中村剛彦 生存と詩と
4、大晦日2020

 2020年が終わる。この連載も半年ぶりの更新となってしまった。巨大な隕石のような時間がこの一年、私に重くのしかかった。いつ圧し潰されるか分からないような巨大な時間だ。私は自分の精神を折り畳み、平らな一枚の座布団のように屈まって過ごしたように思う。全ての過去がお前を圧縮させるのだと、時間が私に命じている。そして未来は、最終的な時間の圧縮の完了=死への連続運動に他ならない。何度も、何度も、巨大な時間の圧搾器が私という存在を真っ平らに圧し潰し、最後の一撃で最終形態を象るとき、私は何者としてこの時空に刻印されるのだろうか……。

 「自分自身にとって偉人であり、聖者であること、これこそ唯一の重大事だ。」

 ボードレールは「赤裸の心」でこう述べている(阿部良雄訳)。こうした19世紀末のダンディズムの精神はいまも通用するかどうか分からないが、正直な感覚では、この言葉こそ正しいように感じる。このホンモノの詩人の言葉は逆説を孕んでいる。この言葉の背後には、己の存在は無であり、かつ得体の知れない化け物でもあるという認識が確実にある。そうでなければ、「聖者」になどなれるはずがない。
 私はなんとかこの言葉に倣おうとして、この1年、きわめて実務的な人間であることに努めてきた。この肉体と精神に染み付いている自身の偽善の埃をうち払うようにしてきた。しかし終わってみたらどうか。ただ同じ内面の岸辺ばかりを彷徨っていた気がする。半月が溶けて波の上に垂れて流れている夜の岸辺で、いつ死ねるか、ということばかりを考える始末だ。もはや偽善の精神だか偽悪の精神だか判別できない、醜悪な、蛆虫のような自尊精神だけが自分の肉体の内部で首を垂れている。

「男が芸術に精進すればするほど、勃起することがすくなくなる。
 精神と禽獣の間に、しだいしだいに著しい乖離(かいり)が生じる。
 禽獣のみがよく勃起するのであり、性交は民衆の抒情(リリスム)だ。
     ───
 性交するとは、他人の中へ入ろうと望むことであって、芸術家はけっして自分自身から外へ出はしない。
     ───
 私はあのあばずれ女の名を忘れてしまった……いや! なあに! 最後の審判の時に思い出すだろうよ。
     ───
 音楽は空間の観念を与える。
 すべての芸術が、多かれ少なかれそうだ。なぜなら、芸術は数であり、数は空間の翻訳であるから。
     ───
 毎日、人間のうちのもっとも偉大な者であろうと欲すること!!!」
 
 同じくボードレール「赤裸の心」から引いた。さまざま解釈がなされている箇所だが、解釈ではなく、実感として男がインポテンツになれば、最後には「偉大な者」になりたいに決まっているのだ。この詩人の実直さこそが偉大だと感動する。私は若い時ほどではないが、まだ勃起するから、民衆のなかで生きる禽獣抒情詩人でまだいられるのかも知れないが、もう詩人ではなく、「あばずれ女」と禽獣的性交の果てに死ぬほうがどれほど幸福だろう。しかし「あばずれ女」がどこにもいないのだから、ただ内面の夜の岸辺を彷徨いつづけるだけだ。


 2020年の終わりは、世間ではコロナ禍の一年を振り返ることばかりだが、私はむしろ中島敦が書いた「文字禍」で終えたい。
 紀元前600年頃の世界最大の帝国であったアッシリア帝国の王アシュル・バニ・アバルの治世に、王の幼少時代からの教育者であったナブ・アヘ・エリバ博士が、「文字の霊」があるかどうかを王の命によって解明していく話だ。
 博士は歴史が文字で書かれている以上、書かれていない歴史はないものに等しいという、今で言うところの歴史修正主義の問題を述べ、文字がなければ私たち人間は何も認識などできないという現代言語学が提示している問題を解いていく。
 やがて博士は、「家」や「人間」という文字と向き合っているとき、「家」や「人間」がバラバラに崩れていくゲシュタルト崩壊に見舞われ、狂気へと落ちていくのだが、これがアッシリア帝国崩壊の予兆として語られるのである。
 中島敦は、私が生まれ育った横浜に10年近く住んだ夭折作家であるが、最近ある仕事の関係で集中的に読み、その文学の底に流れている中島の世界構造に対する精確で厳しい視線に圧倒されている。
 詳しくは来年にまた書きたいが、この「文字禍」は昭和17年に発表されている。つまり軍国主義が色濃くなってきた「大日本帝国」最盛期に、何が最も「禍」であるかを透視しているのである。崩壊はすでにはじまっているのだと、崩壊3年前に述べている。中島は崩壊前夜に世を去ったが……。

 私たちの世界の崩壊はいつか。実は3、4年前に現代の中島敦がどこかで述べていたに違いない。彼はすでにこの世を去った詩人であろう。しかし私はその詩人を知らない。それでいい気がする。

 そろそろ酒も回ってきた。文字の世界を離れ、波の音楽に身を委ねて年を越そうと思う。崩壊は間近であろうか、いまであろうか。分からない。今夜も勃起した禽獣は夜の海辺を彷徨う。こんな詩を机に置いて。

半月のうた  
   
窓を開くと   波間の国境に
粉雪は しん しん とふり
あなたは 鍵盤を閉じて   笑う
たどりついた岬の部屋で  

潮が引いてゆく  午前0時
最後のかがり火 消え
緑の灯台の明滅に
抱擁の影 ゆれる

明朝の窓辺につがいの椋鳥……
旅の名残のように わたしは
てのひらの結晶を時の小箱にしまい
長すぎた夢の物語を 終える。
 
 
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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