玉城入野 映画の地層 ④
斎藤真一の「瞽女」と映画


 前回、『必殺からくり人』の第2話「津軽じょんがらに涙をどうぞ」(監督:蔵原惟繕、1976年)について論じた。私はそこで、劇中に挿入される「瞽女(ごぜ)」の絵の作者である斎藤真一(1922年1994年)という画家のことを、少し紹介した。

 この作品を見て、私は、初めて「瞽女」という盲目の女性の旅芸人を知り、そして、1960年代から1970年代にかけて、ライフワークの一つとして「瞽女」を描き続けた斎藤真一を知った。

 このドラマがいかに優れているか、ということは既に書いた通りだ。それには、脚本、演出、映像、編集、演技等々、幾つもの要素が有効に機能し、作品として結実してこそだと思うのだが、その大きな要因の一つに、折々の場面に挿入された斎藤真一の絵があったことは、まちがいないだろう。

 瞽女の、悲しくも愛らしい表情、冬の雪原を旅する小さな姿や、日本海に面した農村や漁村を門付けする景色を、鮮烈で深い赤色と重たく暗い青色で描いた絵は、それぞれは一瞬しか映らないのに、見る者に強烈な印象を残す。
 私は、このドラマを何度も見直しているうちに、いつしか斎藤真一の「瞽女」の絵を追いかけるようになっていた。すると、そこから、さまざまなことが見えてきた。

 まず分かったのは、このドラマには、先行する映画があった、ということだ。『津軽じょんがら節』(監督:斎藤耕一、1973年)が、それである。この作品は、瞽女になることを運命づけられた盲目の娘が登場し、津軽三味線の音色とともに、斎藤真一の絵をインサートする手法がとられている。
 しかも、驚くことに、『からくり人』の瞽女おゆうも、映画『津軽じょんがら節』の娘ユキも、同じ中川三穂子という女優が演じているのである。

 映画は1973年公開、ドラマは1976年放送だから、おそらく両者には影響関係がある。ドラマのほうが映画に「オマージュを捧げた」とも言えるし、「手法を引用した」とも言えるだろう。悪く言えば、「盗用した」のかもしれない(贔屓目になるが、「瞽女」の存在を物語の主軸に据え、斎藤真一の絵と津軽三味線によって、劇的な効果を出して成功しているのは、映画よりもドラマのほうだと、私は思う。映画のほうは、絵も音楽も、そして「瞽女」の存在も、イメージにとどまってしまっていて、もう一つ機能していないような印象を受ける)。

 それはともかく、私は、この両作を見て、想像を巡らせているうちに、映画の「ユキ」とドラマの「おゆう」が同じ娘なのではいかと思われてしかたがなくなってくるのである。それが、同じ女優が演じていることからくる短絡的な想像に過ぎないことは分かっている。
 しかし、愛する男を失い、自分の力で生きていかなければならなくなり、荒波のたつ海を前に、悲しみに暮れながら瞽女の修行をする「ユキ」が、江戸時代に遡って、母親を殺され、孤立無援の瞽女になり、恨みを晴らすために、越後から何年もかけて江戸の町に辿り着いた「おゆう」と重なるのである。それだけ、中川三穂子の演技には、鬼気迫るものがある。

 さて、映画『津軽じょんがら節』では、「瞽女」の絵はポスター(現在ではDVDのパッケージ)にも使用され、斎藤真一の名前は考証・挿入画としてクレジットされている。
 一方、『からくり人』では、冒頭、(時代劇なのだが)現代の帝国劇場が映る。そして、楽屋の暖簾をくぐったカメラは、当時、帝劇で実際に上演されていた『津軽三味線ながれぶし』(作:藤本義一)のポスターをとらえる。そこには、主演の山田五十鈴(ドラマの劇中では「からくり人」の元締役)が三味線を抱えている姿があり、よく見ると、その背後に、ここでも斎藤真一の「瞽女」の絵が印刷されているのである(この後、山田五十鈴が、インタビュアーの男性の求められるままに、「瞽女」について解説する場面になる)。

 何が言いたいかというと、これらの映画やドラマ、芝居は、それぞれ「瞽女」をモチーフとしながら、実在した「瞽女」ではなく、斎藤真一の「瞽女」にインスパイアされたものなのではないか、ということだ(芝居は未見なので想像するだけである)。
 それは、やはり「瞽女」を主人公とした映画『はなれ瞽女おりん』(監督:篠田正浩、1977年)のDVDの解説で、木全公彦が次のように書いていることから、裏付けられる。

「瞽女が注目を浴びることになったのは、斎藤真一画伯が瞽女の心象を描いた「瞽女」シリーズによるところが大きい。(中略)1970年、銀座の文藝春秋画廊で開催された「斎藤真一 越後瞽女日記展」は、ディスカバー・ジャパンのブームと相俟って大きな反響を呼び、連日各界の著名人が来場した。その中のひとり、大島渚はテレビ・ドキュメンタリー『ごぜ・盲目の女旅芸人』(72)を監督する。(中略)斎藤画伯の絵をポスターに使った斎藤耕一監督によるATG作品『津軽じょんがら節』(73)は、1973年度のキネマ旬報ベストテンの第一位に輝いた。」

 『はなれ瞽女おりん』は、1975年に刊行された水上勉の同名の小説を原作としているので、斎藤真一に直接触発されたものではないかもしれない。だが、撮影の宮川一夫による映像には、斎藤の絵の構図に近い場面が、確かにある。水上の原作については、未読なので何も言えないが、1975年という刊行年から推して、その影響は充分にあり得ると思う。

 一枚の絵、あるいは一人の画家を題材にして、小説が書かれたり、映画が作られたりする、ということは、世界的に見て、そう珍しいことではないだろう。しかし、一人の画家がモチーフとした旅芸人が、実在のそれではなく、絵の中の存在が、創造=想像を喚起し、映画になり、芝居になるということは、なかなかないことではないだろうか(私の見識不足かもしれないが)。

 興味深いのは、大島渚が、斎藤の絵に感化されてドキュメンタリーを撮っていることである。それを見ていないのが残念だが、絵の中の「瞽女」から、実在の「瞽女」へと飛び出していき、じかにカメラを向けたことは、仮にそこにフィクショナルな要素を含んでいるにせよ、とてもスリリングな事件だったのではないかと、強い興味を覚える。

 では、なぜ斎藤真一の「瞽女」は、当時これほどの影響を及ぼしたのだろう。50年近く前のことになってしまうと、その時代性というものは、もはや靄に包まれていて、なかなか見えてこない。
 先に挙げた木全公彦の文章に、「ディスカバー・ジャパンのブームと相俟って大きな反響を呼び」とある。また、『津軽じょんがら節』のDVDの解説(樋口尚文)にも、「ディスカバー・ジャパン」という言葉が出てくる。

「折しも国内旅行需要を喚起するために国鉄が70年から“ディスカバー・ジャパン”なるキャンペーンを打ち出して、なんでもない田舎をカッコよく魅力的に見せるグラフィックや映像が流行っていたのだが、斎藤耕一の作風はまさにそんな商業的なテイストにもリンクするもので、こうしたさまざまなタイミングが重なって1972年の斎藤を「流行監督」にしたのだった。」

 樋口の文章は、同じ「斎藤」でも、映画を監督した“耕一”のことを批評したものだが、ここに、70年代前半の、ある雰囲気を感じ取ることができる。高度経済成長がピークに達し、政治の季節が吹き去った時代、表面上「一億総中流」の意識を抱いた多くの日本人が、当時の繁栄を謳歌し、経済的な豊かさを享受する反動(裏返し)として、〈失われゆく日本の原風景〉なるもの(はたしてそんなものがあるか疑わしいが)を発見(ディスカバー)しようという機運(流行)があったのだろう。

 ところで、『津軽じょんがら節』と『はなれ瞽女おりん』という二本の映画は、当時、高い評価を得ている。『津軽~』は、その年のキネマ旬報ベストテンの一位になり(ちなみに同年公開、深作欣二の『仁義なき戦い』は二位)、『はなれ~』は、第1回アカデミー賞の優秀作品賞、監督賞、主演女優賞(岩下志麻)他、毎日映画コンクールの日本映画賞などを受賞している。

 両作品は、こうして高く評価される一方で、厳しい批判を受けてもいる。樋口尚文は同じ解説で、『津軽~』は、「物語や人物の扱いははなはだ雰囲気に流れるばかりで」「凄まじい波と風の実景も、斎藤真一の瞽女の画も、泥臭い情念は濾過されてクールで見やすいメルヘンになっていた」と冷ややかに書く。
 『はなれ~』については、山根貞男が当時の時評で「この映画の欺瞞は、地を這うようにして生きる男女を描くつもりで、すべてをきれいごとに描いている点にある。底辺にうごめいて生きること自体、なにやらきれいごとのようにとらえられているのだ。その欺瞞ゆえに、たとえ見かけの画面がきれいでも、真底この映画は醜い」と手厳しく批判している。

 他にも、『津軽~』における日本の地方(田舎)に対する認識は、いま見ると甚だ表層的で類型の域を出ないし、『はなれ~』の人物設計も演出もどこか形式的なようで、迫ってくるものを感じない。しかし、私は、これらの映画を批判したいのではない。どちらも、斎藤真一の「瞽女」があればこそ生まれた作品なのであり、そういう意味で、見ておいたほうがよいと思うのである。

 『津軽じょんがら節』に、こんな場面がある。舞台は津軽である。葦が群生する小さな湾で、ひとり釣りをしているユキに、東京からやってきた青年・徹男(織田あきら)が近づき、話しかける。ユキが盲目だと知った徹男は、「どこから来たの? 東京?」という彼女の問いに、「2万トンもある大型船に乗ってきたんだぜ」と大嘘をつく。さらに、「ソ連に向かって出航するんだ」「ナホトカだぜ」と言うと、ユキは、初めて聞いた言葉のように「ソ連」「ナホトカ」と自ら声に出す。すると、彼女の耳には遠く汽笛の音が聞こえてくるのである(効果音が挿入される)。
 そして、次に同じ場所で再会した際、ユキは「なぁ、まだ嘘ついてみて。このめえみてえに、でっけえ船とまってるどがさ」と言って徹男を笑わせ、二人の距離は一気に縮まる。

 『からくり人』論において、私は「おゆう」を「語り部」として捉えた。だが、『津軽~』のこの場面での「ユキ」は、むしろ「聞き手」であり、「聞く者」として在るのである。
     
 実際に瞽女の旅に同行し、取材を重ねて綿密な記録を残した斎藤真一は、瞽女がいつの時代からか農村の地主や庄屋を常宿とし、閉ざされた雪国のマスコミ的役割を献身的に果たしていたと把握する。そこから、雪国の農家は、何代も続いて、一見歴史的なゆかしさが見られるが、それは第三者的な観察で、農家の人たちはある因習の中に淀んで生活していたのだと結ぶのである。
 斎藤は、それを証明するように、
「おらあ、若けえときからどこへも出たことがねえ。ごぜさん来やっしゃればなんでも話したもんだ。姑のことだって、じいさんのことだって……」
「おらあ、ごぜさ(瞽女の方言)と一緒にねて、家のつらい話でもしたもんさ。ごぜさ親身になって聞いてくらっしゃるもの……」
等、村の老婆たちの言葉を挙げ、次のように論じる。

「私は、このささいな言葉が実は雪国のすべての農家の主婦の気持を代弁しているように思えてならなかった。(中略)農村の主婦の座はことのほか重かったにちがいない。長いあいだ疎外され、閉じ込められてしまっていたひとつの悲劇がそこに覗いているように思えた。すなわち家族の人には誰にも話せなかった悩みを瞽女さんに打ち明けていたのである。」(『越後瞽女日記』)

 彼の考察はさらに続くのだが、つまり「瞽女」は、唄や三味線を聞かせるだけの旅芸人ではなく、農家の人にとって、大切な「聞き手」であり、それだけ、人々の心の奧深くに入っていった存在だったのだ。

 斎藤真一の「瞽女」が、映画監督や作家、戯曲家等々に大きな影響を及ぼし、流行に終わらず、いまなお色褪せることがないのは、その絵が、単なる「滅びゆく旅芸人の姿」を写し取ったからではなく、ましてや「古き良き日本の伝統芸能」などというものを描き遺したからでもない。もしかしたらそれは、斎藤の絵が、瞽女の「かなしみ」と、彼女たちが聞いてきた人々の「かなしみ」とを、幾層にも重ねて描き込んでいるからなのではないだろうか。

〈使用参考資料〉
木全公彦・DVD『はなれ瞽女おりん』作品解説(東宝)
樋口尚文・DVD『津軽じょんがら節』作品解説(キングレコード)
山根貞男『日本映画時評集成1976―1989』(国書刊行会)
斎藤真一『越後瞽女日記』(河出書房新社)
斎藤真一『瞽女物語』(講談社文庫)

*斎藤真一の作品は、インターネットで検索すれば、少しは見ることができる。また、私の知る範囲では、次の美術館が所蔵している(50音順)。

・岡山県立美術館
https://okayama-kenbi.info/

・刈谷市美術館

・国立美術館(独立行政法人)

・知足美術館(公益財団法人)

・出羽桜美術館(公益財団法人)

玉城入野(たまきいりの)
1968年東京都日野市生まれ。小説「耳鳴り低気圧」で第86回文學界新人賞最終候補。著書『フィクションの表土をさらって』(洪水企画)。詩歌・文芸出版社「いりの舎」代表。
 
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