玉城入野 映画の地層 ⑧
映画の感情と言葉─横浜聡子『いとみち』をめぐって
  
 私は、去年(2021)の7月10日、『いとみち』という映画を見に行った。好きな映画作家の作品や旧作ばかりを見ていると、そんな自分に倦んでしまうことがあって、たまには、なんの予備知識もない新作を見たくなる。はじめは、それくらいの気持だった。調べると、この作品の全国公開は6月25日だったようだ。

 正直、このときはまだ、監督の横浜聡子も、主演の駒井蓮も知らなかった。予告編を見て分かっていたのは、青森県でオールロケされ、主人公の女子高校生が津軽三味線を弾き、彼女がメイド喫茶で働くということくらいだった。私は、津軽三味線を聴くのが好きだから、それで見る気になったのだと思う。

 物語は、「相馬いと」を主人公に進む。祖母と父と、青森の板柳という町に暮らす彼女は、同じクラスでも津軽弁の訛りが強く、幼いときに母を亡くした寂しさもあり、人見知りで、友だちができない。そんな「いと」だが、祖母が弾く津軽三味線を、幼い頃に目と耳だけで覚え、コンクールで入賞するほどの腕前を持っている。

 だが、演奏をしているときの、目を閉じて歯を食いしばって、大股開きの自分の姿がいやで、彼女は三味線をやめてしまう。他にやりたいことも見つからず、お金もない「いと」は、求人情報にあったメイド喫茶のアルバイトの高い時給に飛びついて、思わず電話をかけて応募してしまう。

 そして、「いと」は、男性の店長と、二人の女性とともに、その店で働き始める。彼女は、ここから成長していく。家庭と職場で、少しずつ対話をするようになり、友だちも一人できる。しかし、あるトラブルから、メイド喫茶が存続の危機に陥ってしまう。「いと」は、いつしか大切な居場所になっていた店のため、また自分のために、再び三味線を弾くことを決心する。

 ごく簡単に筋書きを記したが、映画は、もっと細やかな描写を積み重ねてゆく。物語自体は複雑でもないし、奇を衒っているわけでもないのだが、横浜聡子の脚本と演出の卓抜さ、駒井蓮の演技の巧みさ、技術スタッフの手堅さによって、最後まで一切、緩むことなく、見る者に新鮮な感動を及ぼす。

 私は、この『いとみち』を一回見て、すっかり気に入ってしまい、今までに五回スクリーンで見ている。こういった、いわば王道の少女成長物語は、上手く作られていれば、爽やかな感動をもたらすし、実際にこの作品の出来映えは見事というしかない。しかし、私が『いとみち』の好きなところは、その筋書きだけではない。

 それは、はじめて見たときのことだった。前半の、特に劇的というわけでもない場面を見ているとき、ふいになんとも言えない感情が、こみ上げてきたのである。台所で「いと」と祖母と父親が三人で夕飯を食べながら、おしゃべりをしている場面。東京出身の父だけが標準語で、「いと」と祖母は津軽弁なので、話の内容はところどころしか分からない。

 最初、この場面に気持が動いたのは、言葉(セリフ)による感情表現や意味伝達にではない。ただ、日常として毎晩なされている三人が夕食をとり、話をするという行為が、一見なんでもないような撮り方でありながら、実に繊細に作られているからなのだ。ここには、「映画の感情」というものが宿っている。

 よく見直してみると、テーブルに置かれた食べものや食器棚、調味料といった美術の丁寧さと、外の暗さと室内の蛍光灯のほどよいコントラスト、そして過不足のないカット割りなど、実に周到な計算によって作られていることが分かる。この場面に限らず、この作品は、作り手の優れた技倆が生命となって一つ一つのショットに吹き込まれているのだ。

 ここで、私は、映画において、言葉が重要ではないと言いたいのではない。たしかに、『いとみち』は、言葉で物語が進められていくのではなく、場面の連続によってラストまで展開していく映画である。だが、この作品を魅力あるものにしている要素の一つは、やはり言葉なのだ。そう、津軽弁のことである。

 青森を舞台として、岩木山や岩木川を主人公の心の拠りどころとして映し出したり、また五能線というローカル線がりんご畑の木の下を通過するショットを入れたりして風土性を強調しているのだから、登場人物が津軽弁をしゃべらなければ、それこそ不自然というものだ。

 そして、青森出身の横浜聡子は、主人公に同じ青森出身の駒井蓮を抜擢し、また「いと」の祖母に初代高橋竹山の最初の弟子である西川洋子を出演させ、世代を超えた濃厚な津軽弁を、前面に打ち出していく。だが、横浜は、彼女自身の言葉でもある津軽弁を、分かりやすく伝えようとはしない。むしろ、分からないなら分からないまま、見る者に直接差し出すのである。

 冒頭、日本史の授業時間、生徒たちが江戸時代の三大飢饉のくだりを本読みする場面。一人目は、ほぼ標準語で読むのだが、一人二人と読んでいくに従って、イントネーションが強くなってくる。そうして最後に「いと」が読み始めると、訛りの強烈さに、ほとんど聞き取ることができない。先生には「相馬の本読みは、クラシック音楽聴いでらみてえだな」とからかわれ、教室に笑いが起きる。

 昼休み、女子三人のおしゃべりを傍で聞いている「いと」は、窓側の席で、イヤホンをつけて一人で昼食をとる女の子の後ろ姿を見つめる。その後、下校時の五能線内でも、「いと」は、ボックス席に座る彼女の後ろ姿を見つける。そして、電車を降りる際、その子に視線を向けると、彼女は笑みを浮かべて、口の動きだけで何かを言う。びっくりした「いと」は何も答えられないまま電車を降りてしまう。

(ネタバレになるが、ここで彼女は声を出さずに「へばね」と言っている。「へばね」は津軽弁で「じゃあ、またね」という意味。)

 次に、「いと」が帰宅する前、家の客間が映し出されるのと同時に、老人だろうか、男性の濃厚な津軽弁が聞こえてくる。民俗学者の父が、大学生たちに津軽弁のカセットテープを聴かせているのだ。そこへ、祖母が「まま、け(ごはん食べなさい)」と食事を持ってくる。その後、「いと」が自転車で帰宅するまでの間、祖母が津軽三味線を学生たちに披露する。

 それから、「いと」が亡き母を恋い続ける寂しさを描写し、夕暮れどきの岩木山を背景に、彼女が岩木川のほとりを歩くオープニングタイトルの美しい場面へと緩やかに移っていくのだが、ここまで見ただけでも、横浜聡子が、いかに津軽弁を前面に押し出そうとしているかが分かる。

 一方で、「いと」は、メイド喫茶で働き始めたことによって、新しい言葉を獲得しようとする。しかし、それは、「お帰りなさいませ、ご主人様」「もえもえきゅーん、おいしくなーれ」といった、およそ日常語ではない、特殊な言語なのだ。強い訛りは簡単に消えないものの、新しい言葉を繰り返し発することによって、「いと」の感情は動き始める。

 これまでは、父親とその生徒たちの中に入ろうとしなかった「いと」だが、アルバイトを始めてからは、祖母の津軽弁をみずから訳してあげるようになる。それから、帰りの電車で、再び同級生に声を出さずに「へばね」と言われたときの「いと」は、今度ははっきりと「へばね!」と大きな声で応えてから下車し、走り去る電車に手を振りながら、もう一度「へばね」と呟くようになるのだ。

 さらに印象深いのは、社会科見学の帰り道に、例の同級生と友だちになるシーンである。青森の空襲の話を体験者から聞いて沈痛な気分で駅に向かっているとき、少し前を歩く同級生を見つけた「いと」は、自分から彼女に駆け寄って話しかける。そして、同級生がいつも聞いている弘前出身のロックバンド「人間椅子」の歌を、イヤホンを片方ずつ分け合って一緒に聴く。

 こうした「いと」の変化と成長は、物語の進行に沿った、自然な流れなのだろう。それはそうだとしても、彼女は、最後まで津軽弁を捨てようとはしない。クライマックス、メイド喫茶での津軽三味線を弾く場面でも、彼女の訛りはそのままなのである。

 横浜聡子は、なぜこれほどまで津軽弁にこだわったのか。青森出身だから、青森を舞台とした作品だから、風土性を強調したかったから、だろうか。もちろん、それらも大きな動機ではあるだろう。これは、私の推測に過ぎないのだが、横浜は、そうすることで、自分の言葉としての津軽弁を流通(消費・回収)されるのを、徹底して拒んでいるのである。

 本来なら津軽弁の理解を補うために入れるべき標準語の字幕を、あえて入れなかったのも、そのためかもしれない(*1)。また、言葉による感情の表現は、分かりやすい喜怒哀楽だけではない。情緒と言ってもいいが、複雑で繊細な感情の動きを、この作品では、方言独特の言い回しや微妙なイントネーションの変化、あるいは発声そのものによって表そうとしているのだ。私は、そう見ている。実際、その意図は成功している。

 もし、『いとみち』に標準語の字幕を入れてしまっていたら、「いと」や登場人物の津軽弁は標準語に回収され、消えてなくなってしまったことだろう(*2)。消費されるのは、言葉だけではない。方言にしか現れえない感情(それはまたこの映画の感情でもある)をも、ステレオタイプの言葉と感情になって、流通してしまうだろう。

 例えば「絆」。あるときから、これほど安っぽく流通している言葉もないだろう。メイド喫茶のオーナーの成田に、「いとちゃん、絆。わがる?絆」と問われた「いと」が、「NHKで、よぐ聞ぎます」と返事をする場面がある。成田は、話を下ネタに持っていくのだが、それだけ「絆」という語が、いかに無惨に消尽されたのかが分かる。

 また、ビルの階段の踊り場で、同僚で漫画家志望の智美と会話する場面。ある事件がきっかけで客の人気が出てきた「いと」に智美は嫉妬する。「いと」は、智美に「絵もじょんず(上手)だし、標準語もじょんずです」と、その場を取り繕おうとするのだが、智美は「標準語ほど簡単な言葉ないでしょ。テレビずっと見てれば馬鹿でも喋れるわ」と言い返す。

 この後、「いと」は、「わあ(わたし)、馬鹿以下だもんで」と自嘲気味に呟く。それに対し、智美は「そうやって自分を蔑むのやめたら。ラクしたいだけじゃん」とたしなめるものの、「あれ。いとちゃんといると私の性格の悪さが全開だ」と、うなだれてしまう。

 ここで際だつのは、「いと」の「じょっぱり」(意地っ張り・負けず嫌い)な姿である。自分を卑下しているように見せてはいるが、頑強なまでに自分を貫いている。それはまた、横浜聡子の「じょっぱり」な姿勢なのであり、『いとみち』そのものが、「じょっぱり」な映画であることを表している。

 『いとみち』のパンフレットのインタビューに、横浜聡子は、次のように語っている。

「私は“普通の人々”を描きたい。市井の人々を描きたいということが、ずっと自分の映画作りのいちばんの原動力なので、『いとみち』はそこからそれてないと思います。」

 自身の言葉としての津軽弁を回収されたくないということは、市井の人たちの感情を安易に消費されないための抵抗でもあり、ひいては『いとみち』を単なる感動的な物語として流通されたくないということに繋がるのかもしれない。これは、大いなる矛盾である。商業映画である以上、消費されるのは避けがたいというよりも、それが存在理由の一つであり、流通することによって、多くの人が見て、評価を得るのだから。

 しかし、この矛盾は、尊く、美しい。津軽弁の分からなさを見る者に投げ出し、物語やメッセージではなく、観念として流布する感情でもなく、映画そのものの感情を差し出すことによって、『いとみち』独自の強度が生まれている。ほんの個人的な見解に過ぎないが、私は、そう思う。

 さて、ここまで書いてきたものの、『いとみち』の良いところはまだまだあって、とてもその魅力を伝えきれなかった。これからご覧になる方は、拙文は忘れて、映画そのものを楽しんでいただけたらと願うばかりである。

*1 2022年1月に発売されたDVDとBlu-rayディスクには、「標準語字幕付」の有無を選択できる仕様になっている。
*2 徐昊辰「『いとみち』に見たローカルの中のグローバル 作品に欠かせない“音”としての方言」の中で、横浜聡子は、次のように語っている。(映画.com(https://eiga.com/news/20220116/7/
「津軽弁は、意味というよりも音。音楽のような受け取り方で楽しんでほしいと思います。字幕を付けてしまうと、人は意味を知りたくて“字”を見てしまいます。通常の映画であれば、絵や音声を体験すれば、作品を楽しめます。でも、文字に集中してしまえば、何かの底が割れてしまう。だから(『いとみち』では)字幕を付けたくないです」


主な出演者;相馬いと(駒井蓮)、相馬耕一(豊川悦司)、相馬ハツヱ(西川洋子)、福士智美(横田真悠)、葛西幸子(黒川芽以)、工藤優一郎(中島歩)、伊丸岡早苗(ジョナゴールド)、成田(古坂大魔王)他。

主なスタッフ:監督・脚本:横浜聡子、撮影:柳島克己、照明:根本伸一、美術:布部雅人、塚本周作、録音:岩丸恒、編集:普嶋信一。

『いとみち』公式サイト http://itomichi.com/
玉城入野(たまきいりの)
1968年東京都日野市生まれ。著書『フィクションの表土をさらって』(洪水企画)。詩歌・文芸出版社「いりの舎」代表。
 
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