浅野言朗 皇居論
序 皇居について 

皇居論、というお題を頂いたが、これは、大変な難題である。
思考錯誤の結果、何回かに分けて、回り道をしながら、考えてみたい。まずは、<橋>と<坂>ということから、考え始めてみたい。
<橋>は、平面的な離隔を克服する手段であるが、<坂>は、垂直方向の離隔を克服する手段である。
都市は、水のあるところに出来る、となれば、その水の流れを水平方向に乗り越えたり、水を求めて高低差を駆け下りたり、ということが都市にとって不可欠な動きとなる。
すなわち、<橋>と<坂>は、異なった領域の間、領域Aから領域Bへの横断という性質を持つが、橋は、水の流れに直交して、水路や川を横断するのに対して、坂は、等高線に直交して、高低差を横断する、ということになる。ベネチアのように、海上に埋め立てられた島々を繋げて行った、主として<橋>によって成り立っている都市もあれば、尾道のように<坂>が隅々に張り巡らされた、<坂>によって成り立っている街もある。
私が通っていた中学校は東京都の港区にあって、一年生の時に学校の近くを巡って郷土の地理や歴史を辿ってみよう、という課外授業があった。その時に、この辺りは、<坂>が多く、一つ一つの<坂>には昔から名前が付されていて、それぞれの<坂>には、黄色い柱状の説明板があるので、見てみると面白い、という話が先生からなされた。その時はそういうものか、としか思わなかったが、そのことの深い意味に気付いたのは、大学で建築を学び始めて江戸から東京へいたる都市の歴史と空間構造について、知るようになってからである。(また、その同じ先生は、近辺に、目黒、白金、赤坂、青山と色の付いた地名の多いことにも言及されていた。)
江戸(東京)の中心は、多摩から続く丘陵の連なりの東端から、平野部へと広がっており、江戸城を挟んで、俗に、西の山の手と東の下町の二つの対照的な領域を併せ持つ。ということは、<橋>の領域と<坂>の領域を架橋する位置に、江戸城(皇居)がある、ということになる。この、<橋>の領域と<坂>の領域の、異なった空間構造の調停装置としての皇居というのが、論考のポイントの一つ。
ところで、江戸時代から、明治への移行、あるいは、戦前から戦後への移行で、都市の構造は変質する。にもかかわらず、江戸(東京)の中心部は、市民が入れない聖域として、保存された。この禁忌の領域の設定に関することが、論考のポイントの二つ目となる。(中世ヨーロッパでは、街の中心に教会があって、誰にでも開かれている。むしろ、宮殿は街の外れにあって閉ざされていることが多い。一方、江戸時代の城下町は、街の中心に城があって、それは庶民には、閉ざされており、入ることのできない中心であった。同じ城下町であっても、地方都市の多くでは、時代の変化の中で、それらの入れない中心は、開放された。例えば、城址公園として、美術館や図書館が建てられるなどして。)

 1752 map of Edo or Tokyo, Japan. Issued by Bellin and Schley for Prevost's Histoire Generale des Voyages

浅野言朗(あさのことあき)
1972年東京生まれ。建築家・詩人。
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