中村剛彦 生存と詩と
1、八月の鰻の味

 一 
 今年の八月十五日は母とふたりで墓参りに行った。時折ざっと降っては晴れる断続的な驟雨の合間に、わたしは墓を掃除し線香に火をつけ、母は花をアレンジして供え、それぞれに墓前で手を合わせた。
 帰りに久しぶりに横浜の関内にある老舗の鰻屋で鰻重を食べた。三十年前に亡くなった祖母が愛した鰻屋であった。そこで母は少し祖母の思い出を語ってくれた。戦時下の過酷な体験であるが、どこかわたしにとっては甘い雰囲気のある話であった。きっと母が語る祖母の物語だからであろう。子どもの頃に可愛がってくれた祖母の面影を思い出しながら、久しぶりに母と食べる鰻重は美味しかった。
 それから一週間ほどが経ち、いま自室で、足元で眠る老犬の鼾を聴きながら、これを書いている。だが何を書けばよいか分からなくてなってしまっている。前回の「序」で引用したホロコーストの犠牲となった少女ゼルマの詩について、その後しばらく考えていたことを書きたかったのだが、今日は何か別のものがわたしを支配してしまっているのだ。それが何なのかがよく掴めないのだが、八月十五日の、背中が丸くなってきた母との墓参りと、その後の鰻屋での母の「語り」が、いまわたしに自由に書くことを難しくさせていることだけはわかる。いったいなぜだろうか。すこし考えながら書いてみたい。

 二
 話をいったん変えてみる。
 わたしにとって八月とはもっとも文学的な月である。言わずもがな、戦争の月だからである。まるで夏休みの宿題のように、わたしは毎年この月に戦争に関する本を読む。そして戦争を生きた文学について考え、平和を生きる現在の文学について考える。長い間のわたしの文学的習慣である。
 いま読んでいるのは『処刑  あるB級戦犯の生と死』(北海道新聞社編、一九九〇)である。ちょうど七十三年前の今日、一九四六年八月二十三日に巣鴨プリズンで絞首刑になった旧陸軍大尉平出嘉一のドキュメントである。彼は少年時から野球を愛し、文学を愛し、将校となり、室蘭捕虜収容所所長となり、そして捕虜への非人道的虐待の罪によって死刑を宣告され絞首刑にされた。二十八年の人生であった。
 この本はいまからおよそ三十年前、つまり終戦後四十五年目に地方新聞社から出版されたものである。なぜこの本を読んでいるのかといえば、今年の春先に、このウェブページ「ナラティヴ ナラティブ」の活動のひとつ「酒散歩」で、旧巣鴨プリズン跡地の池袋サンシャインを巡ったときに事前の勉強として読んだ『巣鴨プリズン―教誨師花山信勝と死刑戦犯の記録』 (小林忠弘、中公新書、一九九九)に、この平出が詩を書く青年であったことが書かれており、詳しく読みたいと思ったからである。
 『処刑  あるB級戦犯の生と死』が出た一九九〇年といえば、日本のバブル経済末期であり、わたしは高校二年生で青春を謳歌していた。その一年前の一九八九年に昭和が終わり、わたしの祖母が亡くなり、平成がはじまった。いまも悔恨のように脳裏に焼き付いているのが、病床の祖母に、「今日、美空ひばりが亡くなったよ」と軽く言ったときに見せた祖母の悲しげな表情である。若すぎたわたしは歴史と人生の結びつきの重さというものが何も分かっていない残酷な孫であった。

 三
 それから三十年が経ち、この本を読みながら、時代の変化の恐ろしさを痛感している。この戦後四十五年の節目に出た本は、どちらかと言えば、旧日本帝国主義が犯した愚かな罪への反省を前提に、その犠牲となった、ひとりの明るい未来を奪われた勤勉な青年への鎮魂の思いに満ちている。それは同時代に生き、同じ戦争を青春期に経験した者の視点で書かれているので、ひしひしと伝わってくる。けっして語ることができない記憶と、その記憶から湧き出る怒りと悲しみの感情を極力抑えた、淡々としたジャーナリズムの筆致で書かれているがゆえに、言葉の背後から言いようもない叫びが伝わるのである。
 そこで本をいったん閉じ、ふとスマホでネットニュースを見てみると、同じ戦争を語るジャーナリズムの筆致との差に愕然とする。いま対立している日韓関係をはじめとする、あの戦争に端を発するさまざまな国際政治問題を伝えるそれらは、どうもまるで他人事のような、歴史の教科書に書かれた遠い過去の架空の物語のように聞こえてくる。つまり何か自身の「痛み」のようなもの、語ろうとしてもどうしても言葉にならない「記憶の痛覚」と呼べるものが感じられないのである。
 当然かもしれない。自らが体験しなければ、やはり知識としてしかわからない。戦争だけではない。頻発する自然災害、交通事故、病気、その他、さまざまな悲惨を体験した者でなければけっしてその「記憶の痛覚」は知り得ないし、それゆえのほんとうの沈黙も知り得ない。だから、戦争の非体験者であるわたし自身が、決定的にほんとうの「記憶の痛覚」が欠落している存在であることを認識する。
 しかし戦争体験とは、少なくとも戦後の文芸が背負ってきた十字架であり、それら文学作品の堆積の先に今日の文芸があることも事実である。極端にいえば、すべての優れた現代の文芸作品は、どのような消費財としてのエンタメ作品であろうとも、必ず戦争体験を直接的にも間接的にも引きずっているものである。つまり体験者のみが持つ「記憶の痛覚」が言葉や映像を媒介として「語られる」ことによって、その「痛覚」が直接的な痛みではなくとも、常に「いま」の痛みとして更新され伝えられてきたのである。

 四
 そのことについて、ちょうど今月放映されたNHK「マンゴーの樹の下で~私はこうして地獄を生きた~」というドキュメンタリーが良い例だという発見があった。このドキュメンタリーは、戦争末期のフィリピン、何千人もの民間の日本人が、米軍の激しい攻撃に追われてジャングルを彷徨い、数ヶ月間のうちに次々と飢えと病に倒れていく想像を絶する世界を、数名の生存者の証言をもとに編集されていた。特に女性と子どもに焦点が当てられており、絶命した幼い子を背負いながら歩く母親たちの姿が咽ぶ声で語られ、これを観ながら、当時の日本の為政者たちの愚鈍への怒りと同時に、ただただ暗澹とした気分になった(NHKは、このドキュメンタリーと並行して、岸恵子主演で特集ドラマ「マンゴーの樹の下で~ルソン島、戦火の約束~」を製作しており、NHKがいかにこのフィリピンにおける非人道的な悲惨な現実を伝えることに力を入れているかがわかる)。
 だが、少し気になるところがある。というは、このドキュメンタリーの演出方法である。当時子どもであった生存者による凄惨な語りの合間に、なぜか現代のフィリピンの子どもの俳優たちが笑顔いっぱいでストリートで遊んでいるシーンや、クローズアップで涙を流すカットなどが、戦前の幸福なフィリピンの記憶としてメランコリックな音楽とともに詩的な「映像美」となって挿入されているのである。なるほどこのような演出手法はきわめて効果的であり、過去の戦争と現在の平和の対比、体験者が語る悲惨な現実と夢みられたうつくしい幻想の対比は、観る側にとっては現実(歴史)直視の辛さから所々で解放されるため、番組を最後まで観ることが可能になる。いわゆる映像表現の常套的手法であるカットバックの典型である。
 ただ、わたしが発見したというのは、そのカットバック手法のことではなく、実はわたしたち自身の戦争への眼差しがもはやそうした手法なくしては耐えられないものとなっているのではないか、という点である。だからこそその証左としての演出がなされたのではなかったか。つまりこのドキュメンタリーの制作者は、単に戦争体験者の語りと当時の生々しい写真などを組み合わせるだけの従来の戦争ドキュメントの手法では捉えきれなかった、現在のわたしたち自身の「記憶の痛覚」を映し出すドキュメントを試みたのではないかと考えられるのである。(なお、番組最後に流れた制作者名は、NHKのオンラインページでは出ておらず、録画もしてないので確認できないが、女性のディレクターであったことは覚えている。どなたか知っている方がいたら教えて欲しい。)
 とすると、このドキュメンタリーはきわめて優れた作品であるといえるが、しかし、その詩的な演出効果は、わたしにとってはかなり危険な面も孕んでいるとも思える。それはまさにその「詩的」なるものへの引っ掛かりである。

 五
 同番組でも述べられていたが、第二次大戦勃発以前のフィリピンはアメリカの支配下にあって経済成長し、日本人が多く移住した。彼ら日本人移民の子どもたちが豊かな戦前の時代に、フィリピンの子どもたちとストリートで遊んだ記憶は、幸福だった幼年時代のノスタルジーの記憶として確かにある。しかし、体験者の語り(ナラティヴ)がもたらすはずの悲惨の衝撃が、その「詩的」ノスタルジーと折衷されてしまうとき、何かとても大事なものが、その「詩的」なるものの用水路にこぼれ落ちていることに不安を覚える。
 そう述べると、近代文学、芸術に関わるものはぴんときているかも知れない。つまりその「詩的」なるものとは、「ロマン主義」的なるものだ、と。
 その通りである。かつて戦時下の日本には「日本浪曼派」と呼ばれた保守文芸イデオロギーが存在していた。戦時下において、彼らによる一粒の「詩的」な甘い砂糖菓子のようなノスタルジー幻想をふるまわれることで、人々は一瞬の恍惚を覚え、生きながらえ、そして不条理な「死」の現実を受け入れることができた(この点の詳細は拙論「立原道造論」を参照されたい)。その「日本浪曼派」がもたらした現実逃避的幻惑は、いまから考えれば十九世紀以降の西欧世界からはじまった大戦争時代の悲劇を美化する「ロマン主義」のひと枝に過ぎなかったと考えるが、戦後は「戦争責任論」の対象として左派陣営から徹底的に叩かれた。しかし、当時人々がそのひと匙の甘い角砂糖を貪り求めたのは、ある意味でわたしは正しかったと考える。なぜならいまもわたしたちは残酷な現実を生き延びるために、あらゆる幻想の甘さを味わいながら生きながらえているからである。いまNHKのドキュメンタリーが、「戦争」を語るうえで、どうしてもそうした「詩的」演出をしなければならないのは当然なのである。
 そしてさらに言えば、その点こそが日本の公共放送局による映像ドキュメンタリーの限界であり、現在の連立保守政権を支えている最大のメディア操作と見えてしまうのである。あの戦争は、かくも「詩的」な側面を備えていたのだという幻惑……。(ちなみに岸恵子主演の特集ドラマで、フィリピンのジャングルを生き抜く少女を演じた清原果耶の演技とその演出力は目を見張るものであった。こうした歴史のドラマ化(物語化)が、いかにドキュメンタリーの限界を越え得てしまうのかは、「物語論(ナラトロジー)」として今後このウェブで一考しなければならない)。

 六
 話を戻したい。どうやら老舗鰻屋で祖母についての母の「語り」を聞いた後、わたしを支配していたものの正体は、ここに帰着するようだ。わたしは鰻の美味しさがあってはじめてその戦時下の凄まじい祖母の物語を聞くことができたのである。その日の甘い鰻の美味こそが、わたしにとって「詩」であったのだ。
 ならば、そのような「詩」の危険を最大限に知り、目の前の戦争の現実を捉え、響いてくる危機の声を捉えていたひとりの詩人の詩を引かねばなるまい。これこそがほんとうのドキュメントなのかも知れないと思いながら、ここ数ヶ月一篇一篇を毎日読んでいる。そう、彼は確かにわたしの祖母が生きた時代に生き、詩を書き続けた詩人である。
 今年も八月がそろそろ終わる。明日は晴れのようだから、この詩人の詩集と、まだ読み終わってない処刑の本を持って海水浴にいこうと思う。ゼルマの詩も持っていこうと思う。


厨   津村信夫

煤けた厨の明り窓の下に
玉葱と人参がひつそりと置いてあつた

帰って来た子供が又遊びに出て行つた

蛾がきて電灯の球(たま)を一周りした

湯が漲つていた
竃(かまど)の火が赤かつた

往還の夕方を
篠ノ井の林檎売が荷車を曳いてすぎて行つた

呼んでゐる
誰かが誰かを呼んでゐる

思ひ出のやうに
前掛をして老けた顔の女(ひと)が立つてゐた

中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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