竹内敏喜 『魔のとき』以降
ヴォルフィー変奏 7 (二〇二一年四月二一日〜)
43
年に一度の帰省のときにしか会っていなかったから
五カ月が過ぎた今でも、父が亡くなったという実感がない
ただ、ゆっくりと思い出すと
もう話ができないと痛切に感じられ、絶句する
そうして父の好きだった『アビイ・ロード』を聞いている
音楽は人類に分け与えられた財産だから
心を開けば、そこで父とともに身をゆだねることができる…
いよいよサスペンスのはじまりだ
44
例えば夏のさかり、閉めきった部屋、天窓の下
サウナのように汗をたらし、仁王立ちで読書をしていると
いつしか暑さを感じなくなるが
あれは壊れかけた細胞を安楽死させる方法だろうか
入浴すると疲れのとれるってことも不思議でならない
顧みれば再生のための湯船として睡眠を賞賛したくなる
心のすみにこびりつく切ない想いを夢魔が整頓し…
朝だけは気分がいいと目覚めるのは、美しい徒労だけれど
45
「人間」なんて夜の派生語でしかないから
罪人とは罪を犯したと証明される戸籍登録者ではなく
闇を深くしすぎる者であろうとつぶやき
それこそ人間らしい行為だと気づく
密室のような社会では、光は人工的にまぶしくなるばかり
人々はその労働に慣れることで、光源を愛の対象とした
母親だって胎内に数カ月も身ごもっていなければ…
わが子に愛されたかどうか知れたものではない
46
財産の意味するものも変わった
収穫を皆にふるまうのが大人のふるまいだった時代において
過分に蓄えることは、蔑視の対象だった
家族や知人は音楽のように飛び跳ね走り転がって休符さえ演じていた
合法的に客たちから集めた金銭を
さらに多くの金銭へと増やす能力が賞賛される現代
巨額の資産をもつ者は政治的に有利な立場にあると見られているが…
金のぶつかり合う騒音で、他の音楽を圧倒しているにすぎない
47
もはや冒険心はひとかけらも残っていない
愚かしくも悲しすぎる夢にぶら下がっているだけ
夜もふけて、ページをめくっていた指が
目薬のキャップをはずし
天を向く濁った目の、それぞれに一滴をひろげた瞬間
自分の臨終にみつけられている
それから海へと映るおのれに、腹を立てた颱風の
目もとだけは穏やかなさまを想像してみる…
(48)
「私に願い、せがみ、じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の
姿が、たえず私の目から離れないのです
私も作曲をしている方が休んでいるより疲れないので
続けてはいます」
「それに、もうびくびくすることもありません
何をするにつけても、もう最期の時が告げているのを感じます
自分の才能を楽しむ前に、終わったのです」
ダ・ポンテ宛のこの手紙、書き手が彼なのかどうかは不明だという
49
…川を眺めると、いつも死体が流れていた
横たわった魚はのろのろと回転し、忘却の時間に穴があく
山をのぼり、くだり、近道をしようとしたから
ひょいと、もとの入り口に出る
着ぶくれする春はたそがれ
脱ぎ捨てた記憶は裏返ったまま
夏へまぎれこんだ秋に胸の痛みを感じた日々が懐かしい
SHUT! 世界は発光せよ、その影は心となれ
年に一度の帰省のときにしか会っていなかったから
五カ月が過ぎた今でも、父が亡くなったという実感がない
ただ、ゆっくりと思い出すと
もう話ができないと痛切に感じられ、絶句する
そうして父の好きだった『アビイ・ロード』を聞いている
音楽は人類に分け与えられた財産だから
心を開けば、そこで父とともに身をゆだねることができる…
いよいよサスペンスのはじまりだ
44
例えば夏のさかり、閉めきった部屋、天窓の下
サウナのように汗をたらし、仁王立ちで読書をしていると
いつしか暑さを感じなくなるが
あれは壊れかけた細胞を安楽死させる方法だろうか
入浴すると疲れのとれるってことも不思議でならない
顧みれば再生のための湯船として睡眠を賞賛したくなる
心のすみにこびりつく切ない想いを夢魔が整頓し…
朝だけは気分がいいと目覚めるのは、美しい徒労だけれど
45
「人間」なんて夜の派生語でしかないから
罪人とは罪を犯したと証明される戸籍登録者ではなく
闇を深くしすぎる者であろうとつぶやき
それこそ人間らしい行為だと気づく
密室のような社会では、光は人工的にまぶしくなるばかり
人々はその労働に慣れることで、光源を愛の対象とした
母親だって胎内に数カ月も身ごもっていなければ…
わが子に愛されたかどうか知れたものではない
46
財産の意味するものも変わった
収穫を皆にふるまうのが大人のふるまいだった時代において
過分に蓄えることは、蔑視の対象だった
家族や知人は音楽のように飛び跳ね走り転がって休符さえ演じていた
合法的に客たちから集めた金銭を
さらに多くの金銭へと増やす能力が賞賛される現代
巨額の資産をもつ者は政治的に有利な立場にあると見られているが…
金のぶつかり合う騒音で、他の音楽を圧倒しているにすぎない
47
もはや冒険心はひとかけらも残っていない
愚かしくも悲しすぎる夢にぶら下がっているだけ
夜もふけて、ページをめくっていた指が
目薬のキャップをはずし
天を向く濁った目の、それぞれに一滴をひろげた瞬間
自分の臨終にみつけられている
それから海へと映るおのれに、腹を立てた颱風の
目もとだけは穏やかなさまを想像してみる…
(48)
「私に願い、せがみ、じりじりしながら私の仕事をせきたてるあの人の
姿が、たえず私の目から離れないのです
私も作曲をしている方が休んでいるより疲れないので
続けてはいます」
「それに、もうびくびくすることもありません
何をするにつけても、もう最期の時が告げているのを感じます
自分の才能を楽しむ前に、終わったのです」
ダ・ポンテ宛のこの手紙、書き手が彼なのかどうかは不明だという
49
…川を眺めると、いつも死体が流れていた
横たわった魚はのろのろと回転し、忘却の時間に穴があく
山をのぼり、くだり、近道をしようとしたから
ひょいと、もとの入り口に出る
着ぶくれする春はたそがれ
脱ぎ捨てた記憶は裏返ったまま
夏へまぎれこんだ秋に胸の痛みを感じた日々が懐かしい
SHUT! 世界は発光せよ、その影は心となれ
竹内敏喜(たけうちとしき)
詩人。1972年京都生まれ。詩集に『翰』(彼方社、1997年)、『風を終える』(同、1999年)、『鏡と舞』(詩学社、2001年)、『燦燦』(水仁舎、2004年)、『十六夜のように』(ミッドナイト・プレス、2005年)、『ジャクリーヌの演奏を聴きながら』(水仁舎、2006年)、『任閑録』(同、2008年)、『SCRIPT』(同、2013年)、『灰の巨神』(同、2014年)。