古沢健太郎 音響論
「音と反復 4」
前回取り上げた「4:33」について。さまざまなテーマにおいて言及されているこの曲だが、一つ大きなポイントは楽音と雑音の境界を問い直したという点にある。
楽音とは人為的に作成、構築されたものが一般的にはそう呼ばれるだろう。「楽音」は素材に対してのみならずそれらの構成のされ方にも大きく関係がある。素材の持つ周波数の他の素材との数学的な調和、また時間軸上における計量可能なリズム基準の配置、などである。ある種の「形」として認識できるということはそれを抽象化して他者に伝達することがまた可能であるということだ。記譜あるいは口承の形であれ伝達の後に再現されたものはオリジナルとコピーのように両者にある種の同一性がなければならない。その同一性を担保するのは抽象化された「形」である。抽象化されたが故にそれは時に理論となり体系化される。細分化され発展を見せる。そしてまた異なる人間同士で「合奏」という形態の音楽体験を作り出すことができるのもこの抽象化の故である。特に「即興」の世界では重要だと思われる。
前稿で述べた「新しい」音楽の「形」とはなんであろうか。上記の抽象化を経ない音楽、つまりは具体的な音楽である。抽象化された分析、認識を飛び越して「それそのもの」の具体性が認識される音楽。反復ではなく具体的な差異。「4:33」において重要なのはそれが非楽音であると同時に一回性を持った体験であるということである。ケージは偶然性を用いた作曲において例えそこに西洋楽理においてベーシックな三和音が現れようともそれが人為的でない、偶然的なものであれば歓迎されると発言している。繰り返し可能な体験に比べると一度きりの体験は具体的である、と言えるかもしれない。「4:33」のように一回生、再現の不可能性が問題にされるならば「常に記憶喪失」といった状態を考えれば音楽体験は常に新しく具体的であると考えてよいだろうか。それは不毛だろう。それにその体験は音楽体験でなくてはならない。それが「音楽である」という認識の最低限のラインとして「音楽」に対する記憶や知識が必要である。いわゆる即興演奏やケージ的なチャンス・オペレーションによる一回性を持って音楽を具体的足らしめるのではなく、他の方法を持って具体的な音楽的体験を考えるのが本論の一つ目指すところであると以前も書いたが、そこで重要なのがいわゆる「楽音」ではない音だと私は考える。仮にその非楽音を「雑音」ではなく、音楽未満でありながらある種の音楽を構成するものというニュアンスを込めて「音響」と呼ぶことにする。音楽が抽象化と相性の良いジャンルであるとして、そのため抽象的な体験に陥りがち(それは良し悪しとはまた別である)であると考えるならば、音楽が具体的なものであるためには「楽音」は逆説的に音楽的すぎると言えるだろう。そしてその「音響」はいわゆるノイズミュージックのノイズとも「音響派」と呼ばれる一派のそれとも少し異なった扱いをされねばならないように思う。音楽体験を「具体的」にするために、「非音楽的」な音響とその効果や作用を考えていきたい。
「音楽」を「形」とするならそれに対し「音響」は「断片」である。次回はこの辺りから始めていければと思う。
楽音とは人為的に作成、構築されたものが一般的にはそう呼ばれるだろう。「楽音」は素材に対してのみならずそれらの構成のされ方にも大きく関係がある。素材の持つ周波数の他の素材との数学的な調和、また時間軸上における計量可能なリズム基準の配置、などである。ある種の「形」として認識できるということはそれを抽象化して他者に伝達することがまた可能であるということだ。記譜あるいは口承の形であれ伝達の後に再現されたものはオリジナルとコピーのように両者にある種の同一性がなければならない。その同一性を担保するのは抽象化された「形」である。抽象化されたが故にそれは時に理論となり体系化される。細分化され発展を見せる。そしてまた異なる人間同士で「合奏」という形態の音楽体験を作り出すことができるのもこの抽象化の故である。特に「即興」の世界では重要だと思われる。
前稿で述べた「新しい」音楽の「形」とはなんであろうか。上記の抽象化を経ない音楽、つまりは具体的な音楽である。抽象化された分析、認識を飛び越して「それそのもの」の具体性が認識される音楽。反復ではなく具体的な差異。「4:33」において重要なのはそれが非楽音であると同時に一回性を持った体験であるということである。ケージは偶然性を用いた作曲において例えそこに西洋楽理においてベーシックな三和音が現れようともそれが人為的でない、偶然的なものであれば歓迎されると発言している。繰り返し可能な体験に比べると一度きりの体験は具体的である、と言えるかもしれない。「4:33」のように一回生、再現の不可能性が問題にされるならば「常に記憶喪失」といった状態を考えれば音楽体験は常に新しく具体的であると考えてよいだろうか。それは不毛だろう。それにその体験は音楽体験でなくてはならない。それが「音楽である」という認識の最低限のラインとして「音楽」に対する記憶や知識が必要である。いわゆる即興演奏やケージ的なチャンス・オペレーションによる一回性を持って音楽を具体的足らしめるのではなく、他の方法を持って具体的な音楽的体験を考えるのが本論の一つ目指すところであると以前も書いたが、そこで重要なのがいわゆる「楽音」ではない音だと私は考える。仮にその非楽音を「雑音」ではなく、音楽未満でありながらある種の音楽を構成するものというニュアンスを込めて「音響」と呼ぶことにする。音楽が抽象化と相性の良いジャンルであるとして、そのため抽象的な体験に陥りがち(それは良し悪しとはまた別である)であると考えるならば、音楽が具体的なものであるためには「楽音」は逆説的に音楽的すぎると言えるだろう。そしてその「音響」はいわゆるノイズミュージックのノイズとも「音響派」と呼ばれる一派のそれとも少し異なった扱いをされねばならないように思う。音楽体験を「具体的」にするために、「非音楽的」な音響とその効果や作用を考えていきたい。
「音楽」を「形」とするならそれに対し「音響」は「断片」である。次回はこの辺りから始めていければと思う。
古沢健太郎(ふるさわけんたろう)
音楽家 1988年東京生まれ
アンビエント、ドローン、ノイズを軸とした楽曲を制作。
https://soundcloud.com/circlelikeq
ポエトリーリーディング等と共演のライブ活動も行う。
https://www.youtube.com/watch?v=T2aZanobVAY