浅野言朗 皇居論①
01

日本の歴史を振り返った時に、都、は、どう移り変わっていただろうか? ここには、皇居があるところが都である、という立場もあるにはあって、例えば、鎌倉を古都、と呼称することがあるが、天皇の住まい、すなわち     皇居は鎌倉に移動したわけではないので、都ではなかった、という説。同じように、江戸には天皇の住まいがな     かったので、あくまで、都は京都であった、という考えたもあるだろう。

定義が難しいところはあるが、ここでは、大まかに、四つの段階にまとめてみよう。


(0)前史
(1)794 年まで
(2)平安京以降江戸に都が移るまで
(3)武家政権が、幕府を皇居の場所とは別に置いた時代(鎌倉時代と江戸時代)
(4)明治時代以降、東京

まあ、とにかく、いろいろな考え方が、あるにはある。
今も、都は京都である、という考え方もある。今も京都に御所があって、すなわち、江戸から明治なる時に、遷     都された訳ではなく、奠都されたのである、という考え方である。すなわち、都は、まだ、京都にある。

今回は、皇居を巡る空間論なのだから、その辺りのことは、比較的どうでもよいが、、それぞれをもう少し踏み     込んで考えると、

(0)前史では、都が定義されていなかった。
(1)794 年までは、都らしきものが定義されて、比較的短期間に近畿地方の中で、移動していった。
(2)平安京以降江戸に都が移るまで
(3)武家政権が、幕府を皇居の場所とは別に置いた時代(鎌倉時代と江戸時代)
(2)と(3)は紛らわしい。基本的には、天皇の住まいは、ずっと京都にあって、しかしながら、武家政権が     出来るようになると、幕府の置かれた位置によって、都が二つあるかのようになった。
例えば、室町時代は、幕府も宮城も京都であるが、鎌倉時代や江戸時代は、幕府は関東に置かれた。

(4)明治時代以降、東京

これが秀逸であって、武家政権の中心地、すなわち、城に、天皇が移り住んでくる、という不思議なことが行わ     れた。
今回の論は、この四つの状態がありえた、という前提に立って、比較を行っていく。いわゆる、権威は天皇に、
権力は別に、という状態がどの辺りからかというと、潜在的には当初からあったのだろうが、征夷大将軍が天皇   からのお墨付きをもらう、ということで考えると、

・公家政権においても、藤原氏と天皇家の棲み分けのように、二極構造は存在していた。
・武家政権において、天皇家とのその二極構造は、洗練発展された。
・明治時代は難しい。つまりは、大政奉還なので、二極化が一極に戻された、ということなのだが、二極化に     も一極化にも見える。
・敗戦後、民主主義政権と象徴天皇の間で、かたちを変えて、二極化は維持されている。
この権力構造と、首都を巡る空間構造は、まあまあ、リンクしている。
平安京や平城京は、あまり面白くない。中国にならって、宮城を中心とした、整然とした碁盤目の都市を計画し     た、ということである。
話として一番面白いのは、江戸から東京にいたる過程。


02
それぞれのフェーズについて、考えなければならないことは、四つ。
(1)なぜ、短期間に次々、遷都を繰り返したのか?
(2)なぜ、平安京は、1000年の都になったのか?
(3)皇居のある都に対して、武家の都は、どのような場所でありえたか?
(4)居抜きのようにして使われた、江戸城の、その、不思議なありようは?
ここで、上二つは、おそらく、歴史家に論じ尽くされたろうから、下二つが、主な主題となる。

ここで、(2)は、実は、話は京都に留まらない。京都を中心に、紀伊半島や近畿の広域に広がるように、領域の広域的な編纂が行われた、と言える。その編纂は、物語的な厚みを帯びている。
例えば、
・京都から西に向かうと、大阪や堺、神戸があって、それが実質的な経済的な玄関口、ということになる。
・南へは、奈良があるが、
・さらに東南の方向には、伊勢、熊野、那智があって、いわば、神話の領分が広がっている。
・北東には、近江がある。
そのような領域的厚みの編纂は、京都という一カ所に1000年にわたって、皇居があり続けた、ということと     無縁ではないだろう。

03

しかし、まずは、鎌倉のことから始めたい。
鎌倉は、実に画期的な都だった。すなわち、皇居を持たない、日本で初めての首都である。
ついでに言うと、ついに皇居を持つことのなかった、唯一の首都である、ということにもなる。
(1) 京都は、皇居を前提につくられた都である。
(2) 鎌倉は、皇居の不在性によって定義される都である。
(3) 江戸・東京は、皇居の不在性を根拠に作られたが、やがて、皇居を招き寄せた唯一の都である。
ということで、京都、鎌倉、江戸は、精確に三角形をなす。


これを読む者は、鎌倉に敬意を払うように。(笑)

鎌倉を歩いていると、どこが中心か、分かりづらい。空間的には、鶴岡八幡宮が中心に見える。

鎌倉をめぐる、………。

ところで、二極構造は、天皇制の残存する日本特有の現象、というわけではない。ヨーロッパは聖と俗の権力が     別々にあって、それが都市の構造に反映したりもしている。

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鶴岡八幡宮(江戸時代)
浅野言朗(あさのことあき)
1972年東京生まれ。建築家・詩人。
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