古沢健太郎 音響論
「音と反復 3」
音楽とは一般的に世にある様々な音を加工、取捨選択、構成することでそこにある形を与えることである。あるものが「輪郭」を持った形として認識される一方、同じ「素材」を持ったものでもそのように捉えられることのないものがある。その差異は、私たちがそこに秩序やパターンを見出しうるかと言う点に大きくかかっていると思われるが、それらを読み取る能力は過去の音楽体験にある程度拠っている。もちろん、事物に何らかの規則性や秩序を見出す能力は先天的に備わっているというのも正しいと思われるが、今回音楽に限って言えばその後の聴取体験や教育、趣味嗜好によってかなり変化が現れるものと思われる。そしてまた音楽と非音楽の差はそれが演奏(再生)される状況にも左右される。一例としては、デジタル機器のエラー音は「グリッチ」と呼ばれ一種のノイズミュージックとして楽音化されているが、「製品化されているCDを再生してスピーカーまたはヘッドホンからそれが聞こえる(CDには「音楽」が記録されている)」「ステージでそのような音を用いたパフォーマンスがなされる(「ステージでは意図された音を「演奏」するものだ」)」という音楽外の状況はそれを音楽か否か判断する(あるいは音楽として聞こうと努める)のに実は大きく影響している。ジョン・ケージの「4:33」はコンサートホールのステージ上で上演されたから意味があった、というのと同様である。
このように音楽体験は聴取者の過去、記憶と強く結びついている。しかし一方で私たちは今まで意識されていなかった新しいものに気づきそれを認識することができる。音楽も同じように、単なる音響でしかなかったものが音楽的な体験として新たに立ち現れることが当然ありうる。そこでひとつ重要なのが音楽体験における予期の働きである。当然ではあるが新しい体験とは常にそれまでの経験とは異なると言う点で異常なものである。つまり予期における裏切りが生じている。そしてそれは「意外な展開」「新しい音作り」といったような形でどのような音楽にもある意味ではありふれたものとなっている。だが本論考ではもう少し「音楽」とされるものの外側、つまり非楽音、音響、ノイズ…etc.まで含めて音楽の「形」を捉えねばならない。
そこで次の展開として音楽そのものではなくそれが聴取、体験される環境、さらには音楽の中断や停止といった段階まで含めた「音楽的」たりうる音響体験を考える必要がある。
古沢健太郎(ふるさわけんたろう)
音楽家 1988年東京生まれ
アンビエント、ドローン、ノイズを軸とした楽曲を制作。
https://soundcloud.com/circlelikeq
ポエトリーリーディング等と共演のライブ活動も行う。
https://www.youtube.com/watch?v=T2aZanobVAY