古沢健太郎 音響論
序 「音と反復」
ある音がなんの音であるか、そしてまたそれがどの様な意味を持つかを判断する場合、今聴かれたその音と私たちの記憶との間には強い結びつきがある。その様な意味では、音響の聴取と認識は過去の記憶や体験の反復であるという事ができるであろう。過去の音と現在の音、それらを同一性または類似で結びつける事で私たちの聴取の多くは成り立っている。
電話の呼び出し音や、車のクラクション、あるいは誰かの声言葉といった私たちの生活の中にある音響とは別に、また音楽という音響の特殊な一領域において音の反復は特別な(音楽的な)意味または機能を持つ、というのは音楽に親しんでいる人ならば容易に納得できると思われる。比較的短い間隔における反復はリズムとして楽曲の律動、進行感、推進力でいわゆる音楽的な時間をもたらし、また規則的なリズムの反復は先に現れる音の予見を可能にする。そしてそれよりも比較的長い間をおいての音の反復は曲の構造構成、楽曲の全体像の把握の助けとなる。ポップスにおけるセクション(サビ、Aメロ等)の反復やクラシックの古典的作品において形式として定められている諸部分はそれらに関する知識さえあれば楽曲全体の構成構造を素早く把握することを可能にし、音楽の全体像やその他の要素の認識も容易になる。仮にそのような楽曲の決まりごとを知らずに曲を聴く場合、どうしてもその瞬間ごとの音響を聴くことに終始してしまいがちになり、互いの関係づけや楽曲全体の中での位置付けが見えづらくなりいわば「迷子」に近い聴取の体験となってしまうだろう。ピエール・ブーレーズは音楽と絵画を比較した上で、音楽的な全体とは瞬間瞬間の音響体験を事後的に顧みたうえで仮想的に統合されたものにすぎないと述べ、一般的に難解な現代音楽を体験し一定理解することの困難の要因の一つに上記の「迷子」状態への陥りやすさを挙げている。
「音楽において、時間の知覚、モジュールの知覚は(略)瞬間というものに、それも取り返しのつかない瞬間に基づいている。(略)私たちが感知するのは、瞬間であるか、あるいはせいぜい、ある瞬間と別のある瞬間との関係である。それで、もし拍動が規則的な場合には、次に何が来るかということの見当がつき、もしそうした拍動や、その拍動が私たちをある時点から別のある時点に連れて来たということを意識した場合には、回顧的に、何が起こったかということの見当がつく。最後にいたってようやく全体的な眺望が得られるわけだが、全体的とはいえ、仮想的な眺望である。(略)音楽作品の総体的な再構成は想像上の再構成である。」(ピエール・ブーレーズ『クレーの絵と音楽』笠羽映子訳、筑摩書房、1994)
その様な曲の全体像の把握するためには作品を繰り返し聴くことが必要であるが(楽譜を読む他は)、ただでさえ記憶に残りにくい現代音楽の楽曲であるがゆえにその繰り返しの間を少しでも空けてしまうとかすかな記憶や印象が薄れることで全体の把握はより困難になる。
この様に時間的な方向、流れを持ったある対象を把握する上で記憶およびそこに強く印象付けるための音響的な反復は重要な役割を持つ。私達は音楽の外でも様々な音響の反復を体験するが、その反復には様々なスパンがある。一日の上で何度も反復されるもの、一月、一年、あるいは何かの音がきっかけで何十年前もの記憶が急に蘇る事もあるだろう。そこには音楽的な意味での反復と通底するもの、また逆に日常的に体験する音響の反復が知らず普段の音楽体験(作曲も聴取も)にもたらしているものがあるように思われる。
巨大なテーマであり、さし当りのものでも結論が出るかどうかさえ定かではないが、今後「音響と反復」について考えていきたい。
古沢健太郎(ふるさわけんたろう)
音楽家 1988年東京生まれ
アンビエント、ドローン、ノイズを軸とした楽曲を制作。
https://soundcloud.com/circlelikeq
ポエトリーリーディング等と共演のライブ活動も行う。
https://www.youtube.com/watch?v=T2aZanobVAY