中村剛彦 生存と詩と
3、ある百日

「愚か者はよくしゃべる。」──「旧約聖書」伝導の書

 今日、6月20日は「百箇日」である。仏教によると四十九日が忌明けであるが、どうやら今日こそが、故人への悲しみの感情から脱し日常に戻る日のようである。「卒哭忌(そっこくき)」とも言い、「哭(な)く」ことからの「卒業」の日である。実は私はこのことを知らなかったが、今日、私の生存を15年4ヶ月も支えてくれたゴールデン・レトリバーの愛犬ボニーを失ってから百日が経ったわけである。亡くなったのは3月13日。私は明日から悲しみから脱せられるかは分からないが、この百日間つらつらと書いてきた駄文の断片を提出しようと思う。

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 気づけば、この「生存と詩」は約半年ぶりの更新である。この半年は、私にとって人生でもっとも厳しい試練の月日だった。

 昨年12月に長く仕事を手伝いながら、心から尊敬していた詩の出版社ミッドナイト・プレスの岡田幸文編集長が急逝した。そのショックが癒えることがないまま、ボニーが亡くなった。ここ2年ほどボニーの介護をしながら心の準備はしていたつもりだったが、このダブル・ダメージは想像をはるかに超えるものだった。さらに、新型コロナウィルスのパンデミックである。

 自分にとってかけがえのない存在が次々とこの世から立ち去り、私の左目はずっと痙攣している。そして自室で酒ばかり飲んでいたら腰骨が一つずれ、10分歩くともう立てなくなった。先日病院に行ったら、「すべり症」と診断された。どうやら大型犬の2年間におよぶ介護生活が、私の体をボロボロにしたらしい。若くない自分の体を労ることをしなかったツケが回ってきたということだ。しかし最愛の存在のためだったのだから仕方がない。

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 15年4ヶ月、毎朝5時半から6時の間にボニーの散歩のために起きる習慣がいまも抜けない。目が覚めてベッドから起き、「ああ、もう散歩は行かなくていいのか」と二度寝をする。それから1時間ほどたってベッドから起き、昨夜飲みかけのままのウィスキーを流しに捨て、エスプレッソマシーンで淹れたコーヒーを飲む。それから何をしてるのだろうか。音楽を聴いているかもしれないし、詩や小説を読んでいるかもしれない。何やらいろいろなことをして午前中が終わる。仕事は新型コロナ以前からとっくにボニーの介護のために休職しているから、やることはないのである。

 午後、ようやく外に出る。ウォーキングである。「ボニー、行くぞ」とお骨に声をかけて、かつてともに歩いた道をゆく。しかし腰が痛んでしゃがみ、また歩く。ずっと一緒に歩いた道々をボニーの幻とともに歩く。
「この階段は降りれないからこっち行こうか。」
「さあ思いっきり走ろうぜ。」
と独り言を呟きながら、10分ずつ休みながら歩く。

 しばらく歩いて汗をかくと昨夜の酒が抜けていく。それから部屋に戻ってシャワーを浴びて、誰にも頼まれていない書き仕事をはじめる。たとえばエリュアールの詩集『愛すなわち詩』(安東次男訳)をノートに書き写す。そうしているうちに夕の光が部屋に差してくる。ウィスキーをグラスに注ぎはじめる。音楽を聴く。ダニー・ハサウェイだ。夕空を眺め、ボニーが側で寝ている姿を幻視する。
 すると老いた母親が部屋に入ってくる。つづいて父親が入ってくる。なんだか嬉しそうな顔をしている。二人の姉が入ってきて口喧嘩をしだす。最後に兄が入ってきて独り言を叫びながら猿のように踊っている。私はエリュアールの詩を自分のものにしようと必死にボールペンを強く握りノートに向かう。家族は私の存在に気づかないようだから、私はウィスキーをグラスに注いてアンプのヴォリュームをあげる。

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「ボニー、助けてくれ」
 しばらく床に仰向けになって目をつむる。スピーカーからはもう何も聴こえない。
 それからしばらくスマホの表面に散らばる「コロナ」「コロナ」 「コロナ」の文字をながめ、窓に夜の星の粒子が流れているのを想像しながら、ノートを開いて出来損ないの「うた」を書きつけて、1日は終わる。

 わざわいの春が過ぎてもかがやける庭のまなかの君が幻

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 大切な存在のために生きる──。それは自己を放擲することだろうか。大切な存在が消えたとき、自己もまた消えるのだろうか。逆に自己を消し去るために、大切な他者に全身全霊を託して生きるのだろうか。いったい「自己」が先か、「他者」が先か、分からぬまま燃え上がるように生きていくことは何か。まるで恋人同士がステージの上で抱き合いながらナイフを突き刺し合う心性だ。それは「劇」として大昔からシェイクスピアや世阿弥やワイルドは描いていたように思う。私は精神的「劇」を生きてきたに過ぎないのかもしれない。現代人はそれを「精神的危機」と名指す。互いの肉を抉りながら、互いを愛する台詞を絶命するまで重ね合わせるドメスティック・バイオレンスは、現代では「劇」のようなエクスタシーにはならない。「危機」なのだ。だから逃げるのみである。

 私はどうやら「自己劇化」しているのだ。個室の中で、鏡をみながら、ある映画の主人公のように、「Are you looking at me?」と鏡に話しかけ、自分へ銃口を向ける男だ。観客がいない、ひとり居の部屋で仮想の「劇」の中で生きてきたのだ。ボニーはそんな私の傍で、ずっと私が暴走しないように留めてくれていた。だから私は鏡に銃を放つことはしなかった。

  *

 実験される犬   村上昭夫

 飼われたと思っているのか
 鎖につながれていながら
 そう思って通る人に吠えるのか
 口にいっぱい泡をふくんでいるところは
 よほど狂犬にも近いのだ
 それはもう幾度か実験されたのち殺される
 それでも飼犬のように吠えている
 しかも一匹ばかりではない
 およそ数十頭も吠えている
 私はいま恋人に逢いに行くところだが
 此処からはひきかえさなければならない
 ひきかえさなければ私も死ぬ
 口にいっぱい苦い泡をふくんでいる
 実験される犬がいるのだ

 何度も、ボニーの介護をしながら読んだ詩集『動物哀歌』の一つだ。そのたびに私は「実験されている」とずっと感じていた。

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 もはや「アフター・コロナ」だろうが「ビフォー・コロナ」だろうが知ったことではない。すべては単なる現象に過ぎない。人は死に、そして生きる。消滅と生成はいまこの瞬間も繰り返されている。全ての存在はやがて宇宙塵となって彷徨う。
 しかしこうも思う。私は、ともに生きてきた存在がどれほどに私を生かしめてきたかと。ウィスキーを飲み、音楽を聴き、そしてひとり近所を歩いたり、ときに数メートル走ったりしながら、いまひとりで生きていることを直接に感じている。私は幻ではない。あのとき、三月十三日の朝、私を見つめ、そしてちいさく嘔吐し、倒れていった愛するボニーの、その最後の姿を毎日思い浮かべながら、いまを生きることの直接性とはなんだと考える。「ただひとつのかけがえのない存在の死」の再生される映像と対峙し、それを自身へと内在化させ、「ただひとつのかけがえのない生」を見出す試練だ。

 どこまでも遠くへゆこうと独りごち君の写真をじっと見つめる

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 「コロナ」について、さまざまな専門家が発言をしているが、最終的には要は「闇」である。誰も先のことはよくわからない。だからこそ「専門家」の話にすがるのであるが、誰も先のことなどわかるわけがない。わかっていたらこんなことにはならない。誰にとっても「闇」は怖いが、むしろ人間にとってはそれが正当であろう。

 よくこのコロナ禍について聞くのが、あの20世期前半のスペイン風邪流行後の世界大恐慌、そしてその後の大戦争時代の再到来である。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。私にはよく分からない。思うに「専門家」とか「知識人」とか呼ばれる人々によるメディアでの発言は半信半疑でいた方がいい。いつの時代でも、彼らの言葉が的中することはほとんどない。なぜならメディアはほとんど真実を伝えないからだ。ただ、人々が簡単に知りたいと思っている事実(ファクト)を伝えるだけだ。「専門家」の瞬間瞬間の発話(パロール)のみにメディアは依拠している。事実(ファクト)は常に覆されるので良いのだ。

 「新型コロナはアジア人にとってそれほど脅威ではない、なぜなら……」と専門家がメディアで述べる。人々は安心する。しかし専門家が最後に「……かもしれない」と言う。人々は「かもしれないね」と納得する。それだけだ。それで今日の不安は幾分低減する。明日には同じ専門家が「やっぱり第二波がきて危機的状況かもしれない」と昨日の考えを覆す。それでいいのだ。昨日の「かもしれない」が担保となって今日の「かもしれない」になるのだ。ほんとうのことなど知らなくても大衆は納得済みだ。メディアはまさに大衆心理を写す鏡である。専門家は更新しつづける今日の事実(ファクト)と明日の事実(ファクト)を発話(パロール)しづつける仕事に従事するのだ。私には到底その図太い神経が持てない。

 私は長く詩に関わってきたから、そうした日々更新し上書きされていく事実(ファクト)よりも、すべてを貫く真実性(トゥルース)をどうしても追求してしまう。今の私の心理状況は、「人は毎日死んでゆき、人は毎日生きてゆく」ということだけだ。ここでいう「人」を「私」と入れ替えてもいい。「私は毎日死んでゆき、私は毎日生きてゆく」。全世界の人々が今いつ自分が新型コロナに感染し死ぬかもしれないという恐怖のなかで、他者と自己を峻別しきれなくなっているはずだ。この「私」と「人」の重層性はおかしいとは言えないだろう。

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 だからかもしれないが、目の前の、ほんとうに手で触れることできる存在こそが、ほんとうの存在ではないだろうかと最近痛感する。そしてその「触れる」ことこそが、自身の存在把持ではないだろうか。「真実(トゥルース)」ではないだろうか。

 果てしなく広がる海に尻尾ふり旅立つ君を夕陽が抱いた

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 15年4ヶ月、手で触れられるボニーという小さき存在に没入してきた。そして詩を読み、書いてきた。ほんとうに大切なものは何か、ほんとうに信じられるものは何か、それだけを見出していくことこそが、私にとっての「真実(トゥルース)」であった。私はボニーをずっと抱きつづけてきたが、実は抱かれつづけていたことを実感する。生きている存在が生きている存在に抱かれるということの至高を実感する。だから私は死んだものがどこへ行くのか、何ものに抱かれるのかをこの百日間、今日までずっと想像してきた。今まで抱いてきた存在の消滅は、つまりそれまで抱かれていた自己の消滅ではないだろうか。私はどこかへ消えてしまったのではないだろうか。あの場所へ「帰りたい」と思う。

 目の前に広がる幻の海と夕陽を眺めながら、いつ自分がcovid-19に冒され命を落とすかもしれない、いつ自分が困窮し自殺するかもしれない、そんな不安を抱き、それでも一回きりの生は生きてきてよかったものだと思える。抱き合いつづけたボニーとの至高性が失われたいま、自己の消滅を実感している。

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 ぼくのたった一つの愛撫で
 全身ではじけるおまえの輝き。 ──ボール・エリュアール『愛すなわち詩』より

 このわずか二行で、エリュアールという詩人が、人間が他者と一体となりながら、それ故に絶対の孤絶を生きていることを触知していることを知ることができる。「ぼく」と「おまえ」はここで完全に重なり合い、ひとつになり火花を発し、しかし「たった一つの愛撫」なしにはどこまでも遠くに在る。こうした詩にいま私は急速に惹かれている。これは安東次男訳である。次に宇佐美斉訳で同じ詩を引く。

   ただ一度の愛撫によって
   わたしはきみの輝きのすべてを燃えあがらせる。

 この二つの翻訳の違いは決定的だ。原文はどうかといえば、フランス語を知らないから分からない。宇佐美訳の方が分かりやすいが、私は安東訳を買う。安東訳はほとんど、いま私が部屋で聞いている売れないパンク・シンガーが、ステージで最初に弾きはじめる激しいFコードのギター和音に近い。安東訳のエリュアール詩はそんなフレーズの宝庫だ。

 生は不吉な戦争に吊るされる。
 そして生を理解した一切のものを殺すのは生だ
 鏡たちの母であるおまえの血を示せ 
 単純な歳月の泉が
 薄明に似た恥辱で乾くとき
 相似は おまえの血をあぶりだす。

 これも強烈な和音だ。このエリュアールという詩人はなんなんだ。そしてこれを日本語でかき鳴らす安東次男とは何者だ、そんな思いに至る。最終行の「相似」は、意味を超えて私を捕まえてくれる。すべての「生」は「相似」しているのだ。

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 エリュアールは、20世紀を代表するフランスのシュールレアリズム運動の中心的詩人であるが、昨年末までこの連載「生存と詩」で取り上げてきたゼルマを殺したナチスへの抵抗詩人としても有名である。

 わたしは生きたい。
 ごらん──生はこんなに鮮やかに輝いている。
          ──ゼルマ・M・アイジンガー「ポエム」秋山宏訳

 ゼルマはゲットーで、このような詩句を「ポエム」という詩でボロボロのノートに綴っている。これは「抵抗」ではなく、ただ目の前の「生」を、やってくる自身の「死」から照らして綴ったことばだ。エリュアールの詩とゼルマの詩は表裏にある。それは「抵抗」ではなく、ただ「生」と「死」を直接的に見定めた眼差しではないだろうか。だから私はエリュアールを「抵抗詩人」などと定義することをあまり良しとしない。詩とはもっと「生」そのものに肉薄する声だと思う。

 一つの貌が 世界中の名に応えること
 それがほんとうに必要だった。

 これも安東訳エリュアール『愛すなわち詩』からである。まるでゼルマが毎日ゲットーで見つめていたひび割れた鏡が発したような声だ。エリュアールのシュールレアリズムとは、このような絶望的な政治的現実のなかで生きなければならない、自身の、あるいは世界のすべての「相似」する人間の「生」を正確に書き落とすことに依拠していたことに驚く。「シュールレアリズム」は単なる芸術運動ではない。自己と他者の境界線を超えたところの「生存」のための詩であると思う。

   *

 ボニーが死んで百日が過ぎたとして、私はどうやってひとりで生きていけば良いのか分からない。ただ生きたい。私が愛した存在の不在とともに。変な話かもしれないが、私はただひとつの生物に過ぎないから、死ぬ前に生きようとしなければならない。私を殺そうとする者は、今日にも明日にも、いつでも私を殺せると思う。もはや死ぬのも運命であろう。腰が砕けて歩けないまま酒に溺れて死ぬのもよい。ただ生きる目的があるとすれば、「私は生きたい」という願いのみである。おそらく生きられれば、良いことも悪いことも混濁した、誰も知らない生をまっとうする。死は待ってくれている。全力の「生存」の先に死は待っていてくれている。私はつまらない歌ばかりをこの百日書いてきた。

 かたわらで眠りながら尻尾振り死にゆくきみはいま野原を駆けゆく

 いま、これが夢であるかもしれないと思えれば、それはそれでいい。私もそのように生きているのだから。直接的に生きること、直接の感覚に潜む至高なるときを迎えること。それだけを長く詩を書いてきた自分に語りかけたいと思う。茫漠とした未来は、何も語りはしない。いま生の絶頂に達するために、詩はありつづけられるか!

 僕はおまえと離れた
 だが愛はまだぼくの前を歩いていた、
 ぼくが腕をさし伸べると
 苦しみがやってきて ますますせつなげな顔をする
 ああここら一帯は砂漠だ、ぼくはそれを
 僕自身と別れるために呑まねばならない。

 このエリュアールの詩の「僕」に、これからの「私」を重ねて「百箇日」を終えようと思う。酒に酔い、目覚め、星が流れる窓を眺め、ふたたびあの音楽を聴きながら……。


「人は長い年月を生きるなら/ずっと楽しむがよい。/だが、闇の日も多く在ることを忘れてはならない。/すべて、起こることは空しい。」──「旧約聖書」伝導の書
 
 


中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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