中村剛彦 生存と詩と
 いまから約10年前、35歳の頃、詩の出版社ミッドナイト・プレスのホームページに「甦る詩人たち」という連載を書いていた。明治・大正・昭和を生き、死んでいった敬愛する詩人たちを21世紀の現在に甦らせることで、果たしていまを生きているわたし自身が、彼らと同じように詩人であるのかを自らの手で審判を下そうとした。しかし最終回の立原道造論になって完結せず中断した。書ききれなかった。審判は下されなかった。わたしのなかで、彼らの詩を深く語れば語るほど、自身の内奥を切開するような痛みが伴い、審判ギリギリのところで逃げたのである。なぜなら、彼らはみな死者であって、死者の詩を己のなかで甦らせるという行為そのものが、きわめて不遜でありかつ自殺的なものであることに気づいたからである。
 つまり詩を、あるいは詩人を本気で語るということがいかに困難であるかを改めて知ったのである。
当然である。命がけで書かれた作品が、命がけで読まれずにどうして甦ることができようか。「生ある者のみが死者を語れることの奢りを抹消せよ」、そのような声が取り上げた詩作品の行間から聞こえてきた。ゆえにわたしはなんとか理屈を捏ねて「死にながら生きる」ということが詩人の姿勢でなければならないと結論づけ、その自己矛盾の「詩人の定義」の壁の前で口ごもった。

 10年ほどが経過し、そろそろその矛盾に満ちた「甦る詩人たち」を一冊の本にまとめてみようかと思うようになった。なぜなら最後に迷路の出口を見失ったわたしは、それからさまざまな経験を通して、敬愛する詩人たちすべての詩が、生きてこそ書けたのだという当たり前のことに気づいたからである。彼らは確かに戦争とともに生きざるを得ず「死」に支配されていたが、やはり確実に生きていた。むしろ彼らは死と裏腹にありながら生の一瞬一瞬を詩に凝縮させて生きた。その「生」の痕跡が、彼らの詩作品を読み直すとひしひしと伝わってくる。

おやすみ やさしい顔した娘たち
おやすみ やはらかな黒い髪を編んで
おまへらの枕もとに胡桃色(くるみいろ)にともされた燭台のまはりには
快活な何かが宿つてゐる(世界中はさらさらと粉の雪)

私はいつまでもうたつてゐてあげよう
私はくらい窓の外に さうして窓のうちに
それから 眠りのうちに おまへらの夢のおくに
それから くりかへしくりかへして うたつてゐてあげよう

ともし火のやうに
風のやうに 星のやうに
私の声はひとふしにあちらこちらと……

するとおまへらは 林檎(りんご)の白い花が咲き
ちひさい緑の実を結び それが快い速さで赤く熟れるのを
短い間に 眠りながら 見たりするであらう
 (立原道造「Ⅳ 眠りの誘ひ」『暁と夕の詩』より)
 
 この立原の一見甘い抒情詩がいまも多くの人に読まれるのは、死の想念に支配された詩人が、何者かに必死に「語り」かけているという、生の行為そのものがそのまま書き込まれているからだ。そして何よりひとつひとつ丁寧に選ばれた詩句の配列が、詩人の生きた息遣いと「声」を直接にこちら側に伝えてくれるからだ。
 最近、そのように愛する「詩」を読み返しながら、わたしのなかでひとつの確信めいたものが生まれてきている。それは死者というものが、実は単に生き終えた存在ではなく、生きているときに他者に死を宣告され、そして死を迎えた存在だということである。例えば上の立原道造は結核を医者に宣告され若くして死んだ。「結核で死んだ」ということは何か。それは現代の医療レベルではほとんど死なない病気で死んだということである。このことは、
わたしの「生」がいったい誰の手のうちにあるのかを考えさせ、また生きて詩を書き、やがて死ぬとはどういうことかを考えさせられる。
 現代でも死は他者によってもたらされる。病気、事故、紛争、戦争、テロリズム、過労死も、すべて「他者」に死を宣告されているといえる。生きようとすればするほど、いつ何者に死の宣告が下されるのかわからない。
 そしてさらに思う。その「死」も「生」も、実は言葉の定義に過ぎないと。言葉がなければ「死」も「生」もなく、ただ犬や猫のように瞬間瞬間に息づいているだけである。動物は何者にも死を宣告されない。ただ生命が途切れるだけである。死への不安も生の不安もない。だから「動物」という命名は見事である。「動く物」、「動く存在物」、いわばそこにありつづけ、消える「存在」である。実は人間も言葉を剥ぎ取れば、ただ「死」も「生」も考えることのない「存在」に過ぎないのでないか?

 わたしたちには言葉を捨てることは不可能である。であるからこそ、言葉の定義によって縛られた全ての観念と戦い、あるいは遊び、「死の宣告」への恐怖から解き放たれた、ただそこにありつづける「存在」、いわば「生存」するものとしての詩を見つけたい。もう一つ詩を引く。
 
 最も重いことは、自分を投げあたえること、
 そして人間とは余計な存在であると知ること、
 自分をすっかりあたえること、そして人が煙のように
 無に帰してしまうと考えることである。

 これはナチスのホロコーストの犠牲となり、強制収容所で18歳で死んだ少女ゼルマの最後の詩「悲劇」である(『ゼルマの詩集 強制収容所で死んだユダヤ人少女』ゼルマ・M=アイジンガー、秋山宏訳・解説、岩波ジュニア新書119、1986)。この詩が書かれた紙の端には赤鉛筆で「終わりまで書く時間がなかった……」とある(*)。アンネ・フランクのように早熟であったゼルマの詩の手書き原稿は、奇跡的に友人から友人へと渡り、戦後世間の眼に触れられることになったが、この最後の「最も重いこと」こそがこの論で語りたいことである。ゼルマもアンネも、さらには後世に名を残さずとも、同じように収容所で「生存の詩」を記していた人々の存在そのもの、そして無残にも他者に殺されたという厳然たる現実を、いかに考えるか。
 本論では、10年前の「甦る詩人たち」とは真逆の、けっして甦らない、ただそのときに「生存」した詩人の詩について書き、わたしの生存の姿を見つめられたらと思う。


*以下リンクからゼルマ直筆原稿の写真が見れます。
中村剛彦(なかむらたけひこ)
1973年、横浜生まれ。詩人。元ミッドナイト・プレス副編集長。詩集『壜の中の炎』『生の泉』(ともにミッドナイト・プレス)。共著『半島論 文学とアートによる叛乱の地勢学』(響文社)。老犬と老猫と暮らす。
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