オオヌマユウ Book Review ⑤
「球体としての人生
  ──ヴァージニア・ウルフ『波』(川本静子訳、みすず書房──
 

 
  「わたしはこういう幻想にとりつかれる。何かが一瞬くっついて、丸みと重さと深さを加え、完全なものになるといったような。さしあたり、こういったものが、わたしの人生であるようだな。できるものなら、あなたにそれをそっくりそのままお渡ししたいのだが。葡萄の房をちぎり取るように、それをちぎり取りたいのだが。『受け取ってください。これがわたしの人生です』と言ってみたいのだが」[1]

 いきなり他作品の話になるが、ウルフの作品についての数ある書評の中で、おそらく最も有名なものは『ジェイコブの部屋』(1922年)についてのレナード・ウルフによる「人物たちは幽霊だ」という言葉だろう[2]ヴァージニア・ウルフは、同じく作家であり、夫であり、彼女の最大の理解者であるレナードに原稿を書き上げるといつも真っ先に彼に評価を求めていたという。彼は常に世界で最初のウルフ作品の読者であった。

 『ジェイコブの部屋』は、ジェイコブというある一青年の幼少時代から青年期を経て死に至るまでの物語であるが、登場人物に関して言えば、彼の周りの人物はもとより、主人公であるはずのジェイコブについても明確な人物像が与えられているわけではなく、その輪郭だけが彼の生きた時代の中で追われているような印象をうける。
 ヴァージニアの死後、レナードによって刊行された彼女の日記によると、彼女は『ジェイコブの部屋』を書き上げた際、この作品によって「自分自身の声で何かを言い始める方法を(やっと四〇歳になって)発見したと信じてうたがわない」[3]と述べているのだが、「自分自身の声で何かを言い始め」た時の作品が「幽霊たち」という自我の対極の存在を感じさせる物語であるというのは興味深い。

 そして、このレナードの言葉を借りるとすれば、『波』についても、間違いなく同様に「幽霊たち」の物語であるということができるだろう。

 『波』は1931年、ウルフ49歳時の作品である。彼女の日記によると、この作品の制作時期は彼女自身でかなりはっきりと整理されており、「本気で書き始めた」のが1929年9月10日頃であり、2度の書き直しを経たうえで完成したのが1931年7月17日であるとされている。[4]

 ところで、この日記によると、ときに彼女は人生を奇妙な球体として捉えていたようだ。

 「時どき私は自問するのだ。子どもが銀色の球によって魅惑されるような工合に、私は人生というものによって催眠術にかけられているのではないか、と。そしてこれが生きるということなのか、と。……<人生という>球を両手で持って、そのまるい、なめらかな、重い感覚を静かに感じ取り、そのようにして毎日持っていたいと願う。……次の本(論者注:『波』のこと)については、私の中でそれがさしせまってくるまで書くのをさしひかえよう。熟した西洋梨のように私の心の中で重くなり、ぶらさがって、身重になって、切りおとしてくれなければ落ちてしまう、と要求するまで」[5]

 さて、ウルフが「人生」という「熟した西洋梨」の要求に応えることとなってからおよそ2年の時を経て『波』は完成し、彼女の人生のイメージは冒頭に引用したこの作品の登場人物の一人である初老を迎えたバーナードに引き継がれることになる。このような「西洋梨」や「葡萄の房」に例えられる球体のイメージとしての人生は、簡単に切り離し、他人の手に渡すことができるものであるかのようだ。

 『波』は、幼少期からの友人同士である6人の人物がともに成長し、老年期に至るまでの物語である。
 物語はこれら6人の独白の連鎖によってのみ進行し、各登場人物の独白の移ろいの繰り返しの中に読者は各人物の性格や背景、置かれている状況を断片的に読み取っていくことになるのだが、ウルフ自身が「私は全然人物をつくらないつもりだった」[6]と述べているように、この登場人物たちは作中においてそれぞれが肉体を持って動き回るといった風ではなく、個性というよりは初めから性質ごとに区別され、それぞれが共鳴するように配置された舞台装置のような役割が強い。
 もっとも、計9章からなるこの物語において、各章の独白はすべてこの6人のうちの一人であるバーナードから始まっており、一応彼によって物語の進行が引っ張られていくことから、彼をこの物語の主役とみることができるだろう。
 その他の登場人物としては、他者と打ち解けることができず、常に自己喪失の不安をかかえているロウダ(彼女は特に作者自身の要素が強いと言われる)[7]や、父譲りのオーストラリア訛りをコンプレックスに持ち、実業において成功を収めるも満たされないルイスが独自の印象を読者に与える存在となっている。

 さて、この物語において、特にバーナードにとって問題となっているのは、自己と他者との同化と分化の問題である。
 「私には顔がない」と言う「輪の外側」にいるロウダや、他者との差異が取り払われる環境において新たな「顔」を身に着けようとするルイスと異なり、夢想家で他者との調和を志向し、人好きのするバーナードは、他人の「顔」の中に自身の「顔」を滑り込ませて生きている[8]「人と人との触れ合いがすべて」[9]であった彼にとって、他者は自身の生の数多の写し鏡であり、友人たちはみな彼と同じ「輪」の一員であるはずだった。
 しかしながら、青年期を経て、壮年となり、初老になるにつれ、仲間も自身もそれぞれが異なる生を歩む存在であることに気づくとき、すなはち、自らの人生が仲間の人生と切り離され、「葡萄の房」の一つのような小さな球体であることを自覚するとき、バーナードの自己喪失が生じる。

 「わたしが未知の人に出会い、この食卓で、『わが人生』と称するものをちぎり取ろうとするとき、わたしが振り返って見るのは一つの人生ではないのだ。わたしは一人の人間ではないのだ。多くの人間だ。わたしは自分が何者か全く分からない――ジニイなのか、スーザンなのか、ネヴィルなのか、ロウダなのか、或いはルイスなのか。どうやって、わたしの人生を彼らの人生から区別するのか、分からないのだ」[10]

 他人に語って聞かせるための詩句を手帳に書き溜め、常に「多面体」[11]として生きてきた彼の人生は、他者とともに、仲間とともにあった。いわばそれまで、彼の人生は他者のそれとは区別されていなかった。
 そしてこの区別に気づいたとき、奇妙なことに(そして、必然であるかのように)彼の中で生者と死者との区分が取り払われる。

 「死んだ人々が、街かどや夢の中で、目の前に飛び出してくるとは、不思議なことだ。……たしかに人生は夢だ。わたしたちの炎、数人の人の眼の中で踊るきつね火は、たちどころに吹き消され、一切がかき消えてしまうだろう。」[12]

 このような自己と他者との生の混淆や、ひいては生者と死者の邂逅は、既に『ダロウェイ夫人』(1925年)におけるクラリッサ・ダロウェイの人生観や、戦争神経症を患い自殺に至る元従軍兵セプティマスの言動においても見ることができるが、こうした自己と他者、生者と死者に関するイメージはウルフ特有のものである。「夢や、わたしを取り巻いている事柄や、同居人たちや、夜昼出没するお馴染みの、半ば口のきける亡霊たち」や「自分がなったかも知れない人々の影、生まれなかった数々の己れ」に思いを馳せるバーナードもまた、自ら顔をもたない他人の間をさまよう亡霊であったと言えるだろう。[13]

 このさまよえる亡霊バーナードはしかし、物語の結末において初めて自らの孤独と向かい合い、他人に語るための詩を捨て、来るべき死に向かって立ち上がる。そのとき、彼は初めて生の淵に立つ。

 「もう一度いつもの街を眺める。文明の天蓋は燃え尽きてしまった。空は、磨かれた鯨骨のように、うす暗いぞ。しかし、空には灯火か暁の光か、一点の明るみが見える。それを暁とよぶのはよそう。通りに佇み、眼の眩む思いで空を見上げている初老の男にとって、都会の暁とは一体何だろう? 暁とは空が白むことだ。ある種の再生だ。……小鳥が一羽囀る。小屋に住む人は早朝の明かりをつける。そうだ、これこそ永遠の再生、絶え間ない生と死、かつ死と生だ。」[14]

 『ダロウェイ夫人』において、「ダロウェイ夫人」ことクラリッサ・ダロウェイは作中において徐々に自身の名を取り戻し、クラリッサとして人格を回復していくが、バーナードは自己と他者、生と死の混淆と往来のなかで自己を確立・再生させようとする。彼がこの物語の最後に発する「おお、死よ!」[15]という叫びは、これまで静かに進行してきた物語の流れからするとやや大仰な響きを持つように感じられるが、これは他人に語るための詩句を捨てた彼が発した、初めての自身の言葉であると言えるだろう。また、それはこの物語を書き終えるにあたっての作者ウルフの興奮であるのかもしれない。[16]


 さて、『波』にはよく知られたエピソードがある。それは、この作品を通じてウルフが何らかの「ヴィジョン」と呼ぶものを捉えようとしたというものだ。

 「どうも構造がまちがっているような気がする。かまうものか。らくらくとした、流れるような何かを作ったかも知れないのだ。そしてこれはあのヴィジョンへの探求なのだ。『燈台』を終えたあと、ロッドメルですごしたあの不幸な夏――それとも三週間のあいだ――に経験したあのヴィジョン。」[17](1930年4月29日)

 この「ヴィジョン」とは具体的に何であるか明らかではないが、ウルフの日記を通して読むと、彼女が『燈台へ』を書き終えた直後の次の事柄を指すものであろうと思われる。

 「<或る魚の>ヒレが遠くを通っているのがみえる。私の言おうとするところをどんな心像で伝えることができるだろうか。じっさいには何のイメージもないのだろう。おもしろいことに、今まで私のあらゆる感情や考えの中で、このことにぶつかったことはないのだ。人生は冷静に、正確に言って、この上もなく奇妙なものだ。その中に現実の本質がある」[18](1926年9月30日)

 『燈台へ』(1927年)は、中年画家リリー・ブリスコが物語の主役であるラムゼイ一家の父子が燈台へたどり着いた瞬間に10年越しの絵を完成せた時の「そうよ、私は構想ヴィジョンをとらえました。」[19]という言葉で終わる。実際に作者ウルフが自身の「ヴィジョン」をとらえるのは『波』が完成する1931年を待つわけであるが、この「ヴィジョン」とは、自己と他者、生者と死者の絶え間ない分離・統合の中にあったと言えるだろう。

 ところで、ウルフの作品を読むと「波」や「水面」、「燈台」といった水に関するイメージの言葉が多いことに気付かされる。水のイメージは幼少期から彼女のものであり、彼女が自宅近くに流れる川に身を沈めたのは『波』が完成してから10年後のことであった。
 不思議なことに、ウルフは子どもの頃、「自分が何であるのか」ということを考えて、水たまりの上を渡ることができなかったことがあるという[20]この「水たまり」と自身の存在についての疑問の体験は、『波』において、水に浮かべた花びらを船に見立てて一人遊びをするような幼少時代を過ごしたロウダの自殺に至る自己喪失として、また、齢を重ねたバーナードの砕ける波の中の「真実」を捉えようとする姿として見出されようか。

 「だが一瞬のあいだ、海の流れを、森のざわめきを見下ろすどこかの芝生に坐って、わたしは家を、庭を、砕ける波を見ていた。絵本の頁をくる、年老いた乳母が手を止めて、言った、『ほら、これが真実ですよ』」[21]

 ロウダの選んだ結末もまたそうであるように、バーナードの見出した真実は、ウルフの言う「現実の本質」のうちにあったのだろう。彼の、彼女の人生もそれぞれ一つの球体となり、波の中に、底深い水の中に落ち込んでいく。そして、それはまた一つの「人生」への回帰でもあったのか。
 物語は次の言葉で締めくくられる。

 「波は岸辺に砕け散った。」[22]



<引用・注解>
[1] ヴァージニア・ウルフ『波』(川本静子訳・みすず書房「ヴァージニア・ウルフ著作集5」収録、1976)p221。
[2] ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(神谷美恵子訳・みすず書房「ヴァージニア・ウルフ著作集5」収録、1976)p67。
[3] 同書p68。
[4] 同書p244-245を参照。なお、彼女は33歳時(1915年)から59歳時(1941年)まで、およそ27年間にわたって日記を書きつけており、それは死の4日前まで続いたという(pⅴ)。もっとも、レナードの手によって刊行された同書は、彼女が生前記した日記の抜粋から成っており、彼自身、「こうした省略は日記や手紙を書いた人の本当の性格をほとんどつねにゆがめたり隠したりし、いわば精神的に修正されたよそゆきの写真のようなものを生み出す」(pⅵ)と述べているように、実際のウルフ像のすべてを照らすものではないが、それでも十分に彼女の作品の創作過程を知るうえで欠かすことのできない資料となっている。
[5] 同書p197。
[6] 同書p248。
[7] この点について、例えば神谷美恵子『ヴァジニア・ウルフ研究』(みすず書房「神谷美恵子著作集4」1981)によると、神谷宛のレナード・ウルフからの手紙にも次のように書かれていたという。「ローダの中にヴァジニア自身の何かが入っていることは疑いもありません。」(p222)
[8] ここにあげた各自の性質については、特に1前掲書の次の頁を参照。ロウダp17,36、ルイスp28、バーナードp59,p122,p172。
[9] 同書p248。
[10] 同書p257。もっとも、バーナードは「わたしたちは、別々の肉体に成りゆくにつれて、ひどく苦しんだ」(同書p225)とも述べるが、実際には彼を除いた他の5人(特にロウダやルイス)は初めから「別々の肉体」としての意識はあったように思われる。幼少期から「幻想の国」(同書p11)を夢想していたバーナードはそれに気づけなかった。
[11] 同書p105。
[12] 同書p255-256。
[13] 同書p269-270を参照。
[14] 同書p276。
[15] 同書p276。
[16] 2前掲書p239-240を参照。彼女は『波』の2度目の書き直しを終えた直後に次のように記している。「十五分前に『おお、死よ』ということばを書いた。最後の一〇ページはときどきあまりにも熱烈に、陶酔していて、まるで私自身の声、とほとんどいえるもののあとをよろめきながら追っているだけのように思えた。」
[17] 同書p225。
[18] 同書p143-144。
[19] ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』(伊吹知勢訳・みすず書房「ヴァージニア・ウルフ著作集4」収録、1976)p277。
[20] 2前掲書p144を参照。「私はこのことを子供のときいつも感じたものだ――水たまりの上を歩いてわたることができなかったことがある。なんてふしぎだろう――私は何なのか、などと考えてわたれなかったことを思い出す。」なお、この文章は[18]の直後に続くものである。
[21] 1前掲書p268。
[22] 同書p277。 

  
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オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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