オオヌマユウ Book Review ⑥
「消えることと、描かれること
  ──楠勝平「あらさのさぁー」(青林堂『月間漫画ガロ』第130号 1974年6──
 

 

「十一才頃だっただろうか
 私は十四、五になったら
 おわってしまうのだと
 ばくぜんとだが
 想っていたのです
 おわってしまうと
 言っても死ぬのでなしに
 どこかに消えて
 しまうというような
 感じなのです」[1]


 今日、楠勝平(1944-1974年)の作品について、代表作とされる「おせん」(1966年)や、「彩雪に舞う…」(1973年)以外が語られることは少ないように思われる。[2]
 特に雑誌のような逐次刊行物に収録された作品は次の「逐次」に追いやられていく過程で次第に人の目に触れにくくなっていくが、なおさらこのような漫画雑誌については公共図書館などに蔵書があることも見込めない。 
 それらの作品が再度人の目に触れる機会を得られるとすれば、一つは何かテーマに即したアンソロジー集などに収録されるときや、作品集や単行本のようなまとまった形として出版される機会に恵まれたときであるが、すべての作家がそのような恩恵にあずかれるわけではなく、また、選定の過程でそこからこぼれ落ちる作品も当然出てきてしまう。
 もちろん、これは何もマンガや書籍全般に限った話ではないし、それが「悲しいことだ」とか「よくないことだ」とかいうことでもなく、ただ現象としてそうであるというだけある。

 確か私が楠の作品に初めて触れたのは、やはり『ガロ』紙面に掲載されていたリアルタイムにおいてはなく、その発行元であった青林堂が同誌の創刊20周年を記念して刊行した『木造モルタルの王国―ガロ二〇年史』(1984年)に収録されていた「彩雪に舞う…」であったと記憶している。
 その後、今私の手元にはないのだが、彼の死後30年近くを経て出版された『彩雪に舞う… 楠勝平作品集』(2001年)を購入した際、その中にやはり「彩雪に舞う…」と前述の「おせん」が収録されていたのだが、そのほかの作品の中に、この「あらさのさぁー」(1971年)も収録されていた。

 私の知りうる限り、楠の作品の舞台は一部を除いてほぼ一貫して江戸時代(または、江戸時代を思わせる雰囲気を湛える時代)であるが、この作品の舞台も同様である。

 ところで、これは個人的な偏見なのだが、私は劇画作家と呼ばれる人たちの中でも、特に歴史ものを好んで扱う作家はかなりストイックな性格の持ち主だというイメージを持っている。
 貸本マンガ期初頭からのもっぱら子供うけのする少年剣士は、劇画の台頭によってその読者層を変え(または読者の成長とともに)、武士となり、町人となった。絵柄のみではなく、必然的に物語においてもそれなりのリアリティが求められる劇画において(もちろん、劇画というフレームが先行してマンガがあるわけではないのだが)、あえて歴史もので勝負しようとするマンガ家たちは、自分たちの生きえない時代の、そこに生きる人々のドラマを描こうとするとき、そのイメージとしてのリアリティを自らのペン先に落とし込む。未来を扱ういくつかのSF作品と異なり、過去を扱う歴史ものは、当然一定の史実や当時の風俗についての作家の知見なしに成り立たないものであり、前者が舞台設定までも作家の想像力に委ねられる一方で、後者は過去にあった時代という制限の中において、それ故のドラマツルギーの構成を作家はそこに見るだろう。
 自らが時代考証を行いながら、当時より失われてなおある普遍的な人間存在をそのような方法で書き出そうとするという点において、特に歴史ものを志向する作家はストイックに違いない、と自分が勝手に思い込んでいるまでであるが、例えば楠と同じく、『ガロ』紙上でも活躍した作家として、武士ものを得意とした平田弘史、また、町人ものをよく描いていた当時の村野守美などに、私はそのようなイメージを持っている(平田の作品には彼特有の美意識が色濃いし、何より私は村野の作品から強いストイシズムというか、変な言い方だが強固な自意識を感じる。)。
 そして楠。もっとも、彼の絵は、人物の描線や表情が比較的単純で柔らかく描かれており、歴史ものによくある「とっつきにくさ」や「堅苦しさ」もなく、親しみやすい。


 さて、この楠の「あらさのさぁー」である。
 まず、扉絵はいたってシンプルである。白地の背景に「あらさのさぁー」とのタイトルが紙面中段左に、さらにその左下に作者名が印字されているほかは、髷を結い、着流しを着た丸顔の青年が一人踊っている様子が、紙面真中下やや右に描かれているだけである。このページを紙面中央から水平に二分割すると、上半分には印字されたタイトルの一部を除いて何も描かれていない白紙の空間が広がっている。この男の自身の手先を見る顔、広げた手、重心を後ろに残した足の図像などが一つの胴体を軸として3パターン描かれていることから、彼が踊っているということがわかるのであるが、それぞれの図像の描線の太さは一様であり、動きの方向を示す動線も描かれてないことから、単に一つの胴体から同じ男の顔や手足が3つ生えているような感じもあり、やや奇妙な印象もうける。

 そして、それ以上に奇妙な印象を読者に与えるものは、この男の表情、特に目にあるといえるだろう。
 大きく重そうな二重瞼と、その下に小さな黒目がついている様は、男の表情をどこか眠たげな、意思のなさそうなものにしているが、これはつげ義春の「必殺するめ固め」(1979年)で暴漢にするめ固めをかけられる哀れな男の目と近い描かれ方であるといえばわかるだろうか。つげはこの時期、「コマツ岬の生活」(1978年)や「ヨシボーの犯罪」(1979年)といった、いわゆる一連の「夢もの」においてこれにやや近い目の描き方をしているが、楠のほかの作品でこのような目つきの登場人物が出てきた記憶は私にはない。

 さて、この男が物語の主人公、忠吉である。
 彼は十三夜の日、年老いた母が月見団子を作る準備をし、父が仕事をしている最中にたまたま両親の家を訪れる。すぐに彼の姉とその子が家にやってきて、母と姉は一緒に団子をこねはじめるが、途中で団子につかう「きな粉」が足りないことに気づく。手持ち無沙汰の忠吉は、その間三味線を片手に下手な歌を歌っていたが、自分が買ってくると言い、外に出かけていく。
 買い出しの道中、子供たちがなわとびで遊んでいるのを見かけ、年甲斐もなく一緒になって遊んで帰ってきたころには、兄夫婦とその子も家にやってくる。さっそく子供同士が父の膝の上をめぐってけんかをはじめ、一同がそれを微笑ましく見守っていると、やがて姉の夫も顔を出し、一家が勢ぞろいとなる。
 すっかり日が落ち、十三夜の月が出て、家族一同で団子や酒を囲み、和やかに笑いながらの喫食が終わると、忠吉は一人ススキの茂る道を帰っていく。

 以上がこの話の筋である。
 楠のほかの作品と比べ、この作品が特異なのは何かとりたてて事件が起きるわけでもなく、「十三夜に両親の家で家族そろって団子を食べた」というだけの話であり、そこには家族間の軋轢なども一切見られず、笑いあい、思いやりあうささやかだが幸せな団欒のひとときが描かれているに過ぎない。
 ただ、物語の進行に添えられる忠吉の独白が、読者に奇妙な印象を与えることとなる。


 物語は扉絵を含め、全14ページで構成されている。
 まず扉絵をめくる。物語の始まる2ページ目は紙面全体を使った大ゴマとなっており、着流しの忠吉が真正面を向いて街並みを手前に向かって歩いてくる。ページ右部には道並びに家が大きく描かれ、連なる家々の軒は紙面右上から左下に向かって斜め45度よりわずかに鋭い角度で延び、晴れわたる空がその上空へ広がっている。
 本稿冒頭の引用は、この物語冒頭のページ右上に10行にわたって記されているものであるが、通常、マンガのコマの始まりがページの右上から始まるものだと認識している我々は、普通にページを開くとこの独白が真っ先に目に入ってくることになるだろう。そしてページ中央やや左下の真顔でこちらに向かって歩いてくる忠吉に目線が動き、次に建物、そしてその奥行きに広がる空と、彼が歩いてきたであろう道。

 さて、私たちはこの独白をどう読むだろう。
 おそらく、この読み方、というか、ここから受ける印象によって、まずこの作品の好みが分かれるのではないだろうか。好み、というより、「この作品を重要と思うか否か」という言葉に置き換えてもいいかもしれない。何をもって重要かというと、当然今それを読む「自分にとって」という価値判断によってであるが、要は「共感できるかどうか」である。
 「自分と同じ感覚だ」とか「自分もそのように思っていた」とか、「なんとなくわかる気がする」と感じる読者は、おそらくこの穏やかだが少し不気味な眠たげな顔つきの男に親近感を覚えるだろう。

 続くページは4コマに分割されており、その1コマ目は高さがページ全体の約1/5程度、幅はページいっぱいに延び、歩いている忠吉を右肩が手前に来るように斜め上から見下ろす角度で描かれ、

「十四に
 なった時
 ああ十四に
 なるのだな
 と自然に
 そう思った
 だけで
 した………」

 と続く。

 次のコマで彼は両親の家にたどり着き、団子を蒸している母と会話を交わすのだが、その母が柔和な顔つきで「ああ、忠吉」「いまお茶でも入れるからね」と語りかけ、さらにそれに続くコマで彼が柱に手をもたれかけ、母の様子を眺めるような表情で「いいよ いそがしそうだから」と答える様子から、この男が内面は妙に冷めていながらも、おそらくやさしい男なのだろうということが感じ取れる。

 さらに彼の独白を追う。次は彼が「きな粉」を買いに出かけるときである。長くなるので全文を引用はしないが、彼は実家に「三月に一度ぐらいに」やってくるという。それは「なんともいえない 安堵感が あるのです」という一方で、「けれどこのやすらぎ の中に居ると、また なんだかわからぬ不 安がおしよせてくる のです」という。
 ページを読み進める我々は、彼のこの「安堵感」と「不安」が、彼の存在の希薄さ、すなはち「どこかに消えてしまうというような感じ」からくるものだということを既に了承するが、それが決定的となるのは次のシーンである。

 忠吉は3人の子供たちがなわとびで遊んでいるのを見かける。一本の長い縄の両端をそれぞれ2人が持って大きく回し、ほかの1人がその回転する縄の中で、縄が地面に接地する瞬間に足をとられないように飛ぶ、いわゆる大なわとびである。
 はじめこの様子を見ていた忠吉は自身も子供たちに縄を回してもらい飛ぶのだが、ここで奇妙な描写が入る。なわとびをする彼の顔の前を回転する縄が通り過ぎる描写が数コマにわたって続くうち、縄の通り過ぎる様子を表す垂直に細かく引かれた描線の向こうにあった彼の顔が次第に薄くなり、コマを追うごとにその描線が彼の消え入るさまを表すような描かれ方になったかと思うと、最後には縄を飛ぶ「トン」という小さな音を残して彼の姿が消えてしまう。

 もっとも、この次のコマでは一転して忠吉の帰りを待つ姉が「なによ待っていれば」「なわとびなんていい年をして」と正面を向いて誰かに語りかけるシーンとなり、続いて忠吉が汗をかき満足そうに「えっへへへ いやーつかれる」「こんなにつかれるとは思わなかったよ」と息を切らして登場することから、実際に彼は消えたのではないことがわかるが、我々はもはや彼の存在の、その実態の伴う希薄さを疑わない。

 そして夜になり、家族一同で団子を囲む。子供たちが笑いあい団子をほおばるさまを見つめながら、忠吉は『この子達は誰なんだろう』と考える。続いて縦に均等に4分割されたコマ。右からそれぞれ父親、姉夫婦、兄夫婦が笑っている様子が描かれ、4コマ目にはなわとびの際に忠吉が消え去ったときと同様の、残像のような描線のみが描かれる。
 続いて、「こうして 父や兄さん夫婦 姉さん夫婦を 見すえていると いったい 誰なんだろうかと きみょうな 気持ちに なるのです」という独白。「だから おふくろさんを ジーッと見すえない ようにしているんです」と続く、その「だから」という接続の孕む意味。
 間違いなく、彼はやさしい男である。そして、母の存在まで疑いたくないこの男は、実家において自分に「なんともいえない安堵感」と「なんだかわからぬ不安」を感じさせる正体が、もしかしたらいずれもこの母を中心にあるのではないか、ということをおそらく感知しているだろう。

 そして最終ページ。忠吉が一人ススキの茂る道を歩いている紙面全体を使った大ゴマ。

「すすきが、
 あたまを重そうに
 風になびいていました
 ふっと、私が十一のころに
 感じた思いが、体の中に入いり
 こんで来たのです
 何か三十二、三になったら
 どこか知らないところに
 消えてしまうのでは
 なかろうかと……
 ………………………」

 という独白が紙面中段右部にススキ野原を背景として書かれている。その上には月夜を歩く忠吉の小さな後ろ姿があり、紙面左下にはその忠吉を正面から見た胸から上の図が描かれ、物語は終わる。この忠吉の正面を向いた様は物語冒頭に彼が両親の家に向かって歩いてくる構図のそのままアップにしたような構図である。

 ところで、この「あらさのさぁー」というタイトルが意味するところは物語において明らかにされていない。扉絵で彼が踊りを踊っている様子から、これが踊りの際の掛け声なのかとも思うが、作中においてそのような描写も一切でてくることはない。ただ、この十三夜の日に、彼が下手な歌で三味線を弾き語り、子供と一緒になわとびをしたりするように、別の日には単に踊りを踊ったりもすることがある、というだけのことなのかもしれないし、先に述べたように、一つの胴体から顔や手足が3つ生えているようなこの描かれ方からは、寄る辺のない彼の透明な自我なき自我を表しているようにも私には感じられる。
 おそらく彼はそのような日常を経て三十二、三になり、依然として消え入りそうな思いを抱きながら、やはりその時には「四十二、三になったら……」と言っているのかもしれない。もちろん、それが良いとか悪いということではなく、彼はただ生きているだけだが、そのように生きていく誠実さがあり、彼が人生と向き合っているうちは、それが言える男だろうと私は思う。もっとも、彼がそれを言わなくなる時は、彼の中で自分の人生に折り合いがつけられたことを意味するのかもしれない。


 さて、このような忠吉の「どこかに消えてしまうのではないか」という感覚を、単に自己定立が未熟な青年期の、よくある不安定な精神状態の一種にすぎないとみることもおそらく可能だろう。この作品が発表されたとき、作者の楠自身は27歳になったばかりであり、作中の忠吉も同じくらいの年齢だろうと私には思われる。
 ただ、私は楠が単にこのような感覚でこの作品を書いたのではないと思っている。

 楠が死んだのは1974年、彼が30歳のときである。元来心臓に病を抱えていた楠自身は三十二、三まで生きることはできなかった。
 ここからは少し作者楠のことについて書いておく。

 私はいま、「楠勝平追悼号」と銘打たれた『ガロ』1974年6月号に再録されている「あらさのさぁー」を広げてこの原稿を書いているのだが、同紙に掲載されている、当時楠と同じく『ガロ』紙面でマンガを描いていた佐々木マキの追悼の言葉が、特に彼の人柄や態度をよく表すものとして適当であると思われるので、まずこれを一部引用しておきたい。

 「誠実な人であった。自身に対して、他者に対して。利害損得を基盤にした交際を、彼は最も嫌っていた。ソンをしたっていいじゃないか、それが口癖だった。走ることはおろか、歩く事さえ思うにまかせぬ、絶えず苦痛をかかえた毎日だった。 (地下鉄の長いホームで、エビのように体を折って激しく咳き込み、しゃがみこんでしまった、黒いコートの小さな体を思い出す) にもかかわらず彼には、僻んだ所や、また他者の憐憫をさそう所など、ついに微塵も見られなかった。 ……誇り高い人だった。大げさに言えば、人間の尊厳とでもいうべきものを、彼は大切に守っていた。自身は勿論、他人の上にも。作品の中にもそれは、よく表れているはずだ。」[3]

 創作においては、歴史ものをひたすらに好み、根底としてはドラマ性を持つ展開を得意とする楠と、ビートルズの歌詞をふんだんに散りばめ、話の筋らしい筋を持たず、絵(イラスト)で語る当時の佐々木はその作風においては対極であるが、その佐々木は楠に対して「こんな人も居るのだ、と知った事が、どれほど救いになったことか」とも書いており、彼の死を心底悼んでいることがその文章から伝わってくる。それを書かせたのはやはり楠の人柄によるものなのだろう。

 次に、楠の創作に対する態度について、マンガ評論家の石子順造の評を引用する。こちらは『ガロ』掲載のものではなく、「消えやらぬ彩雪-楠勝平ノート」と題する彼の小論から。

 「ぼくは、楠勝平の短編の主人公は、ほとんど楠自身の分身像だろうと受けとる。 ……というと、対談集『現代マンガ悲歌(エレジー)』を読んだことのある人は、でたらめいうなと反論されるかもしれない。なるほどその本の対談で、楠は、(評論家の)梶井純のかなりしつこい質問にいささかへきえき気味ながら、かたくなに「創作」にこだわっていた。楠にいわせれば、マンガは、「創作」でなくてはならない。そして「創作」であるからには、作家の私的な実感などに頼ってかいてはならず、物語や登場人物は、あくまで虚構として創造的に対象化しなければならないのである。」[4]

 そのうえで石子は、楠の「人間としての誠実さ」がゆえに、「できるかぎり〈私〉を避けたはずだのに、その避けようとする作品へのかかわりによってしても、楠自身がかかれてしまった。登場人物は、イメージとして、楠を反映した。そうではなかったろうか。」と問い、「〈私〉をかくまいとし、つくり事に徹しようとしたその作品は、楠を裏切ったのではなく、楠の表現となることによって楠をイメージとしてあらわした。かかれていない作家が、かかれてしまったのだ。ぼくは、そう思う。」と述べる。

 私はこの『現代マンガ悲歌(エレジー)』に掲載されているという楠と梶井との対談を読んだことはないが、ちょうど前述の佐々木の追悼文と同じく、『ガロ』の同号に梶井の楠に対する追悼文も掲載されており、これはそこに書かれている次の「対談」のことを指すのではないかと思われる。

 「かつて楠さんと対談をしたことがあった。 ……作品をつくるうえでの楠さんの方法論的な信念に水をさすような対応のしかたに、楠さんはしきりに首をひねって真剣に考えこんでいた。私がいちばん印象的に記憶している楠さんの疑問は、創作において作家はどれだけおのれの『私』性を排除しうるか、という点だった。」[5]

 さて、石子は、先に引用した彼の評の前後においても、楠が創作において〈私〉を排除しようとしたという理由を(それこそ石子なりに誠実に)あれこれと類推しているのだが、私にはそれがすべてその通りであったのかはわからない(なお、石子自身も学生時代より肺を病み、病気とともにあった人生だった。彼は48歳で死去している。)。
 ただ、その理由がどうであれ、やはり楠自身が作品から〈私〉を排そうとしていたということは事実であろう。「創作において作家はどれだけおのれの『私』性を排除しうるか」ということを考えること自体、作者はその私性について誠実に考えざるを得ない状況に置かれているということである。「物語や登場人物は、あくまで虚構として創造的に対象化しなければならないのである。」という石子の一文をそのまま楠の言葉として読むならば、物語や登場人物を対象化しようとするのは当然ながら作者自身であり、その虚構の創造主の、創造力の源泉としての「私」性こそが、作家の作風を決定づけるものであり、作品の個性となるのではないか、とも私は考える。
 佐々木が楠の作品から、彼の「人間の尊厳とでもいうべきもの」を感じとり、石子が彼の作品の主人公を「楠自身の分身像」として捉えるように、楠自身と直接かかわったことがない私も、やはり彼の作品からは確かな個性を感じるし、それが作者自身の倫理観や、他者への、そして自身へと向かうまなざしからくるのだろうということを自然と感じとる。
 つまるところ、楠の「おのれの『私』性」の、その「おのれ」を排除しようとする誠実で真剣な態度によって、彼の〈私〉はただの個人的な〈私〉を超えて、作品が、そこに生きる登場人物たちが、楠のものとしての普遍的な「私」性を獲得したのではなかろうか。そして、それこそが、彼が大切に守ってきたという「人間の尊厳とでもいうべきもの」の正体なのではなかろうか。

 私はこの文章の前半で、「あらさのさぁー」の冒頭にある忠吉の独白に読者が「共感できるかどうか」で、まずこの作品の好みが分かれるのではないかと書いた。それによって、「この作品を重要と思うか否か」が分かれるのではないか、と。
 もしそのように共感をもって作品を読みはじめた読者であるならば、物語を最後まで読み進めたときに、この共感は、単に「自分と同じ感覚だ」というような、言わば作者の「おのれ」と自身の「おのれ」が同じ感覚を持っていて、「作者が自分の気持ちを代弁してくれているのだ」というようなことではなく、「忠吉も作者も、私自身なのだ」ということに気づくだろう。あの眠たげな、瞼の重そうなぼんやりとした男は、姿を変えた我々として、間違いなく我々の生き方を問うている、その問い方は、作者の自己をみつめるまなざしからきている。そうではないか。

 かつて私が初めて「彩雪に舞う…」を読んだとき、作者楠がどのような人物かということは何も知らなかった。それでも病身の少年左衛門が、鳥に教えてもらった「空に舞うひけつ」で雪の降る日に空へとのぼり、笑いながら「ばあちゃん!」と声を発する姿から、私は勝手に作者の人となりを想像し、強く、やさしく生きたその少年とイメージの作者を照らし合わせてしまったのだが、それは石子の言葉を借りるとすれば、「かかれていない作家が、かかれてしまった」ことによるものではなかろうか。そこには確かに、「人間の尊厳とでもいうべきもの」が、楠のものとして描かれていると、私は思う。[6]
そして、私はやはりなぜかあの少年のなかに(もっと言うと、あの作品のすべての登場人物のなかに)、自分の姿も見てしまうのである。それは何もありのままの自分を見るというものではなく、決して彼のように立派ではない私がそのように思うのは、自分なりの、ただ、普遍的な「人間の尊厳とでもいうべきもの」をそこに見るからなのかも知れない。


 「楠さん、〝あんたはいい人だった。知り合えてよかった。永遠の友人でありたい〟」という言葉で追悼文を締める佐々木は、彼の人柄についてこうも書いている。

 「苦しむ人にありがちな、世の中で苦しいのは自分だけといった顔を、楠さんは決してしなかった。その逆に、他人の苦しみに対しては驚くほど敏感で、深い繊細な思いやりを示した。」

 「彩雪に舞う…」にしても、「あらさのさぁー」にしても、私は楠の作品から間違いなく彼のこのような誠実な人柄を感じ取ってしまうが、「創作において作家はどれだけおのれの『私』性を排除しうるか」ということを真剣に考えていたという楠にとって、やはりそれは不本意なことであるだろうか。



<引用・注解>
[1] 楠勝平「あらさのさぁー」(青林堂『月刊漫画ガロ 1974年6月号』収録)。なお、「あらさのさぁー」の初出は、ガロ「1971年2月号」であるが、いま私の手元にあるものがそれを再録した「1974年6月号」(楠正平追悼号)である。以後、本稿における本作品の引用はすべてここからのものである。
[2] 作品名の後ろの()内の年は初出年を示す(以後同じ)。
[3] 佐々木マキ「楠さんを偲ぶ」(青林堂『月刊漫画ガロ 1974年6月号』収録)。以後、本稿において佐々木の文章として引用するものはすべてここからのものである。
[4] 石子順造「消えやらぬ彩雪―楠勝平ノート」(小学館『マンガ/キッチュ―石子順三サブカルチャー論集成』収録、2011)。以後、本稿において石子の文章として引用するものはすべてここからのものである。
[5] 梶井純「楠勝平さんのこと」(青林堂『月刊漫画ガロ 1974年6月号』収録)。
[6] 楠勝平「彩雪に舞う…」(青林堂『木造モルタルの王国―ガロ二〇年史』収録、1984年)を参照した。
  
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オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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