玉城入野 映画の地層 ⑦
非同期とでんぐり返し(下)


  前回、神代辰巳の映画において、しばしば口の動きとアフレコの「声」が合っていない、と言うより、あえてシンクロさせていない、ということを指摘した。そして、それは、映像と「声」(音)を同期することによる感動(権力性)への嫌悪があるからではないか、と考えた。

 神代は、このこだわりを『黒薔薇昇天』(1975年)で徹底して追求し、顕在化している。この作品は「にっかつロマンポルノ」の一本なのだが、ブルーフィルムの制作者たちを登場人物に、濡れ場を撮る現場を画面に映し出して見せるという、メタフィクションの要素を含んだ異色作である。

 海辺のホテルの一室、ブルーフィルムの撮影が行われている。その本番の真っ最中、女優のメイ子(芹明日香)が、男優のピン(谷本一)の子を妊娠したから、休業したいと出し抜けに言い出し、撮影を中断させてしまう。監督の十三(岸田森)は、怒りをあらわに「ここでやめたら十万円がパーになってしまう」と必死に説得するのだが、彼女は応じようとしない。

 十三は、仕方がなく、メイ子とピンに手伝わせて、副業に力を入れる。マザーテープの録音と制作である。マザーテープというのは、アフレコ(声)の土台になるもので、これを作って売るのだ。しかし、彼らが録音するのは、犬の呼吸音や、猫がミルクを舐める音、セイウチの鳴き声や、相撲の勝利者インタビューにおける力士の荒い息づかいだったりする。

 さらに、十三は、動物の声だけでなく、歯科の治療台の下にテープレコーダーを仕込み、治療に悶え苦しむ少女の声を盗み録りして、高値が付く声の収集もしていた。ある日、待合室でよく顔を合わせて気になっていた女・幾代(谷ナオミ)と、歯医者(山谷初男)の浮気の会話を録音することになる。十三はこのテープをネタに幾代をゆすり、まんまと彼女をブルーフィルムに出演させてしまうのだった。

 他にも、マザーテープの編集中のピンとメイ子が、テープの声に欲情し、その場でセックスを始めてしまったりする。この場面で聞こえてくるのは、二人の感じる声ではなく、テープから流れてくる声なのであり、しかもそれは、アフレコによるものなのだ。

 つまり、神代は、この作品で、テープによる「声」を突出させ、アフレコという手法を可視化する。そして、映像と「声」(音)がそもそも別物であり、両者を同期することは、現実世界の作為的な模倣であり、真実の偽造に他ならないということを明確に示しているのである。

 作品の後半、幾代と十三の長い絡みの場面があり、彼女とピンが交わる撮影シーンがあるのだが、動物の鳴き声を録音する前半の場面が脳裡にあって、つい笑ってしまいそうになる。そんなはずはないと思いつつ、谷ナオミの声が、動物の鳴き声を加工したテープなのではないかと、気になってしかたがない。

 こうなると、これは、もはやポルノではなく、コメディである。第一作『かぶりつき人生』(1968年)の記録的な「不入り」で新作を撮らせてもらえなくなり、『一条さゆり 濡れた欲情』(1972年)でようやく花開き、「ロマンポルノの帝王」と呼ばれた神代辰巳が、自らポルノ映画をコメディとしてひっくり返してしまっている。実際、この作品は、ほとんど喜劇映画である。

 評論家や関係者らによる「神代論」を読んでいると、よく「神代辰巳のアナキズム」といった言葉を目にする。アナキズムという概念は、さまざまな意味を包括しており、一言で定義づけできないし、自信を持って説明することもできないのだが、ここでは、ごく表面的に「社会的権力の否定」くらいにしておこう。

 評論家らが、なぜ神代をアナキストと称するのか、今は検討しない。しかし、性的表現に不寛容なこの国の警察権力に抗って、ポルノ映画を撮り続けたこと(50年ほど前の状況として)、『宵待草』のように、アナキストを主人公にした作品があること、ここで考察しているように、映像と「声」を非同期にして、感動という権力性を批判したこと等、確かに、彼の活動には、アナキズムの要素が強く感じられるかもしれない。

 だが、私は、神代におけるアナキズムの本質は、あらゆる権力性をひっくり返してしまうところにある、と考えている。こじつけかもしれないが、『宵待草』で、三人がでんぐり返しをするのは、その身体的表現なのである。このラスト、脚本では違う場面が書かれており、撮影当時、現場のアクシデントにより、神代の判断で急遽、三人にでんぐり返しをさせたという。

 このエピソードを信じないわけではないのだが、もしかしたら、神代は、脚本で用意されていたと言われる悲劇的な結末を嫌ったのではないだろうか。アナキストたちを悲劇の英雄として映画を終わらせ、物語として感動させると、そこに、なにがしかの権力性がまとわりつく。それを回避するために、でんぐり返しで作品を脱力させ、弛緩させた。私はこう推察するが、どうだろうか。

 でんぐり返しだけではない。国家からもアナキスト集団からも逃走する三人は、軽々と自分たちの存在をひっくり返す。資金を調達するため、憲兵に変装した三人は、銀行を襲撃した際、あろうことか「畏れ多くも、天皇陛下のためである」とうそぶいて金を強奪し、銀行員や客に万歳三唱をやらせている間に、サイドカー付きのバイク(これも憲兵から強奪したもの)に乗って、鼻歌を唄いながら、悠々と逃げてしまう。

 その後、彼らは平田(夏八木勲)の故郷の寒村に隠れようとするが、追っ手はすぐ近くまで迫っていた。夜の山上から、松明のあかりが列をなして上ってくるのを見た令嬢(高橋洋子)が、思わず「きれい!」と声を挙げる。すかさず国彦(高岡健二)が、「ばか!俺たちが追われているんだぞ!」と釘をさすのだが、彼女は、追われる立場から、炎の連なりの美しさを眺める者へと、自分の存在を変転させている。

 映像と「声」(音・音楽)の非同期による感動の拒否、ポルノからコメディへの転換による既成概念の粉砕、でんぐり返しによる悲劇性の脱臼など、神代のアナキズムについて、私が捉えられる範囲で、ここまで考えてきた。しかし、こういった方法で、どこまで「社会的権力の否定」を為し得ることができたのか。そして、彼の批判の矛先は、本当はどこに向けられていたのか。

 もちろん、神代の経歴を辿れば、彼の反権力的な姿勢を明らかにすることは、さして難しくない。『恋の狩人 ラブハンター』(監督:山口清一郎・1972年)というロマンポルノのシナリオライターとして書類送検になり、警視庁公安で取り調べを受けている(*1)。『女地獄 森は濡れた』(1973年)という作品は、警察からの警告を受け、四、五日で興行を打ち切られている(*2)。

 とはいえ、私は、自分が見た作品の中で、「神代辰巳のアナキズム」に迫ってみたい。最後に、テレビドラマになるが、『傷だらけの天使』で彼が監督した「港町に男涙のブルースを」(脚本:大野靖子・1974年)という小さな作品を見ていくことにする。

 オサム(萩原健一)は、雇われている探偵事務所から、東南アジアから輸入される冷凍エビの抜け荷の調査依頼を受け、ある港町に潜入する。ひょんなことから、寂れたエロ写真館に暮らす撮影技師のカジ(池部良)と、彼の情婦でヌードモデルのアケミ(荒砂ゆき)と知り合い、奇妙な交流が始まる。余談だが、ここでの池部良は、東映の『昭和残俠伝』そのままの着流し姿で登場する。

 調査を進めるうち、冷凍エビの案件には、麻薬の密輸が絡むことを、カジが既に知っていたことが分かってくる。オサムはその悪事に切り込もうと息巻くが、相手が何者か分からず、その上、町にはヤクザなのか殺し屋なのか分からない謎の男たちが目を光らせていて、なかなか勇気が出ない。

 弱気なオサムの姿を見たカジは、押し入れに隠してあった手榴弾を取り出し、「おめえさんにやる気があるんだったら、これを使ってもいいんだぜ」とハッパをかける。しかし、それを見てさらに怖じ気づいたオサムに、「今の若えもんは、からっきし意気地がねえんだからなぁ」とカジは呆れる。

 このあたりから、カジが戦争経験者だということが明らかになってくる。いや、それより前から、この作品には、戦争の影が漂っているのである。カジが密輸について語る際、バックに三味線の音色が流れるのだが、よく聞くと、それは「戦友」という軍歌なのだ。さらに、手榴弾の場面の後で、海辺を歩くアケミが唄っているのは、「同期の桜」なのである。

 一方、オサムとカジが初めて出会うスナックの場面では、都はるみの「好きになった人」が流れ、オサムが砂浜で棒高跳びの真似事をする場面では、ショーケンが唄う一節太郎の「浪曲子守歌」を流している。つまり、演歌や浪曲に織り交ぜるようにして軍歌を流すことで、戦後日本に生き続ける戦争の残滓を、音で示しているのだ。

 では、カジはなぜ、麻薬の密輸について調べていたのか。それは、彼の戦争体験にあった。ニューギニアのその先の島で守備隊に就いていた際、アメリカ軍が迫ってきたため、待避命令が出た。しかし、まわりは海に囲まれていて逃げようがない。ただ一艘の小さなモーターボートがあるだけだった。そこへ、指揮官である柳田中尉が一人、ボートを盗んで逃げてしまったのだ。

 その十時間後、アメリカの艦砲射撃が始まった。それは言語に絶する凄まじさだった。攻撃は三十分で終わったが、部隊の二十人の兵士は細切れの肉みたいにバラバラになり、残ったのはカメラマンただ一人だった。それがカジである。(このエピソードには、池部良の戦争体験が反映しているかもしれない。*3)

 何年か前から、冷凍エビの輸入がらみで、麻薬の密売で荒稼ぎをしている柳田が、この町で紳士ヅラをして偉そうにしているのを知ったカジは、どこまで腐ったヤツなのだと、はらわたが煮えくりかえるほど怒っていたのである。

 遂に決着をつけるときが来た。オサムが漕ぐ小舟に乗ったカジは、モーターボートで接近してくる柳田に、「柳田中尉!三十年前の玉砕命令は、あんたに関する限り、今も続いてますぜ!」と言い放つ。それに逆上した柳田は、ライフルでカジを撃つ。そして、必死にモーターボートに乗り移ったカジは、「死んだ二十人の恨みだ!」と短い軍刀で柳田を刺し殺す。

 オサムに抱かれたカジは、「おめえさん、今度会ったら、でけえ仕事やろうな。おめえさん、戦友だもんな」と言って絶命する。
 この瞬間、驚くべきことに、「君が代」が流れる。しかし、その前から、この場面の背後では、三味線による「君が代」が既に流れていたのだ。この不意打ちに、私は絶句した。

 ところが、である。「君が代」が流れたまま、切り替わった場面には、「ヌードスタジオ」という文字と裸の女性が描かれた看板が唐突に映り、カメラが下に下がっていくと、その前で首を吊ったアケミが笑みを浮かべて死んでいる姿が映し出されるのである。カメラは、ゆっくりと彼女の身体(服は着ている)を撮し、宙に浮いた足元まで見せ、フルショットで全身を画面におさめる。

 「君が代」が終わるのに合わせて、力なく揺れる日の丸が画面に映る。東京に帰るオサムと相棒のアキラ(水谷豊)が船のデッキにいる。アキラは新聞を広げて、「麻薬密輸に関連か。旧陸軍の二人死亡」と記事を読み上げるが、オサムは聞こうとしない。「カッコいいじゃない。三十年前の玉砕は生きていた」と続けるアキラに、「うるせえな、少し黙ってろよ」とオサムは苛立つばかりだ。

 私は、この場面のオサムは、神代辰巳自身なのではないか、と思わずにいられない。彼はカジが死んだことを悲しんでいるのではない。戦後三十年(当時)経っても、「戦争という物語」「玉砕という美学」が、いまだに生き残っていることに、鼻白んでいるのではないか、と考えるのである。

 そして、アケミは、なぜ首を吊ったのか。まさか、カジの後追い心中などではあるまい。それに、戦争による死を「男」だけの美学にしていることに対して、「女」が死をもって批判した、ということでもあるまい。

 結論は出ないが、おそらく、神代は、イズムやイデオロギーといった観念を、肉体そのものをもって批判したのだ。戦争でバラバラの細切れになって死ぬのは、肉体である。例えば元首への忠誠心や愛国心は、形を変えていつでも復活し、いつまでも生き残り、社会に偏在する。だから、宙づりのアケミの肉体を画面に収めたのである(*4)。

 『宵待草』の三人がでんぐり返しをするのは、彼らの肉体そのものである。『黒薔薇昇天』で十三が惚れるのは、幾代の肉体そのものである。肉体にこそ、ロマンポルノで映画作家となった神代辰巳の、真のアナキズムがある。今の私は、そう考えている。


*1…神代辰巳「異端」(『映画監督 神代辰巳』国書刊行会、2019年。初出「群像」1973年1月号)参照。

*2…岡田裕「おだやかな笑顔と優しい声で『怖い映画』を」(同上書。初出「映画芸術」1995年夏号〈追悼 神代辰巳〉)参照。

*3…池部良『オレとボク 戦地にて』(中公文庫、1995年)参照。

*4…「港町に男涙のブルースを」については、相澤虎之助「神代辰巳が描く“何ものでもない”者達―『傷だらけの天使』」(『映画監督 神代辰巳』所収)から多くの示唆を得た。

玉城入野(たまきいりの)
1968年東京都日野市生まれ。著書『フィクションの表土をさらって』(洪水企画)。詩歌・文芸出版社「いりの舎」代表。
 
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