中村剛彦 生存と詩と
6、事件
体調がどうも悪く、いくつか病院をはしごした。内科、皮膚科、整形外科と、どの専門医にもわからない病気だ。
具体的な症状は、両足の小指の付け根の突然の腫れて歩行困難。十代の頃から尿酸値が高いため食事を気をつけて生きてきたが、ついに痛風の症状が出たかと思いきや、内科の血液検査では痛風ではないとのこと。皮膚科にいってみると、「うーん」と初老の某大名誉教授のバイト医師が唸るので、「1ヶ月前に買ったこのNBのスニーカーが悪かったのでしょうか」と足元を指さして問いかけると、「そうだ! これだ! 俺もアメリカにいた頃、同じことがあった。靴を変えたら治るよ」。数日後、持病のヘルニア治療のかかりつけ医の若い整形外科医に聞くと、「これは痛風だと思うよ。とりあえず注射打ちましょう」と言われ、注射針が足裏に刺さた瞬間、傍の看護士に悶絶しながらしがみ付く始末。
けっきょく、この足の異常はよく分からないまま、1ヶ月の時が過ぎ去り、今、腫れた足を宥めつつ、詩を読み、何かを書くしかないと覚悟を決める。
具体的な症状は、両足の小指の付け根の突然の腫れて歩行困難。十代の頃から尿酸値が高いため食事を気をつけて生きてきたが、ついに痛風の症状が出たかと思いきや、内科の血液検査では痛風ではないとのこと。皮膚科にいってみると、「うーん」と初老の某大名誉教授のバイト医師が唸るので、「1ヶ月前に買ったこのNBのスニーカーが悪かったのでしょうか」と足元を指さして問いかけると、「そうだ! これだ! 俺もアメリカにいた頃、同じことがあった。靴を変えたら治るよ」。数日後、持病のヘルニア治療のかかりつけ医の若い整形外科医に聞くと、「これは痛風だと思うよ。とりあえず注射打ちましょう」と言われ、注射針が足裏に刺さた瞬間、傍の看護士に悶絶しながらしがみ付く始末。
けっきょく、この足の異常はよく分からないまま、1ヶ月の時が過ぎ去り、今、腫れた足を宥めつつ、詩を読み、何かを書くしかないと覚悟を決める。
Incident Countee Cullen
Once riding in old Baltimore,
Heart-filled, head-filled with glee,
I saw a Baltimorean
Keep looking straight at me.
Now I was eight and very small,
And he was no whit bigger,
And so I smiled, but he poked out
His tongue, and called me, ’Nigger’.
I saw the whole of Baltimore
From May until December:
Of all the things that happened there
That’s all I remember
Once riding in old Baltimore,
Heart-filled, head-filled with glee,
I saw a Baltimorean
Keep looking straight at me.
Now I was eight and very small,
And he was no whit bigger,
And so I smiled, but he poked out
His tongue, and called me, ’Nigger’.
I saw the whole of Baltimore
From May until December:
Of all the things that happened there
That’s all I remember
前回と同じ、『幼年時代についての101篇の詩(マイケル・ドナヒー編)〈101 Poems about Chilidhood edited by Michael Donaghy〉』から。
また拙い翻訳をしてみる。
事件 カウンティー・カレン
かつてのボルチモアに一度
心を弾ませて訪れたとき
ひとりのボルチモアの人が
じっとわたしを見ていた。
そのとき、わたしはまだ8歳の子どもで
かれも同じくらいの歳だったので、
微笑み返したら、舌を出して
こう言った。「ニガー」。
それからボルチモアのすべてをみた
5月から12月まで……。
そこで起きたことのすべてを
わたしはけっして忘れない。
この詩に、私はある種の柔らかな衝撃を受けながら、いま、これを書いている。つまらない肉体の不調をつづりながら、この短い詩に凝縮された、これまでの人生に一度もおとずれなかった、自らの存在に対する一言の「名指し」の衝迫に畏れを抱く。
この詩を単なる人種差別への抵抗詩と理解することは容易い。実際、教科書的にはそのように読むのが妥当でもあり、ここ数年に起きた「BLM」運動とも直結する。作者の詩人カウンティー・カレン(1903–1946)は、1920年代のアメリカで起きたアフリカ系アメリカ人によるアート・ムーヴメント「ハーレム・ルネサンス」の詩人である。(https://en.wikipedia.org/wiki/Countee_Cullen)
しかし、私がいまこれを読むとき、私の根本にいつまでも揺らいでいる問題と重なるのである。人種差別など受けなかった私が、この詩に、自分の存在の本質を抉られたような思いに駆られるのである。
「お前は何者なのか」
そうした問いを、この詩は私にぶつけてくる。
「私は何者なのか」
上記の詩を「じっと」見つめてみる。たとえば、2連目の最後の「ニガー」という差別語を、「ジャップ」という差別語と入れ替えてみる。語の入れ替えは単純なことかもしれないが、それだけで詩というものは180度回転する。他者の詩が、自己の詩となる。
私は「日本人」であることを当たり前に受け入れている。このことは、実は知らぬ間に「私」を圧死させる。
子ども時代を振り返れば、「私は〇〇小学校◯年生の中村剛彦です」「私は〇〇市〇〇区◯町の中村剛彦です」「私は〇〇と〇〇の次男の中村剛彦です」と、違和感なく自己紹介していた。しかし50歳も間近に迫ってくると、「私」に付随する地名、出身校、職業、家系などが重く首に巻きついて息苦しさが増してきている。二十代の頃の、こうした付随物をかなぐり捨てようとしていた「自由」の精神の後退でもあろうか。いやむしろ「自由」をもとめつづけた結果、かなぐり捨てられないものの重みにただ苦しんでいるだけなのかもしれない。そして「私」というものが、いったいどのような人間であるのか、歳を重ねるごとにわけがわからなくなってきている。やがて考えに考えを重ねてたどり着く唯一明快な存在証明ともいえるもの、それが「私は日本人である」ということである。そして私は酒を浴びる。
また拙い翻訳をしてみる。
事件 カウンティー・カレン
かつてのボルチモアに一度
心を弾ませて訪れたとき
ひとりのボルチモアの人が
じっとわたしを見ていた。
そのとき、わたしはまだ8歳の子どもで
かれも同じくらいの歳だったので、
微笑み返したら、舌を出して
こう言った。「ニガー」。
それからボルチモアのすべてをみた
5月から12月まで……。
そこで起きたことのすべてを
わたしはけっして忘れない。
この詩に、私はある種の柔らかな衝撃を受けながら、いま、これを書いている。つまらない肉体の不調をつづりながら、この短い詩に凝縮された、これまでの人生に一度もおとずれなかった、自らの存在に対する一言の「名指し」の衝迫に畏れを抱く。
この詩を単なる人種差別への抵抗詩と理解することは容易い。実際、教科書的にはそのように読むのが妥当でもあり、ここ数年に起きた「BLM」運動とも直結する。作者の詩人カウンティー・カレン(1903–1946)は、1920年代のアメリカで起きたアフリカ系アメリカ人によるアート・ムーヴメント「ハーレム・ルネサンス」の詩人である。(https://en.wikipedia.org/wiki/Countee_Cullen)
しかし、私がいまこれを読むとき、私の根本にいつまでも揺らいでいる問題と重なるのである。人種差別など受けなかった私が、この詩に、自分の存在の本質を抉られたような思いに駆られるのである。
「お前は何者なのか」
そうした問いを、この詩は私にぶつけてくる。
「私は何者なのか」
上記の詩を「じっと」見つめてみる。たとえば、2連目の最後の「ニガー」という差別語を、「ジャップ」という差別語と入れ替えてみる。語の入れ替えは単純なことかもしれないが、それだけで詩というものは180度回転する。他者の詩が、自己の詩となる。
私は「日本人」であることを当たり前に受け入れている。このことは、実は知らぬ間に「私」を圧死させる。
子ども時代を振り返れば、「私は〇〇小学校◯年生の中村剛彦です」「私は〇〇市〇〇区◯町の中村剛彦です」「私は〇〇と〇〇の次男の中村剛彦です」と、違和感なく自己紹介していた。しかし50歳も間近に迫ってくると、「私」に付随する地名、出身校、職業、家系などが重く首に巻きついて息苦しさが増してきている。二十代の頃の、こうした付随物をかなぐり捨てようとしていた「自由」の精神の後退でもあろうか。いやむしろ「自由」をもとめつづけた結果、かなぐり捨てられないものの重みにただ苦しんでいるだけなのかもしれない。そして「私」というものが、いったいどのような人間であるのか、歳を重ねるごとにわけがわからなくなってきている。やがて考えに考えを重ねてたどり着く唯一明快な存在証明ともいえるもの、それが「私は日本人である」ということである。そして私は酒を浴びる。
カウンティー・カレンは43歳で尿毒症で死んだ。彼が活躍した「ハーレム・ルネサンス」は、詩人のラングストン・ヒューズが主導したことはよく知られている。ヒューズの翻訳詩は読んだことがあるが、実はあまり惹かれたことはない。なぜなら私には到底、アメリカにおける黒人への差別撤廃運動の歴史に実感としての共感を得られないからだ。ヒューズの詩はあくまで「知識」としか読めないのである。
ただ、カレンの上掲の詩を読むと、胸の奥から何かがわきおこってくる。その要因はおそらく、私自身が何者か分からず生きてきて、かつ私が何らかの「〇〇」として生きなければならない不自由に苦しんでいるからだろう。そしてどこかでだれかが私を見つめていて、「ジャップ」と声に出さずに呼んでいることへの恐怖がつねにある。
実はカレンについてはあまり知らなかったが、ネットで調べると興味深いことが書かれていた。ラングストン・ヒューズの翻訳でも知られたアメリカ文学者の斉藤忠利の論文「カウンティ・カレン ──ジョン・キーツに私淑した黒人詩人──」に、カレンが「ハーレム・ルネサンス」の詩人でありながら、他の黒人アーティストとは一線を画していたことが書かれている。
ラングストン・ヒューズのように「黒人」としてのアイデンティティを中心に詩作し、ジャズと詩の朗読のコラボレーションを積極的に行いながら幅広くブラック・アート・ムーブメントを展開したのに対し、カレンは「黒人」であることを創作の基礎にはおかず、むしろキーツのような伝統的な白人によるロマン主義の詩に自らの詩作の基礎を置いたという。さらに、黒人の詩のアンソロジーを編むにあたっては、「黒人詩」という定義に疑義を挟んでいいる。こうした定義は「ソヴィエト詩」とか「中国詩」とかいう定義と同じで、どこか外国で作られた詩のように自分たちを括ってしまうことへの警鐘を述べる。
ラングストン・ヒューズのように「黒人」としてのアイデンティティを中心に詩作し、ジャズと詩の朗読のコラボレーションを積極的に行いながら幅広くブラック・アート・ムーブメントを展開したのに対し、カレンは「黒人」であることを創作の基礎にはおかず、むしろキーツのような伝統的な白人によるロマン主義の詩に自らの詩作の基礎を置いたという。さらに、黒人の詩のアンソロジーを編むにあたっては、「黒人詩」という定義に疑義を挟んでいいる。こうした定義は「ソヴィエト詩」とか「中国詩」とかいう定義と同じで、どこか外国で作られた詩のように自分たちを括ってしまうことへの警鐘を述べる。
「黒檀のように黒い詩的霊感の噴出を黒人による詩歌がすべてそれに倣う、ある明確な型に追い込もうと試み ることは、全く無益で、事実を外れているように思われる。……黒人詩人たちは、英語に依存していることから、ア フリカの遺産に立ち帰ろうとする、なにか空漢とした甘い憧れからよりも、豊かな英米詩の背景からさらに多くのものが得られそうな可能性がある。」(Caroling Dusk : An Anthorogy of verse by Negro Poets(1927))
ハーバードの大学院まで行った秀才であったらしいが、黒人がアフリカの起源に存在の根拠をおき、民族主義的立場をとるよりも、現在の自身が身を置いている「言語」圏に詩作の基礎を置こうとする姿勢は、思想的に今日的なかなり重要な問題を孕んでいるように思われる。
確かに1920年代の「ハーレム・ルネサンス」は、その後の公民権運動へとつながる黒人の人権獲得の道を切り拓いたと言えるが、昨今の「BLM」運動を知ると、百年経っていても、黒人差別は依然として色濃くアメリカには残っている。私はアメリカ現代史については不勉強であるから軽々には言えないが、もしかしたらカレンは黒人の民族主義的思想では差別はけっして解消されず、むしろ対立を深めるだけであって、もっとクレオール的な「言語」獲得による異人種同士が共有できる言語の「場」の構築を目指したのではないかと思われる。その姿勢はすでに「英語」という言語圏にあるものの詩人の宿命を、リアリストの目で冷徹に見つめていたものといえる。
私は、ここに日本の詩人の姿を重ねてみたくなる。そして「私」のあり方もである。「日本語」という言語圏に生きるものの宿命として、どのような姿勢であるべきか。また私たちにとって「日本語」とは何か。それが問われるところである。
そろそろ酔いも回った。続きは次回にするとして、いまカレンから学ぶのは、上記のように、自らのルーツ(起源)にあまりに拘泥することの危険さである。カレンの詩に描かれたように、幼い頃に私たちは何らかの「事件」に巻き込まれ、それがトラウマとなった人生を各々に生きている。それを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは本人次第であるが、カレンがこの短い詩の最後を「わたしはけっして忘れない」と締めくるるとき、それは差別という否定されるべきトラウマを、その後のみずからの人生の出発点として積極的に捉え直している決意のように私には思える。ただ一人の人間として生きようとする詩人の強い意志である。
何度も読みたい詩はあまりないが、この詩は違う。これからカレンの詩を読んでいきたい。
なによりも、「私」自身の生き方を確かめるために。
確かに1920年代の「ハーレム・ルネサンス」は、その後の公民権運動へとつながる黒人の人権獲得の道を切り拓いたと言えるが、昨今の「BLM」運動を知ると、百年経っていても、黒人差別は依然として色濃くアメリカには残っている。私はアメリカ現代史については不勉強であるから軽々には言えないが、もしかしたらカレンは黒人の民族主義的思想では差別はけっして解消されず、むしろ対立を深めるだけであって、もっとクレオール的な「言語」獲得による異人種同士が共有できる言語の「場」の構築を目指したのではないかと思われる。その姿勢はすでに「英語」という言語圏にあるものの詩人の宿命を、リアリストの目で冷徹に見つめていたものといえる。
私は、ここに日本の詩人の姿を重ねてみたくなる。そして「私」のあり方もである。「日本語」という言語圏に生きるものの宿命として、どのような姿勢であるべきか。また私たちにとって「日本語」とは何か。それが問われるところである。
そろそろ酔いも回った。続きは次回にするとして、いまカレンから学ぶのは、上記のように、自らのルーツ(起源)にあまりに拘泥することの危険さである。カレンの詩に描かれたように、幼い頃に私たちは何らかの「事件」に巻き込まれ、それがトラウマとなった人生を各々に生きている。それを肯定的に捉えるか、否定的に捉えるかは本人次第であるが、カレンがこの短い詩の最後を「わたしはけっして忘れない」と締めくるるとき、それは差別という否定されるべきトラウマを、その後のみずからの人生の出発点として積極的に捉え直している決意のように私には思える。ただ一人の人間として生きようとする詩人の強い意志である。
何度も読みたい詩はあまりないが、この詩は違う。これからカレンの詩を読んでいきたい。
なによりも、「私」自身の生き方を確かめるために。
(2021.11.4)
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。
隔月連載評論:「平成詩漫歩」(「新次元」サイト)https://gshinjigen.exblog.jp
過去の連載等(ミッドナイト・プレスHP)