オオヌマユウ Book Review ① 
「包む」ということ
  ──ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』(鼓直訳、集英社)──
 
 「分別のつく十代に達した者ならば、誰でも疑い始めるものだ。人生は道化芝居ではないし、お上品な喜劇でもない。それどころか人生は、それを生きる者が根を下ろしている本質的な空虚という、いと深い悲劇の地の底で花を開き、実を結ぶのではないかと。精神生活の可能なすべての人間が受け継いでいるのは、狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森なのだ。」[1]

 不気味な題名の本である。上に引用した通り、本書の題名は、ドノソ自身が「プリンストン大学にいたときから好きになり、以後ずっと続いている」[2]と公言しているヘンリー・ジェームズが、その息子たちに書き送った書簡からとられており、物語のエピグラフとして用いられている。
 この物語は、かつて上院議員の秘書であった無名作家ウンベルト・ペニャローサが、「小さな唖」ムディートとして「40人の老婆、5人の孤児、3人の修道尼」と共に暮らす修道院を舞台とし、そこでの生活と秘書時代の追想とが入り混じりながら、魔女や妖怪の伝承とともに畸形、魔術、性、そして奇跡について語られるものである。

 「この、じっと動かない、似たりよったりな物の集まりは、決してあなたにその秘密を教えようとはしないだろう。それはあまりも残酷なことだからだ。あなたは到底、あなた自身やおれ、まだ生きている老婆や死んだ老婆たちのすべてが、要するに、これらの包みのなかの存在でしかない、という考えに耐えられないにちがいない。」[3]

 物語に登場する修道院の老婆たちは噂好きで強欲である。彼女たちはどんなガラクタでも大事に包んでしまいこむ。老婆たちは死に、また新しい老婆がやってくる。死者の遺品は次の死者へと引き渡される。似たりよったりの彼女たちはそうして他人の生を自分の生として生きながらえる。
 そしてこの物語において、言葉を捨てたムディート自身、包みの中の存在、つまり外部の世界を捨てた者として読者の前に立ち現れる。私たちは包まれているものを開けようとする。誰かの過去、秘密、犯罪、恥部……。包みは暴かれ、白日の下に晒される。他方で外部の世界を拒否し、声を発することをやめたムディートは包みの中に、己の妄執の世界の中に入り込む。

 「……どちらが果たして真の現実なのか、分からなくなりました。内面の現実でしょうか? それとも外部の現実でしょうか? 現実がわたしの脳裏にあるものを造りだしたのでしょうか? それとも、私の脳裏にあるものが、この眼前のものを造りだしたのでしょうか? 密閉された息苦しい世界。言ってみれば袋のなかに生きているような感じです……己れ(原文ママ)の妄執によって閉じ込められていない外の新鮮な空気を、少しでもいいから吸おうとする。どこからが自分が自分であり得、他者であることをやめるのか、それを考える……」[4]

 彼が畸形の楽園の監督者として過ごしたリンコナーダや聾唖者ムディートとして生活する修道院も外部から断絶した言わば「包み」の中の世界であった。結局のところ、ムディートという「他者」の仮面を身に着けながら、ウンベルトというかつての「自分」について語り続けるこの孤独な男は、自己と他者との境界をもち得ない。彼は己の妄執に満たされた「袋のなか」に安住を見出そうとし、また一方でその妄執の袋を噛み破ろうともするが、最終的にそれも老婆の手によって阻まれる。
 老婆は彼を包む。麻の布で縫い付ける。彼が自ら口を閉ざした時、すなはち、唖者ムディートとして自身の身体の一部を縫い塞いだ時に、すでに彼の運命は決していたといってよいだろう。彼に残されたものは「本質的な空虚」であったが、 彼はその空虚の中で全身を縫いふさがれた「インブンチェ」となり、老婆と共に舞台から消えてゆく。[5]

 さて、本書を了読した後に再びエピグラフに目を通すと、この物語の舞台自体が、まさしく「狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く、騒然たる森」であったということに改めて気付かされるだろう。
 そして再度ページを開く。「騒然たる森」の中に身を投げ出す。空虚の中へ。狼が吠え、夜のみだらな鳥が啼く森の中へ……。

〈註釈〉
[1]ホセ・ドノソ 『ラテンアメリカの文学11  夜のみだらな鳥』(鼓直訳・集英社、1970) エピグラフ。
[2]ホセ・ドノソ『ラテンアメリカ文学のブーム; 作家の履歴書』(内田吉彦・鼓直訳、 東海大学出版会) p 59。
[3] 前掲書[1] p23。
[4]同上 p197-198。
[5]同上.p50 を参照。「インブンチェ。目、口、尻、陰部、鼻、耳、手、足、すべてが縫いふさがれ、縫いくくられた生き物……インブンチェになってみたい、あるいは他人をインブンチェにしてみたいという誘惑は、そこから生まれて意識の底に潜んでいた。それがいま、イリスの子どもの未来の姿として浮かびあがったのだ。」
オオヌマユウ(おおぬまゆう)

1987年、山口県出身。

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