オオヌマユウ Book Review ②
「頭脳としての世界」
  ──エリアス・カネッティ『眩暈』(池内紀訳、法政大学出版局)──
 
 「わたしは少年時代をヨーロッパのいくつかの国々で過ごし、イギリス、オーストリア、スイス、ドイツで学校にかよった。このうち、最初の二学年をわたしはイギリスで送り、この国で読むことを学び、じきに英語の書物をつぎつぎと愛読するようになった。八歳の時、わたしはオーストリアへ行き、ヴィーンの学校にかようため、ドイツ語を学んだ。英語の書物のほかに、ドイツ語の書物がわたしの書架に加わった。ヴィーン到着後一年たった一九一四年に、第一次世界大戦が勃発した。オーストリアとイギリスは仇敵同士となった。ヴィーンの街頭には、戦争に熱狂した人びとの夥しい群衆が姿を現わし、口々に〈イギリス国民に死を!〉と絶叫した。わたしはそのような光景をいつも目のあたりに眺めたが、どうしても理解することができなかった……わたしの愛する言語を与えてくれた両国民の、このようなむきだしの敵対関係は、わたしの人生に最初の、苦痛に満ちた亀裂を引き起こさずにはおかなかった。」[1]

 カネッティが複雑な民族性、言語的背景を持つ作家であることについてはしばしば語られるところであるが(彼はブルガリア生まれのスペイン系ユダヤ人であり、古スペイン語を母語としたが、のちに英語、ドイツ語、フランス語を学び、著述活動はすべてドイツ語で行った)、彼が生涯にわたって抱き続けた「群衆」への関心の端緒となる出来事について、彼はまた次のように語っている。

 「国粋主義者たちによるドイツ外相ラーテナウの暗殺(※筆者註:1922年6月24日)後、わたしはこの殺害への抗議のために組織された最初の労働者たちの大デモンストレーションを見た。この群衆は、わたしがかつて見た群衆とは全く趣きを異にしているように思われた……わたしはこれまで、群衆を、まるでそれが私自身めがけて襲い掛かってくるかのように、威嚇的なものと感じてきたのに、そのときは、全く逆の現象が起こり、わたしはある抗しがたい力によって群衆の中へ引きこまれ、自分がその群衆の一員と化しているのを感じたのである。デモンストレーションが終わって、群衆が解散し、めいめいが家路についたとき、わたしは、まるで自分が今までより哀れな存在になりさがり、自分が何か貴重なものを失ってしまったかのような気分になった。」[2]

 さて、前置きが長くなったが、カネッティ26歳の作になる『眩暈』はこのような彼の背景を抜きにしては成立し得ない。書物に偏執する中国学者ペーター・キーンを取り巻く、異常なまでに肥大した自己愛をもつ家政婦、チェスのチャンピオンになることを夢想する強欲なせむし男、暴力的で狭隘な権威主義を振りかざす玄関番……。作中のこれらの登場人物は、彼の言う「あらゆる種類の群衆」[3]についての、その性質が極度に誇張され、戯画化された者たちであり、本書はそのような人物群からなる、他者理解のない世界についての狂気の物語である。己のことのみを考え、がめつく、浅ましいこれらの人物たちは、まさしく「むきだしの敵対関係」にあり、これを読む読者に「苦痛に満ちた亀裂」をさえ引き起こさせる。
 本書は、キーンが狂気の女テレーゼと結婚し、彼女に自身の住居から追い出されるまで(第一部 世界なき頭脳)、我欲のみに生きるせむし男フィッシェルレと出会い、粗暴な玄関番の居住に居候することになるまで(第二部 頭脳なき世界)、弟である精神科医ゲオルグの助力によって自身の住居を取り戻した末に狂死するまで(第三部 頭脳のなかの世界)の三部から構成されている。
 物語の最後は「テレジアヌム」というたいそうな名前の質屋が燃え盛るのを目の当たりにしたキーンが、自らの書斎の万巻の書と共に炎に包まれることで幕を閉じるが、この「テレジアヌム」の火災のイメージは、カネッティ自身が群衆についての研究を進めていくうえでの「最大の外的体験」であったと述べるウィーン騒乱における司法省の炎上に着想を得ていると考えることはあながち見当外れではないだろう。[4] 不実の権力の象徴としての司法省は、本作中において、キーンにとっての神聖な書物があろうことか質草として納められ、本を食べる「豚野郎」が嗅ぎまわる「国営の質物取扱施設」として戯画化され、キーンの狂気と共に炎を上げる。キーンの「頭脳の中の世界」は、彼が「その生涯についぞなかったほどの大声で笑い転げた」[5]という乾いた身体とともに焼失するが、彼自身もまた、かつてのカネッティとは別のかたちで、群衆の中で「苦痛に満ちた亀裂」にさいなまれ、かつ「哀れな存在になりさがり、自分が何か貴重なものを失ってしまった」孤独な自己喪失者であった。
 さて、本書は1935年にウィーンにて出版されたが、その後カネッティは1952年に戯曲『猶予された者たち』を執筆するまでの間、目立った作品を書き残してはいない。これは彼が作家として生きることを中断せざるを得ない事情によるものである。

 「私は戦争の始まる一年半前に、純粋に文学的な仕事を差し控えるという義務を自分に課した……戦争がいよいよ近づいてきたとき、戦争が勃発したとき……この瞬間からもはや一時たりとも、現実から遠ざかったり作家に身を窶したりすることは不可能となった。」[6]

 ヒトラーがウィーンに入城したのは1938年の3月であったが、同年11月のいわゆる「水晶の夜」以後、彼はそのウィーンを離れ、亡命先のロンドンにおいて、終生の仕事とした群衆と権力についての研究に没頭することとなる。
 ところで、彼は亡命後の戦争のさなか、自身が「断想」と呼ぶ自らの覚え書きにおいて、次のように書き記している。

 「この『心理学の時代』においてほど人間たちが自己について知ることの少ない時代はいまだかつてなかった……自動車に乗って彼らは自身の魂のさまざまの風景の中を走り抜けるが、ガソリンスタンドにだけ停車するので、彼らは、ガソリンスタンドが自分の生を維持している、と思い込んでいる……彼らはどす黒い池の中で夢見ている。」[7]

 結局のところ、カネッティが本書において示した群衆像の狂気は我々の狂気に他ならない。彼の言う「心理学の時代」からすでに80年が経とうとしているが、わたしたちはまだ、相変わらずどす黒い池の中で夢を見ている。

〈註釈〉
[1]エリアス・カネッティ『群衆と権力(上)』(岩田行一訳、法政大学出版局)pⅰ-ⅱ。
[2]同上pⅱ-ⅲ。
[3]同上pⅲ.を参照。「わたしは、かつて存在したあらゆる種類の群衆を把握し考察したいと思った。」
[4]同上pⅲを参照。「この研究を進めて行くうえでの最大の外的体験は、一九二七年七月十五日、すなはち、ヴィーンの司法省の建物が炎上した日であった。」
[5]エリアス・カネッティ『眩暈』(池内紀、法政大学出版局)p505。
[6]エリアス・カネッティ『断想 1942-1948』(岩田行一訳、法政大学出版局)p1。
[7]同上p.21-22。これが書かれたのは1942年であり、カネッティは翌1943年において、次のように語っている。「私の全生涯は……分業を廃してあらゆるものを自分で熟考しようという絶望的な試み以外の何ものでもない。」(同p75。)この言葉は、彼が生涯をかけて取り組んだ「群衆」と「権力」についての考察の方法をよく示すものであろう。
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オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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