玉城入野 映画の地層 ② 
「必殺シリーズ」の精神(上)
 
 かつて、「必殺シリーズ」というテレビの時代劇ドラマがあった。いまでも年に1回くらいはスペシャル番組として作られているようだが、シリーズとしては、1972年の『必殺仕掛人』から1987年の『必殺剣劇人』まで全29作、15年間にわたって毎週金曜日(最初は土曜日)の夜10時から放映されていた1時間の連続時代劇ドラマのことをいう。制作は、朝日放送と松竹京都映画撮影所(共に当時の社名)である。

 主人公たちは、仕置人、仕業人、仕事人などと、作品によって名前こそ変わるが、「金を貰って晴らせぬ恨みをはらし、許せぬ人でなしを消す闇の処刑人である」ということでは、シリーズを通して一貫している。この「必殺」が、いわゆる「殺し屋」を主人公としながらも、娯楽番組として視聴者に受け入れられたのは、まず時代劇という現実とは乖離したフィクションであったということと、次々と繰り出される奇抜な殺し技で見る者を楽しませることに成功したためであろう。

 鍼灸の針で首筋を刺したり、接骨の指技で骨を外したり、強い握力で心臓をわしづかみにしたり、三味線の糸で首を締めたりと、殺し技を挙げていけばきりがない。しかも、骨を外したり、心臓を握りつぶしたりするシーンでは、レントゲンの映像を挿入してユーモアを持たせ、骨を折る音や簪(かんざし)を指に挟んで回すときの音などを効果的に使って荒唐無稽さを増幅させている。

 それから、実験的で斬新なカメラワークと、明暗を強調した照明が、映画に引けを取らない独自の映像を生み出し、見る者を魅了した。また、平尾昌晃による、マカロニウエスタン調の曲をはじめとした音楽も、視聴者の気分を大いに盛り上げたはずだ。さらに、緒形拳、山崎努、沖雅也、藤田まこと、草笛光子、中村敦夫等々といった俳優陣が個性的なキャラクターを造型したことも、大衆的な人気を呼んだのであろう。

 そして、これは特筆しておきたいのだが、「必殺シリーズ」の制作には、多くの映画人が携わっているのである。まず、第1弾『必殺仕掛人』の第1話、第2話(1972年)を、映画『仁義なき戦い』を撮る直前の、あの深作欣二が監督しているのだ。また、三隅研次、工藤栄一、田中徳三、蔵原惟繕、貞永方久といった映画監督が参加し、脚本でも、石堂淑朗、早坂暁、野上龍雄、村尾昭ら映画界の作家達が筆を執っている。

 これには、日本映画が1970年代には既に斜陽の時代に入っていて、演出家や脚本家がテレビに活路を見出そうとしていたという背景があるのかもしれない。だが、一方では、制作者が、実力のある映画人を積極的に登用したことによって、映像的にも、物語的にも優れた作品を遺し、「必殺シリーズ」を、『水戸黄門』や『大岡越前』等々の正義のヒーローによる勧善懲悪を主調とした「テレビ時代劇」の範疇には収まらない、優れた「人間ドラマ」にまで高めたのだと捉えることもできる。

 では、人殺しを稼業とするアウトローを主人公としながら、あくまで大衆娯楽に徹した「必殺シリーズ」のどこが、優れた「人間ドラマ」だというのだろうか。

 私は、中学二年生のとき、当時放映していた『新必殺仕事人』(1982年)を初めて見て、たちまちその面白さに魅せられた。以来、シリーズが完結するまで見続け、また、旧作の再放送があると、全話ではないが、可能な限り見てきた。とはいえ、子どもの頃は、奇抜な殺し技や、スタイリッシュな映像美などを単純に楽しんでいただけで、物語やテーマは、あまり分かっていなかった。

 しかし、だいぶ年を取ってから(それは、東日本大震災以後、といってもいいのだが)、折に触れて見直してみると、「必殺シリーズ」が、いかに人間の本質の深いところまで描いていたのか、あらためて気づかされたのである。それは、どういうことなのか。これから、幾つかの作品を通して、考えていきたい。

 まず、押さえておきたいのは、第2弾『必殺仕置人』の第1話「いのちを売ってさらし首」(脚本野上龍雄、監督貞永方久。1973年)である。この作品は、その後のシリーズの方向性を決定づけ、「必殺の思想」ともいえる基本姿勢を明確に提示した、重要な一作なのである。
(本来なら、第1弾の『仕掛人』を取り上げるべきなのかもしれない。しかし、これは、池波正太郎の時代小説『仕掛人・藤枝梅安』を原作(原案)としており、傑作ではあるが、後のオリジナルの作品群とは、おもむきが異なるので、ここでは割愛する。)

 物語は、どしゃぶりの中、縄を掛けられた男が処刑場に引っ立てられる場面から始まる。男は必死に「俺じゃねえ!」と叫んで無実を訴えるが、抵抗むなしく、たちまち打ち首にされてしまう。彼は、火付けから、強盗、人殺しまで、悪行の限りを尽くし、「闇の御前」と呼ばれた男であった。場面変わって、夕暮れどき、小塚原(こづかっぱら)の獄門台に、処刑されたばかりの「闇の御前」の首がさらされている。そこへやって来た若い娘(お咲)が、男の首を目の当たりして、「おっ父!」と絶叫する。この凄絶なオープニングは、何度見ても圧倒される。

 その後、お咲が不審な男たちに追われているところを、たまたま出くわした「棺桶の錠」が助け出し、行きがかり上、彼女をかくまう。そのことを嗅ぎつけて、錠の仲間である「念仏の鉄」「鉄砲玉のおきん」「おひろめの半次」がやってくる。
 お咲は、郡山で百姓をしていたのだが、山津波で村が流され、そのために母親が死んでしまったので、江戸で働こうと父親(松蔵)と出てきたところ、すぐに父親が神隠しにあったという。
 そして、宿の人が、小塚原にさらされている首が、彼女の父親に似ているという噂話を聞きつけてきたので、すぐに行ってみると、確かに父親だったのだと、お咲は語る。驚いた錠たちは、彼女を連れて小塚原に向かう。

 いざ現場に着いてみると、獄門台にあったはずの首がそっくりなくなっていた。不審に思った鉄は、松蔵が「闇の御前」に顔かたちが似ていて、江戸に出てきたばかりで誰も知り合いがいないのをいいことに、捕らわれて身代わりに処刑されたのではないか、と推理する。そのことがバレたから、首を持ち去ったのだ。それなら、お咲が男たちに追われていることも辻褄が合うのだと。

 鉄と錠は、島流しになっていたとき、佐渡の役人として知り合った北町奉行所の同心・中村主水(もんど)に、そのことを伝える。主水は「金さえありゃ、地獄の沙汰もなんとやらで、黒が白になるのが奉行所だが、この話はあまりにひどすぎる」と絶句する。鉄は「お咲が、おやじの恨みを晴らしてくれたら三十両払うと錠に頼んできた」と、この話に乗るよう主水を誘う。憤りにかられた主水は、ことの真相を探るべく調査に乗り出す。

 分かったのは、「闇の御前」が、一度はお縄になったもののすぐに解き放しになり、いまも生きているということだった。そして、彼の表の顔が廻船問屋の「浜田屋庄兵衛」であることと、主水の直属の上司である筆頭同心・的場弥平次と昵懇であることが明らかになる。その的場は、「闇の御前」が死罪になったときの検分役で、この事件に深く関わっていたのだった。

 さらに、それを指揮したのが、北町奉行・牧野備中守(びっちゅうのかみ)だったのである。出世欲の塊である備中守は、将軍家の御側役にまで上りつめることを切望していた。それには多額の金が必要になることから、金づるとして、闇の御前=浜田屋を解き放しにしたのだった。浜田屋は、それに従うことを諾いながらも、商人としての取引として、江戸城への荷物の運搬全てを自分が一手に引き受けることを、備中守に約束させる。
 彼らの欲望のために、なんの罪もない松蔵は無惨にも処刑され、打ち落とされた首が娘に返されることもなく、虫けらの死骸のように、どこかに捨てられてしまったのである。

 主水たちは、父娘の恨みを晴らすべく、遂に彼らを仕置する。お咲の見ている前で、主水と錠が、闇の御前(浜田屋)と的場を殺す。鉄は骨接ぎ師の指技で備中守の背骨を外して立てなくし、喉骨を砕いて声を出ないようにして失神させる。そして、彼を、あらかじめ探しておいた若い女の死体とともに河原に捨て、相対死(心中死)に見せかける。備中守が目を覚ましたところで、鉄が「みんな、相対死で生き残った奴は、三日の間さらし者にするのが天下の御定法だ。どうだ、一つ俺達でやっちまおうじゃないか」と野次馬にけしかける。集まった群衆は、備中守に礫を投げつける。お咲は、生き恥をさらす備中守の姿を見て、これで気が済んだと、錠の胸に飛び込み号泣する。

 仕置を終えた主水や鉄は、言い出しっぺの錠に三十両を催促する。だが、金はなかった。そうでも言わないと鉄たちが動かないからと、嘘をついたのだ。「金でやりたくなかった」とうそぶく錠に鉄がつかみかかる。すると、半次が三十両の小判を手に帰ってくる。「お咲ちゃんが身を売ったんだ」と半次に聞かされた錠は、慌てて飛び出すが、彼女はもうどこにもいなかった。
 画面は、白粉と紅を塗られ、髪を丸髷に結われたお咲が、遊郭の格子窓の奥で、じっと座り込んで俯いている姿を映し出す。そこには、口笛の音が流れている。

 錠の吹く口笛の音はそのままに、場面は、彼が棺桶を作っている仕事場に移る。そこへ、主水、鉄、おきん、半次が入ってくる。「備中守は腹切って死んだぜ。これはおまえの取り分だ」と主水が言って、小判を棺桶の上に放り投げる。その金を受け取りもせず、黙々と棺桶を作る錠に、「俺達はな、これからもずうっと今度みたいな仕置をしていくことに決めた」と鉄が宣言する。そして、主水がこう続ける。
 「先の長い、汚ねえ仕事だ。向こうが悪(わる)なら、こっちはその上をいく悪にならなきゃいけねえ。俺達は悪よ、悪で無頼よ。磔(はりつけ)にされてもしょうがねぇくらいだ。だが、御上がその悪を目こぼしするとなりゃ、そいつらを俺達が殺らなきゃならねえ。つまり、俺達みてぇなろくでなしでなきゃ、できねえ仕事なんだ」 
 すぐに鉄が、
 「おまえみたいに、世のため人のためなんてきれいごと言ってたんじゃ、すぐにへたばっちまうんだよ。俺達と一緒にやる気があるんだったらこの金を取れ、やる気がないんだったら、どっか消えちまえ」
と、錠に決断を迫る。四人に見つめられる中、錠が金を取って懐に入れたところでストップモーションになり、この話は終わる。

 主水と鉄による、この決意表明は、シリーズ全体を貫く「必殺の思想」だといえる。この場面ですべてが決まったのだ。のさばる悪人を仕置し、虐げられた者の恨みを晴らすということは、およそ「正義」とはほど遠く、自分たちがさらなる悪人になるということなのである。それは、「世のため人のため」などという安っぽい詭弁で果たせるものではなく、「金のため」という、最も汚い理由で、強靱な意志をもってこそ、為し得ることなのだ。

 それだけではない。恨みを晴らすという行為は、それが成し遂げられたとき、必ずしも依頼人を幸福にするとは限らない。お咲がそうであったように、むしろ不幸のどん底に突き落としてしまうことがある。
 つまり、「必殺」は、勧善懲悪の時代劇のように、見終わって、「日々の憂さ晴らしができた」というわけにはいかない。もちろん、娯楽番組だから、痛快で面白い。だが、悪行の犠牲になった人間の悲しみや苦しみ、どうにもならない人間の矛盾を描く「必殺」は、見る者に、「ガス抜き」ならぬ「ガス溜め」の作用を及ぼすのだ。

 ところで、途中、お咲が「おらぁ、金なんて持ってねぇだ。誰が殺したか見当もつかねぇのに、恨みを晴らすなんて……。おらぁ、もういいんです!」と錠に訴えて、諦めようとする場面がある。
 錠は激昂して、「バカ野郎! おまえ、悔しくねぇのか。泥棒の身代わりに殺されちまったお父のこと、もう忘れちまったのか。おまえのお父はな、首と胴がバラバラになって、金輪際つながらねぇ死に方をしたんだ。そのお父のおかげで、いまごろ誰かがのうのうと酒をくらって生きてるんだ!」と怒鳴りつける。
 私は、ここに「必殺シリーズ」の一つの精神を見る。「恨み」を忘れるな、「怒り」を忘れるな、という精神を。


〈主な配役〉
念仏の鉄(山崎努)、中村主水(藤田まこと)、棺桶の錠(沖雅也)、鉄砲玉のおきん(野川由美子)、おひろめの半次(津坂匡章、現・秋野太作)、闇の御前・松蔵(大滝秀治)、お咲(今出川西紀)、牧野備中守(菅貫太郎)

〈使用参考文献〉
別冊テレビジョンドラマ『必殺15年のあゆみ』(放送映画出版・1988年)
深作欣二+山根貞男『映画監督深作欣二』(ワイズ出版・2003年)​​​​​​​
玉城入野(たまきいりの)
1968年東京都日野市生まれ。著書『フィクションの表土をさらって』(洪水企画)。詩歌・文芸出版社「いりの舎」代表。
 
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