らはそこに自分の尻を乗せることを躊躇うことはしないだろうし、もちろん、自身の墓が腰かけ石として使われていること自体、この怠け者自身にとってもどうでもいいことだろう。

 ただ、この作品の語り手である独白者は、それを「いいことだ」と評する。生前およそ人の役に立つことがなかったであろう怠け者が死んで墓石となることで、俗の世界にささやかな有益性をもたらす。これに作者はあえて価値を与える。
 この「いいことだ」という言葉はそのような彼にとって望みもしないようものであるだろうが、おそらく世界に興味を持たなかった彼自身と、そのような彼に当然興味もなく、彼の死後も当然のように続いていく世界との融和であり、曖昧な、それでも確かな救済として機能しているように私には感じられる。

 さて、「墓」が『ガロ』誌上で発表されたのは1979年4月号においてであるが、この作品の最終コマの欄外には作者の手書きで「END 10.1969」との記載が確認できる。
 すなわち、この作品は発表されるおよそ10年ほど前に作成されていたことになる。
 ここで少しつりたの来歴について触れておきたい。
 彼女の死後25年を経て刊行された作品集『フライト』(2010年)の帯には以下のように略歴が記載されている。

 「1965年、高校在学時に創刊間もない『ガロ』(青林堂)最初の新人としてデビュー、SFショートショートを経て60年代の時代風俗を捉え、シュール・レアリズムに接近、しかしその後、不治の難病SLE(全身性エリテマトーデス)を発病。37歳の若さで早逝……。」[2]


 同書の巻末にはつりたのキャリアについての年譜が収録されており、それによると彼女の病気の発症は26歳になる年(1973年)であり、特に30歳(1977年)以降は病状が悪化し、32歳(1979年)時には握力もほぼなくなっていたようである。[3]
 彼女のマンガ家としてのキャリアのスタートからその死までのおよそ半分は闘病生活とともにあり、その間は上記作品集のタイトルにもなっている「フライト」(1980年)を含めたわずかな作品しか残すことはできなかった。

 つりたは「墓」以外にもしばしば自身の作品の最終頁に制作年月を書き記しているが、1979年以降に発表されたいくつかの作品については発病以前の日付が記されているものが見受けられる。すなわち、これらの作品は完成した時点では何らかの事情によって発表には至らなかったものの、病気の影響でペンを執ることが困難となってから誌上に掲載されたものであると考えられる。[4]
 つりたは1947年10月の生まれであるから、「墓」が実際に作成された時期が1969年10月ということであれば、当時彼女は21,2歳のころである。同書の年譜によるとこの時期のつりたは以下の様子であったようだ。

「1969(昭和44)年(21歳)
 田無の清風荘に転居。このころから『ガロ』用に描いた作品が不採用に終わることが多くなり、喫茶店「KENT」でウェイトレスのアルバイトをしながらマンガを描く。
 11月、一人東京を離れ、実家のある高砂へ引き上げる。」[5]


 また、先に挙げた『フライト』の帯の裏表紙側には、『COM』1968年1月号に掲載されたという彼女の「私の抱負」と題した下記のような文章が刷られている(私の手元に同誌がないため、帯からの孫引きとなるが容赦されたい。)。

 「この内面にみちみちた呪詛(すべてに対する。それゆえ、ぜんぶ自分自身へはねかえってくる)を、どうやってカタルシスするか、攻撃か、逃避か、あるいは疑似痴呆症状でごまかすか……。「生」に対する分析不明の、どうしようもない罪悪感。エゴイズム、ナルシズム(センチメンタリズムでは決してなくある種のこっけいさ、恐ろしさ、悲痛さ……が共存した自虐ですらあるような)それらの葛藤より起こる、私みたいな低知能者の不安および恐怖。そのけっか、虫ケラのような人間はどう行動するか、完全受動(ストイシズムの極)の人間などを、ひかえめに(饒舌は嫌悪するところだ)とにかく描いてみたい。
 去年は、パンの耳。今年は食パンとマーガリン。来年はクロワッサンにバターが食べられるようになれば、それにこしたことはない。しかし状況ははなはだしく暗い。あいつぐ私の作品に対する読者の不満の声は、日々に高まりつつあり、黒い影を私の生活に投げかけているのである。ジャーン!
 しかし、どんなに非難されても描きたいものは描く。それが描きたいのだから。造るよりも創るほうが好きなのだ。どうしようもないパラノイア。それなので、そのためプロをやめさせられたとしても、しかたないと思って覚悟している。」[6]


 この「私の抱負」を書いたときの彼女はせいぜい20歳になるかならないかといった頃だろう。
 もちろん「描きたいものは描く」というのはおそらく全ての志のあるマンガ家に言えることであり、高校を卒業してすぐにプロのマンガ家を目指して地方から上京してきた少女が、「そのためプロをやめさせられたとしても、しかたないと思って覚悟している」と宣言するのは尚早のようにも感じられるが、彼女が漫画家としてデビューした1965年からこの時期までに発表された作品に目を通せば、実際には読み手のことを強く意識し、それゆえに自身の力量にも悩み、作風やスタイルについても幾度となく変化を試みながら方向性を模索していることがうかがえ、自身の核となる表現を獲得できないまま苦労していたような印象をうける。[7]

 そのようななかで、彼女としてはいわゆる「プロ」の世界に適合していけなくとも、自身の表現としてのマンガを描いていくために「どんなに非難されても描きたいものは描く」という態度を宣言し、それでは読者も、さらには出版社もついてこないということを自認しながらも、独りペンを執る覚悟を持っていたのだろう。
 いずれにしても、1969年時点において、「このころから『ガロ』用に描いた作品が不採用に終わることが多くな」ったという状況は、その覚悟のとおり、彼女が言うところの「造るよりも創る」ことに向かった結果だと思われる。

 「墓」についてはその制作年月と照らし合わせるとまさに「不採用に終わることが多く」なったという作品の一つではないかと考えられるが、先に引用した年譜によると、つりたはこの作品が作成された翌月には東京を離れていることから、これが東京での創作のひとつの区切りとなったのかもしれない。
 その「墓」に話を戻すと、最後のコマの「いいことだ」という投げやりだがあたたかさを感じるこの言葉は、「ある種のこっけいさ、恐ろしさ、悲痛さ……が共存した自虐ですらあるような」感情を抱えたまま、それでもなお「描きたいもの」へ執着するしかない、おそらくマンガ家として大成することはないと二十歳そこそこの時点で知った彼女の、翻った自己肯定でもあるように感じられる。

 もちろん、つりた自身は「墓」の「怠け者」とは異なり、苦悩しながら真摯に、そして熱心にマンガと向き合っていたことは残された作品からも容易にわかる。
 その一方で、彼女の初期の作品にしばしば出てくる自身をモチーフにしたようなキャラクター像(大きい目にまぶたが半分くらいを占め、ややけだるそうに、眠そうにしている)から、彼女の自己認識としては自らを怠惰な存在として捉えていたのだろうという印象を受ける。それは彼女自身が自らの求めるマンガ表現に到達できない状況での自覚的な「疑似痴呆症状」のカリカチュアとして表れていたのかもしれない。

 いずれにしても、この「墓」という作品は、描きたくないものを描くくらいならアマチュアとして「パンの耳」を齧ることを選ぶつりたが吐き出した極端に私的な作品であり、ある意味で彼女が描きたかったという「完全受動(ストイシズムの極)の人間」についてのひとつの結論だったのではないかとさえ私には思われる。


 そして、彼女の生前最後の発表作となった「帰路」(1981年)も、「墓」と同じくアマチュア色の強い作品である。

 「シク シク」という泣き声、後ろを向いているため顔は見えないが、おそらく高齢に近い男女の後ろ姿。女はハンカチを手に、男は首をすぼめ、何かをこらえているようでもある。そして顔に白い布を被せられ、横たわっている人物。四角い座卓の上にはタバコや読みかけの本が置いてある。

「どうしたんだろう……………」
「おやじとおふくろが来ている、」
「なぜ 泣いているのだらう………………」
「いつ田舎から出て来たのかな?」
「連絡でもしてくれれば迎えに行ったのに、」
「それにしても かったるいな」
「ああ昨日 飲みすぎたんだ」
「社の連中と別れて 一人でふらふら歩いてたんだ」
「光が虹色にやけに美しくみえたな」
「くそ面白くもない日々なのに なぜか無精に浮き浮きしてたな」
「子供の頃に帰ったよう」
「羽が生えてとんでゆきそうだった!」
「ふうらり ふらりと………」
「つめたくて気持ちがいいな」
「ずい分と体が冷えて…」「それから先は…………」「どうやって帰ったのか憶えていない………」
「気がついたら 俺の部屋に居た、」
「そして 両親が枕元で泣いていた………………」[8]


 以上がこの作品の全文だが、これらの言葉はすべてこの死んだ男の独白である。おそらく凡百のサラリーマンのひとりであったこの男は、「墓」の怠け者ほどではなかろうが、生前何を成すことも、残すこともなかっただろう。彼は飲み会の帰りに事故にでも遭ったのだろうか。最終ページは顔に白い布が被せられたままの男のアップが映し出され、物語は冷たい印象のまま終わる。すべてのコマにわたって絵柄は暗く、色彩を感じさせない。

 「帰路」には制作年月が記されていないが、当時のつりたの病状をふまえると、この作品も「墓」と同じく発表された年よりもかなり前に描き上げられていたものであると考えられる。
 そのうえで、絵のタッチやその作風から、より具体的な時期としては病気発症後になって描かれたものであると個人的には考えるが、仮にそうであればマンガ家としてのみではなく、一個の人間として自身の生に向き合う必要が生じていた頃であろう。
 いずれにしてもこの作品においては、取るに足らない人間(かつてのつりたの言葉を借りるなら「低知能者」や「虫ケラ」ということになるだろうか)の、その取るに足らない生ないし死が静かにマンガ表現に落とし込まれ、淡く発露されたものであるように思われる。


 ところで、「墓」の怠け者も「帰路」の男もいずれも顔のない死人であるが、それだけではなく、これらの作品に登場するすべての人物には顔が描かれていない。作中のセリフについてもただ一人の話者による独白のみで構成されており、登場人物間の会話もない。話し手は聞き手を必要としているかもしれないが、対話は必要としていない。
 この2作品はどこまでも個人的であり、言葉を選ばずに言えば、おそらく読み手のことはそう考えられてはいない。サービス精神はなく、そのような意味でも「プロ」的な作品ではないと言えよう。

 一方で、「墓」については作品の構成も絵のタッチも簡素なものであり、全体として捨て鉢な印象もなくはないことから、「どんなに非難されても描きたいものは描く」ということや、「そのためプロをやめさせられたとしても、しかたないと思って覚悟している」とまで言えるほどの強い意欲を持って描かれた作品であるようには感じられない。
 また、「帰路」については、「墓」と比べるとやや技巧的な構成になっているが、自身が死んだことに気づかない男の回想のみで話が完結しており、極度に内向的な作品になっている。

 つまるところ、これらの作品は、本質的には「描きたくて描いた」とまで言えるような意志を持って描かれたものではなく、自己と向き合うさなかで「描いてしまった」とでも言うような作品だったのではないかと私には感じられる。
 それゆえに余計な表現は削ぎ落とされており、どこか素直な気持ちが感じられ、「墓」については静かに、そしてあたたかく、「帰路」についてはすっと冷たいまま心に入ってくる感覚を覚えるのである。

 この2作品は、これまで青林堂や青林工藝社から出版されてきた彼女の作品集には一切収録されていないことからもわかるように、彼女の作品の中でも一般的に評価されているものではない。
  ただ、彼女の「描きたいもの」というようなものがこの「描いてしまった」ような作品のなかに感じられ、むしろ「描いてしまった」ような作品だからこそ、彼女の「描きたいもの」を結果として描かせることになったのではないかと私には思われるのである。


 前回の書評ではつりたと同じく『ガロ』誌上で近い時期に活躍し、30代で夭折した楠勝平(1944-1974年)について書いたが、楠は誠実に自己をみつめるまなざしをとおして他者へと向かうあたたかさを獲得した一方で、つりたは自己自身の表現できない表現のはざまで長くもがいていたような印象をうける。

 彼女の作風は常に変化を続けたが、それは彼女のマンガに向かう誠実な姿勢の表れであった。
 おそらく今日においてつりたの名前が取り上げられることは楠以上に少ないと思われるが、私にとって彼女は非常に好きな作家であり、また、重要な作家である。


<引用・注解>

[1] つりたくにこ「墓」(青林堂「月刊漫画ガロ 1979年4月号」)。
[2] つりたくにこ『フライト』(青林工藝社、2010)帯。
[3] 同書収録の「つりたくにこ年譜」(p429-438)を参照。以後、本稿におけるつりたの経歴についての言及は基本的にこの年譜による。
[4] 実際に同書年譜においても、ちょうど「墓」が発表された年である1979年時点において「このころ発表された作品は実際は発病以前に描かれたものも多かった」(p437)と記されている。
[5] 同書p434。
[6] 同書帯。
[7] つりはた1967年7月に発表された「ジンロク」以降、しばらくの間はヒッピー文化の中にある若者を好んで描くようになっており、これらの作品にしばしばみられるシニカルなユーモアは彼女の一つの個性となっているものの、「相次ぐ私の作品に対する読者の不満の声は、日々に高まりつつあり、黒い影を私の生活に投げかけているのである」(同書帯)と述べているくらいであるから、必ずしも多くの読者から評価されたものではなかったのだろう。現にこの路線は1970年12月に発表された「彼ら」を頂点として行き詰まりを見せている。
[8] つりたくにこ「帰路」(青林堂「月刊漫画ガロ 1981年11月号」)。

  
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オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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